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第15章 ファンタジア

 そこには、床がなかった。


 天井も、壁も、地面もない。

 ただ、薄い紙片と光の粒と、誰かの記憶の欠片が、ゆっくり漂っていた。


 余白層の未定域。


 黒い書庫の奥にありながら、黒い書庫よりも静かな場所だった。

 本棚はない。索引もない。ページ番号もない。

 まだ本になっていないもの。

 なれなかったもの。

 誰のものとも確定されていないもの。

 そういう断片が、雪のように降っては、途中で止まり、また別の方向へ流れていく。


 はつかは、その中心に立っていた。


 いや、立っているというより、立っていることにしていた。

 足元には何もない。けれど、彼女が「ここにいる」と思う場所に、薄い水面のような光が広がる。そこへ靴底が触れ、かろうじて立っている感覚を作っている。


 目の前には、ジアがいた。


 異典層の記述魔導士。

 白い翼型の髪飾り。

 淡い灰茶色の髪。

 術式紙を抱えた細い指。


 ジアもまた、不安定な光の上に立っていた。


 二人の間を、記憶が漂う。


 白い紙で折った鳥。

 冬の窓。

 誰かに髪を結われる感触。

 初めて術式文字を読んだ日。

 図書室のカウンターに差す夕日。

 貸出カードに押された日付印。

 緑青色の本の表紙。

 名前のない少女が、廊下の隅で膝を抱えている影。

 誰にも使われなかったリボン。

 消えた集合写真。

 火傷のない指先。

 火傷を覚えている指先。


 どれがジアのものなのか。

 どれがはつかのものなのか。

 どれが余白へ消えた少女たちのものなのか。


 境界は、最初からなかったのかもしれない。


 はつかは、胸元で手を握った。


「ここは、怖いです」


 正直に言った。


 ジアは少し驚いたように瞬きし、それから頷いた。


「私も怖いです」


「ジアさんも?」


「はい。ここには、私の欠けたものがたくさんあります。でも、どれが私のものだったのか、もう分からない。分からないのに、全部が懐かしい」


 ジアは、漂ってきた紙の鳥へ手を伸ばしかけた。


 その指が触れる前に、紙の鳥は二つに割れた。

 一つはジアの幼い記憶の色を帯び、もう一つははつかが図書室で折ったしおりの記憶へ変わる。さらに小さな羽根が数枚、名前のない少女たちの笑い声になって散った。


 ジアは手を引いた。


「触ると、取ってしまいそうです」


「私も、触ると消してしまいそうです」


 二人は、同じ記憶を前にして、どちらも動けなかった。


 ここに来る前、余白門は強制照合を進めていた。

 リョウとファンタ、カイとカイン、ミレシアと王統、レムと最終悪、セヴランと正文の騎士。

 すべての名前が、正しい役割へ寄せられようとしていた。


 そして、はつかとジアも。


 一人の正典記述者兼ヒロイン。


 統合されれば、苦痛は残らない。

 ジアは完全になり、はつかは安定する。


 その言葉は、今も二人の間に浮かんでいる。


「私は」


 ジアが言った。


「まだ、少し思っています」


 はつかは顔を上げる。


「統合すれば、楽になるかもしれないと?」


「はい」


 ジアは逃げなかった。


「欠けているのは、怖いです。自分の家名を知らない。小さい頃のことが、霧の向こうにある。術式の索引に穴があって、治せるはずのものが治せないかもしれない。カインさんの傷も、私に欠けがなければもっと違ったのではないかと考えてしまう」


 はつかは、ジアの言葉を聞いていた。


 胸が痛む。

 それは、自分を責める痛みではない。

 ジアが抱えてきた欠落の重さが、初めて自分の中に少しだけ入ってきた痛みだった。


「私は」


 今度は、はつかが言った。


「ジアさんに戻れば、終わるのではないかと考えました」


 ジアの表情が揺れる。


「終わる?」


「はい。記録が剥がれる怖さも、写真から消える怖さも、自分の思い出が誰かのものかもしれない怖さも。ジアさんに戻れば、私は悩まなくて済むのではないかと」


「それは」


 ジアは苦しそうに言葉を探した。


「それは、死にたいという意味ですか」


 はつかは、すぐには答えなかった。


 未定域に、図書室の夕方が一瞬流れ込む。


 貸出カウンターの内側。

 御影透子が奥で本を整理している。

 はつかは、返却本を分類ごとに分けている。

 誰も彼女を見ていない。

 でも、そこにいる。

 いることを、自分で何度も確認している。


 はつかは、小さく首を横に振った。


「消えたいわけではありません」


 その答えに、自分でも少し驚いた。


「でも、消える方が簡単かもしれないと、思いました」


 ジアは、胸元の髪飾りを握った。


「それは、聞くのがつらいです」


「すみません」


「謝らないでください。たぶん、言ってもらわないと分からなかった」


 ジアは、漂う記憶を見つめた。


「私は、あなたを返してほしかったんじゃない」


 はつかは息を止めた。


 ジアの声は震えていた。


「失くした自分が怖かったんです」


 未定域に、ジアの記憶が開いた。


 記述院の小さな部屋。

 幼いジアが、術式文字を読む練習をしている。

 隣には誰かがいるはずなのに、顔がない。

 名前を呼ばれたはずなのに、音が欠けている。

 家名を書こうとして、手が止まる。

 周囲の大人は「独立記述魔導士だから家名より術式名が大事だ」と言う。

 ジアは笑って頷く。

 でも、夜になると、自分が何を失っているのか分からないまま泣いている。


 別の記憶。


 治癒術の実習。

 同級生たちが、基礎索引をすらすら引いていく。

 ジアだけが、ある参照番号で毎回止まる。

 理由が分からない。

 努力不足だと思い、夜遅くまで練習する。

 指先を何度も焦がす。

 でも、火傷の記憶だけが、なぜか自分のものとして残らない。


 また別の記憶。


 カインの左脚を治療しているジア。

 血管を閉じ、骨片を固定し、痛覚を遮断し、感染を防ぐ。

 できることを全部やった。

 それでも完全には治せない。


 ジアは、その場で自分の欠けている術式索引を呪った。


 はつかは、その記憶を見た。


 ジアは明るく、少し抜けていて、時々天然で、けれど誰よりも自分の欠落を怖がっていた。

 それを隠すために、何度も立ち上がってきた。

 自分は治癒術師だと、記述魔導士だと、自分に言い聞かせるように歩いてきた。


「ジアさん」


 はつかは呼んだ。


 ジアは顔を上げる。


「あなたが、私を取り戻したいと思ったことを、私はまだ怖いです」


「はい」


「でも、それが私を消したいからではなかったことは、少し分かりました」


 ジアの目に涙が浮かぶ。


「私は、あなたに奪われるのが怖かった」


 はつかは続けた。


「でも、あなたがいたから私が生まれたことまで、否定したくはありません」


 ジアは、泣きそうな顔で笑った。


「それを言われると、もっと泣きそうです」


「泣いてもいいと思います」


「はつかさんは、泣かないんですか」


「泣き方が、よく分かりません」


「それは、私の欠落かもしれません」


 ジアが言った。


 はつかは少し目を丸くする。


「どういう意味ですか」


「私、泣くのが下手なんです。泣く前に記録しようとします。自分がどう感じているか、先に分類しようとしてしまう」


「……似ていますね」


「はい。似ています」


 二人は、初めて少しだけ笑った。


 その笑いは、和解と呼ぶには小さすぎた。

 でも、統合ではない別の何かが、そこで生まれ始めていた。


     *


 未定域に、今度ははつかの記憶が開いた。


 半年間の図書室。


 まだリョウが彼女を覚えていなかった頃。

 他の生徒たちは、はつかを自然に受け入れている。

 席順表にも名前があり、図書委員補佐の記録もあり、集合写真にも写っている。

 だが、はつか自身は、その自然さを信じていない。


 朝、教室へ入る前に、自分の名前が黒板横の名簿にあるか確認する。

 昼休み、図書室の貸出端末に自分の利用者番号が残っているか確認する。

 放課後、御影透子が「今日は帰りなさい」と言うまで、本棚の整理を続ける。

 誰かに話しかけられるたび、安堵する。

 誰にも話しかけられない日は、帰り道で自分の手を何度も見つめる。


 緑青色の本を抱えて眠った夜。

 写真に写る自分を確認して、ようやく息を吐いた朝。

 透子が出した温かいお茶を、両手で包んだ夕方。

 リョウだけが自分を覚えていないと分かり、怖さと怒りと奇妙な期待が同時に生まれた瞬間。


 ジアは、その記憶を見ていた。


 はつかは、ただ作られて置かれていたわけではない。


 存在を保つために、毎日、細い糸を握りしめていた。

 誰かの記録に寄りかかりながら、それでも自分で立とうとしていた。

 仮固定の少女は、仮のまま生きていた。


「はつかさん」


 ジアは言った。


「あなたは、生きています」


 はつかは、少しだけ困ったような顔をした。


「そう言われると、まだ怖いです」


「はい」


「でも、ありがとうございます」


 ジアは頷いた。


 そこへ、名前のない少女たちの記憶が漂ってきた。


 白いワンピースの裾。

 赤い髪留め。

 折れた鉛筆。

 誰かの妹。

 誰かの同級生。

 誰かの物語で使われなかった少女。

 現実層のどこかで記録されなかった少女。

 異典層で役割を得られず、術式の補填素材にされた少女。


 彼女たちの声は、はっきりした言葉にならなかった。


 ただ、いる。


 自分もいた、と伝えようとしている。


 はつかは、その断片に手を伸ばした。


 今度は、奪うためではない。

 返すためでもない。


 触れるために。


 紙片は逃げなかった。

 はつかの指先に、小さな温度が宿る。


「この記憶たちは」


 はつかは言った。


「私のものではないかもしれません。でも、私を作るために使われたなら、私が忘れないでいたいです」


「私も」


 ジアが手を伸ばす。


「自分のものとして取り戻すのではなく、誰かがいた記録として、残したい」


 未定域に、淡い光が広がった。


 緑青色。

 それは、はつかの《余白校訂録》の色。


 その隣に、ジアの記述魔法の淡い金色が重なる。


 混ざらない。

 互いを塗り潰さない。

 ただ、隣り合って輪郭を照らし合う。


「統合ではなく」


 ジアが言った。


「相互署名」


 はつかが頷く。


「互いを、互いとして記録する」


「失くしたものを返せ、ではなく」


「作られたものだから戻れ、でもなく」


 二人の前に、二枚の白紙が現れた。


 一枚は、ジアの術式帳の頁。

 もう一枚は、はつかの余白校訂録の頁。


 ジアは筆を取った。


 手が震えている。


 家名を取り戻せるかもしれない。

 そう言われた。

 完全な記述魔導士になれるかもしれない。

 欠けた索引も、幼い記憶も、戻るかもしれない。


 けれど、それを今ここで求めれば、はつかの存在を再び「元は私のもの」と呼び寄せてしまう。


 ジアは、ゆっくり息を吐いた。


「私は、まだ家名が欲しいです」


 はつかは頷く。


「はい」


「でも、家名がない私も、今まで生きてきました」


「はい」


「だから、今は」


 ジアは白紙へ署名した。


 ジア。


 それだけ。


 家名のない名前。

 欠けたまま、それでも彼女が選んできた名前。


 その文字が、淡い金色に光った。


 はつかは、もう一枚の頁を見る。


 出生原資料はない。

 本当の幼少期はないかもしれない。

 住民記録も、学籍も、誰かが整えたものかもしれない。


 それでも、図書室で生きた半年がある。

 怖がったこと。怒ったこと。拒んだこと。選べないままここに立ったこと。


 はつかは筆を取った。


「私は、原資料がありません」


 ジアが言った。


「はい」


「それでも、署名していいんですか」


「いいかどうかは、私が決めます」


 はつかは、そう答えた。


 そして、白紙へ書いた。


 廻宵はつか。


 文字は、最初少し震えた。

 だが、最後の「か」を書き終えた瞬間、緑青色の光が頁の端から広がった。


 二つの署名が、未定域の中心で向かい合う。


 ジア。

 廻宵はつか。


 同じではない。

 一つにもならない。

 けれど、互いを否定せずに並んでいる。


 その間に、術式が生まれた。


 ジアの《仮記述》。


 正典に存在しない選択肢へ、一時的な形を与える術。

 まだ確定していないものを、なかったことにせず、仮の輪郭として立たせる記述。


 はつかの《余白校訂》。


 矛盾を抱えた存在を、すぐに削除せず、保留として支える校訂。

 正しいか間違いかに分ける前に、そこにいることを認める余白。


 二つの術式は結合した。


 統合ではない。

 結合。


 一本の線ではなく、二本の線が互いの端を結び、中央に小さな空白を残す形。


 その空白は、欠落ではなかった。


 選べる場所だった。


     *


 未定域が開いた。


 リョウたちのいる統合領域へ、緑青と金の光が流れ込む。


 図書室の白紙が、すぐに正典へ取り込もうと震える。

 だが、二つの署名は、白紙に吸収されなかった。


 ファンタが、光の中から現れたジアを見つける。


「ジア!」


「はい、います」


 ジアは少しふらついたが、自分で立った。


 ファンタは手を伸ばしかけ、途中で止める。


「支えていい?」


 ジアはきょとんとした。


「聞くようになりましたね」


「最近、怒られるから」


「では、少しだけお願いします」


 ファンタは慎重に彼女の腕を支えた。


 その横に、はつかも戻ってくる。


 リョウが駆け寄る。


「はつか」


「はい」


「触っていいか」


「今回は、支えてください」


「分かった」


 リョウは彼女を支えた。


 はつかの輪郭は、まだ完全に安定しているわけではない。

 しかし、前より薄くはない。

 彼女自身が、自分の名前を握って戻ってきたように見えた。


 カインが重層路図を見て、目を細める。


「新しい線が増えた」


 カイの声が病室から入る。


『どんな線?』


「一本ではない。二本が並走して、間に空白を残している」


『それ、道なのか?』


「道にする」


 カインはそう言って、測路杖で線を拾った。


 ジアとはつかの術式が、重層路図に触れる。


 正典にない選択肢へ仮の形を与える《仮記述》。

 矛盾を抱えた存在を保留する《余白校訂》。


 それは、余白門の性質そのものへ干渉し始めた。


 余白門は、これまで二つの極端な意味を持っていた。


 神筆会にとっては、余白を削除し、正典へ統合するための出口。

 レムにとっては、削除されたものをすべて帰還させる入口。


 だが、二つの術式は、そのどちらでもない可能性を示した。


 個体ごとに、行き先を選ぶ門。


 戻る。

 残る。

 眠る。

 名前を変える。

 まだ決めない。

 誰かとつながるが、統合はしない。

 正典へ入るが、役割を固定されない。

 余白に留まるが、消えたものとして扱われない。


 そんな未確定の選択肢が、余白門の縁に小さく灯り始めた。


 ミレシアが王杖を握り、息を呑む。


「これは、公示ではなく選択肢の提示ですね」


「はい」


 はつかが頷いた。


「まだ、仮です」


 ジアも続ける。


「安定していません。正典にも、余白にも、まだ押し潰されます」


 ファンタが光の線を見つめる。


「でも、道はある」


 リョウは、その言葉を聞いて黒いノートを見た。


 自分が書くべきものは、結末ではない。

 誰かをどこへ行かせる文章でもない。

 選べる余地を、消さずに残すための文章。


 その時、ジアがふと顔を上げた。


「……あ」


 ファンタが振り返る。


「どうした?」


「いえ、今さらなんですけど」


「今さら?」


 ジアは、少しだけ照れたように笑った。


「ファンタ、ジア……続けて書くと、ファンタジアですね」


 場が一瞬、静まり返った。


 ファンタは目を瞬く。


「今それを言うのか」


「今だからです」


「結構大事な場面だと思うんだけど」


「だからこそです」


 ジアは笑った。


 前より少しだけ、泣きそうで、でも確かに明るい笑顔だった。


「完成していないから、素敵なんですよ」


 ファンタは、言葉を失った。


 リョウも、はつかも、カインも、カイも、ミレシアも、透子も、その言葉を聞いていた。


 ファンタジア。


 一つの正しい物語ではない。

 未完成で、揺れて、複数の旋律が重なり、時々ぶつかり、それでも消えずに鳴っているもの。


 ファンタは、少しだけ顔を赤くした。


「……名前で遊ばれてる気がする」


「遊びではありません。発見です」


「ジアはたまに、すごく大事なことを変な角度から言う」


「褒めていますか」


「たぶん」


 カインが、測路杖に体重を預けながら言った。


「ファンタジアか。正典というより、即興曲だな」


『お、かっこいい』


 カイが病室から反応する。


『でも、それタイトルっぽいな。リョウ、書くなよ。勝手に決めるなよ』


「書かない」


 リョウは即答した。


 そして、少しだけ考えてから言い直す。


「いや、書くかもしれない。でも、勝手には決めない」


『よし』


 はつかが、小さく笑った。


 その笑いが、未定域の光を少しだけ強くした。


     *


 余白門の縁で、レム=ネグラがその術式を見ていた。


 黒い外套の裾に、欄外の文字片が揺れている。

 彼の背後には、黒稿体たちの気配があった。戻りたい者、怒っている者、ただ読まれたい者、眠りたい者。声は一つではない。はつかに指摘された通り、レムが代表しきれるものではなかった。


 レムは、緑青と金の線を見る。


「個体ごとに、行き先を選ぶ門」


 彼は静かに呟いた。


「美しい理想だ」


「理想だけではありません」


 ミレシアが言った。


「まだ形は弱いですが、術式として成立しかけています」


「成立させるには、余白層側の承認が必要だ」


 カインが重層路図を読みながら言う。


「門の片側は正典化の力で押さえられている。もう片側は黒稿体の流入圧だ。そこを制御できるのは」


 彼はレムを見た。


「あなたしかいない」


 レムは、少しだけ笑った。


「つまり、私に協力しろと」


 ファンタが剣を下ろしたまま言う。


「そうです」


「私が、採用された者たちのために?」


 リョウが前へ出る。


「採用された者だけじゃない。黒稿体のためでもある」


 レムの目が細くなる。


「君がそれを言うのか」


「言う」


 リョウは、はつかとジアの署名を見た。


「全部戻すんじゃなくて、全部消すんじゃなくて、選ぶ。それをやるには、余白側の声が必要だ。レムが代表するんじゃなくて、聞くために」


 レムは、黙った。


 はつかも一歩前へ出る。


「レムさん」


 彼女は言った。


「私は、あなたに救われた言葉があります。でも、あなたに行き先を決められたくはありませんでした。たぶん、黒稿体の人たちにも、同じことがあると思います」


 レムの外套の文字片が、ざわめく。


「戻りたい者もいます。戻りたくない者もいるかもしれません。怒っている者も、眠りたい者もいるかもしれません。その声を、あなたの怒りへまとめないでください」


 レムは、長く沈黙した。


 余白門の白い光が強くなる。

 アレフの正典化は進んでいる。時間はない。


 それでも、誰もレムの返事を急がせなかった。


 急がせた瞬間、また同じになるからだった。


 やがて、レムは黒い文字片を一枚手に取った。


 そこには、名前ではなく、かすれた選択の断片があった。


 ――戻りたい。


 別の文字片。


 ――眠らせて。


 また別の文字片。


 ――名前がほしい。


 レムの表情が、初めて苦しそうに歪んだ。


「私は」


 彼は言った。


「全員の総意を名乗りすぎたのかもしれない」


 その声は小さかった。


 リョウは、何も言わなかった。


 レムは余白門を見る。


「だが、まだ協力すると決めたわけではない」


「分かっています」


 はつかが答える。


「決めるのは、あなたです」


 レムは彼女を見た。


 そして、ほんのわずかに笑った。


「痛い言葉を返すのが上手くなったな」


「あなたたちのおかげです」


「それは嫌味か」


「少しだけ」


 はつかは真面目な顔で言った。


 ジアが横で小さく吹き出した。


 ファンタも、緊張の中で少しだけ肩を落とす。


 余白門の縁に、緑青と金の線が残っている。

 まだ細い。

 すぐにでも白い正典の光に塗り潰されそうな線。


 それでも、そこには確かに、唯一正典ではない可能性があった。


 ファンタジア。


 完成していないからこそ、複数の声が共存できる物語。


 余白門は、わずかに形を変え始めていた。

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