表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
14/20

第14章 正文の騎士

 余白門へ至る道が見えた瞬間、世界はそれを隠そうとした。


 重層路図に刻まれた複数の道は、放送室の赤い録音ランプの光と、病室のモニター音と、星見校典塔の地脈の震えを受けて、かろうじて形を保っている。

 だが、唯一正典へ向かう白い頁は、それらを一本の道へ束ねようとしていた。


 王都リヴェリスの外縁。

 綴原高校の旧校舎廊下。

 黒い書庫に挟まれていた古い戦記挿絵。


 三つの場所が重なり、一つの戦場になっていた。


 足元には水路王都の白い石畳がある。

 その上に、綴原高校旧校舎の古びた床板が透けている。壁には剥がれかけた掲示物と、異典層の戦記挿絵に描かれた炎上する城壁が重なっていた。

 窓の外には、王都の水門と、校舎裏の雑木林と、黒い書庫の果てしない棚が同時に見える。


 そこに、セヴラン=グリフが立っていた。


 筆槍グラン・スクリプトを手に、彼は道を塞いでいる。


 槍の穂先は金属ではなく、硬質化した白い筆先のようだった。

 振るえば空中に文字が走り、突けば地面へ役割が刻まれる。彼の足元には、すでに正文の円環が広がっていた。


 ファンタは大剣を構えた。


「退いてください」


 セヴランは静かに首を横に振る。


「退けない」


「主筆の命令ですか」


「それもある」


「それ以外も?」


 セヴランの表情は硬い。


「君をここで止めることが、私の役割だ」


 ファンタは眉を寄せた。


「まだ、役割って言うんですか」


「人は役割を持つことで、立つ場所を得る。君はそれを軽く見すぎている」


 セヴランが筆槍を回す。


 穂先から白い文字が飛んだ。


 若き英雄。

 越えるべき騎士。

 負傷した補佐。

 後方支援。

 救われる証人。


 文字は、戦場へ落ちた。


 落ちた瞬間、空気が変わる。


 ファンタの肩に、重い外套のような圧がかかった。

 若き英雄。

 剣を抜き、道を切り開き、古い騎士を越えて、正しい未来へ進む者。


 身体が前へ出たがる。


 セヴランの周囲には、別の文字が浮かぶ。


 越えるべき騎士。

 古い正しさを背負い、主人公に敗れることで道を開く者。


 カインの足元には、負傷した補佐。

 ジアの周囲には、後方支援。

 ミレシアの背後には、救われる証人。


 役割を書き込まれた者は、その通りに動きやすくなる。


 カインが測路杖を床へ突いた。


「これはまずい」


 彼の声が硬い。


「どうまずいの」


 ジアが術式紙を構えながら聞く。


「俺が後ろへ下がりたくなる。脚が痛むからじゃない。補佐は前に出るべきじゃない、という判断が流し込まれている」


「私も、前へ出ると術式が乱れる感じがします。後方にいろ、と書かれている」


 ミレシアは王杖を握った。


「私には、証言だけを残せと来ています。自分で道を選ぶな、と」


 ファンタは奥歯を噛みしめた。


 セヴランの筆槍が、戦場を整えている。

 各人が最も分かりやすく収まる場所へ、柔らかく押し込まれていく。


「これが、あなたの戦い方ですか」


「そうだ」


 セヴランは筆槍を構える。


「混乱する戦場に、役割を与える。誰が前に出るか。誰が支えるか。誰が守られるか。誰が敗れるか。それを定めれば、被害は減る」


「本人の意思は?」


「戦場で全員の意思を確認している時間はない」


 セヴランの返答は速かった。


 迷っていない。

 いや、迷いを封じている声だった。


「私も、君も、ここでは役割を果たす。君は英雄として私を越えろ。そうすれば余白門へ近づける」


「それが主筆の筋書きなら、なおさら乗れない」


「乗らなければ、道は開かない」


 セヴランが踏み込んだ。


 筆槍が伸びる。


 ファンタは大剣で受けた。

 衝撃が腕に走る。金属音ではなく、紙束を叩きつけたような重い音がした。


 セヴランの槍先が、ファンタの剣へ文字を刻む。


 英雄の剣。

 迷いを断つ。

 悪を越える。

 正典へ進む。


「くそっ」


 ファンタは剣を振り払った。


 青銀の刃が白い文字を裂く。

 文字片が散り、床へ落ちる。落ちた瞬間、それらは挿絵の中の歓声へ変わった。


 若き英雄が古い騎士へ挑む。

 観衆が待っている。

 王女が見守っている。

 負傷した友が信じている。


 場面が整っていく。


 ファンタは、それを肌で感じた。


 勝てば、英雄になる。


 セヴランを倒せば、主筆が用意した「古い騎士を越える若き英雄」の場面が完成する。

 自分が剣を振るほど、正典に近づく。


 だが、止まればセヴランを越えられない。

 余白門への道も閉じるかもしれない。


 セヴランは、そこを狙っている。


「ファンタさん!」


 ジアが術式紙を投げた。


 補助術式がファンタの足元へ走る。

 だが、空中に浮かんだ「後方支援」の文字が、ジアの術式を柔らかく押し戻した。


「っ、私の術式が、前へ出ません!」


「無理するな」


 ファンタは言いかけた。


 その瞬間、ジアが睨んだ。


「今、それを言う場面ではありません!」


「ごめん!」


「謝るより避けてください!」


 セヴランの筆槍が横薙ぎに来る。

 ファンタは身を低くしてかわし、踏み込む。


 剣を振れば勝てる。


 一瞬、そう思った。


 セヴランの肩口が開いている。

 筆槍を戻す前に、大剣を叩き込める。

 戦場の構図が、そこへファンタを誘導していた。


 ここで斬れ。

 英雄なら斬る。

 迷いを断て。


 ファンタの腕が動きかける。


 その時、カインの声が飛んだ。


「勝つな、ファンタ。選べ!」


 剣が止まった。


 刃は、セヴランの肩に届く寸前で止まっていた。


 ファンタの腕が震える。

 重い。

 剣が、振り下ろせと訴えてくる。


 勝て。

 進め。

 英雄になれ。


 だが、カインの声が、その命令の上に刺さっていた。


 勝つな。

 選べ。


 セヴランの目が、わずかに見開かれる。


「なぜ止めた」


 ファンタは荒い息を吐く。


「今のは、僕が選んだ勝ち方じゃない」


「戦場で勝ち方を選ぶ余裕があると思うのか」


「あるかどうかじゃない。選ばなければ、僕はまた流される」


 ファンタは剣を下ろさない。

 ただし、振らない。


 セヴランは、初めて苛立ったように眉を寄せた。


「君は、まだ分かっていない。英雄という役割は、君が逃げてもついてくる。人々は分かりやすい救いを求める。王都も、現実層も、余白も、最後には誰かが前に立つことを望む」


「前に立つことと、役割にされることは違う」


「同じだ」


「違う」


 ファンタは一歩、踏み込んだ。


 剣を振るためではない。

 言葉を届かせるために。


「セヴラン。あなたは、英雄でいることを選んだんですか」


 セヴランの表情が止まる。


「それとも、選ばされた役を守っているだけですか」


 筆槍の穂先が、かすかに揺れた。


 戦場の挿絵が乱れる。

 古い騎士の輪郭が、ほんの一瞬だけ、人間の影に戻る。


「私は」


 セヴランの声は低かった。


「選んだ」


「本当に?」


「選んだ」


 強く言った。

 強く言い切ることで、何かを押し込めているようだった。


 ファンタは退かなかった。


「なら、何を選んだんですか」


 セヴランは答えなかった。


 王都外縁の水路が、暗く揺れる。

 旧校舎廊下の窓ガラスが震える。

 余白層の戦記挿絵に、黒い染みが広がる。


 その染みの奥から、別の景色が浮かんだ。


 ヴァルダ。


 ファンタは、その名をまだ知らない。

 だが、セヴランの目が変わったことで、それが彼の中で最も深い傷だと分かった。


 セヴランは、筆槍を床へ突いた。


「ヴァルダ外縁区」


 彼は言った。


「かつて、北方境界都市ヴァルダは境界崩落に巻き込まれた。正門区、中央区、記述塔、外縁区。四つの区画が同時に裂け、魔獣と余白化した記録が流入した」


 声は静かだった。


 だが、セヴランの指は白くなっていた。


「私は当時、ヴァルダ防衛の副指揮だった。若く、正しくあろうとしていた。守るべき市民の名簿、避難路、兵站、すべてを把握しているつもりだった」


 戦場の壁に、炎上する都市が映る。


 水路ではなく、石造りの外縁都市。

 夜。

 鳴り響く鐘。

 逃げ惑う人々。

 裂けた境界から溢れる黒い霧。


「外縁区が崩れた時、私は選んだ」


 セヴランの声が、少しだけかすれる。


「中央区を守るため、外縁区への橋を落とした。そこには、まだ人がいた。戻れる者もいたかもしれない。だが、橋を残せば魔獣が中央へ入る。私は、自分の判断で外縁区を切り捨てた」


 ファンタは、息を止めた。


 セヴランは続ける。


「多くを失った。叫び声も聞こえた。名簿に残っている者の名前も覚えている。名簿に載る前に消えた者のことは、覚えられなかった」


 筆槍の白い文字が、黒く濁る。


「その後、神筆会が来た。改稿が行われた。ヴァルダは『勇敢な防衛戦により大半の市民が救われた都市』として記録された。私は『外縁区で最後まで戦い、市民を守った英雄』になった」


「違ったんですね」


 ジアが小さく言う。


「違った」


 セヴランは、彼女を見なかった。


「私は橋を落とした。救った人もいる。切り捨てた人もいる。だが、公式記録では、私は英雄になった。都市は救われた。生き残った者たちは、その記録で立ち直った。遺族も、そう信じた。ヴァルダは崩壊都市ではなく、英雄防衛都市として復興した」


 ファンタは何も言えなかった。


 嘘だ。

 そう言うのは簡単だった。


 だが、その改稿で救われた人がいる。

 都市が復興した。

 生き残った者が、明日を生きるための物語を得た。


 それでも、切り捨てられた外縁区の声はどこへ行ったのか。


「セヴラン」


 ミレシアが静かに呼ぶ。


 セヴランは、ようやく彼女を見た。


「あなたは、ずっと覚えていたのですね」


「忘れることは許されなかった」


「神筆会は、あなたの記憶も改稿できたはずです」


「私が拒んだ」


 セヴランは言った。


「一人は覚えていなければならないと思った。だから、私は英雄の役割を演じ続けた。市民が必要とするなら、英雄として立つ。神筆会が命じるなら、正文の騎士として動く。私が本当に何をしたかを覚えたまま、与えられた役割を果たすことが償いだと信じた」


 ファンタは、剣を握り直した。


「それで、救われた人がいることは否定しません」


 セヴランの目が少し揺れた。


「ヴァルダの人たちが、その物語で立てたなら、それを簡単に嘘だって壊すこともできないと思う」


「なら」


「でも」


 ファンタは、一歩前へ出る。


「それを理由に、今ここにいる人の選択まで奪うなら、僕は斬る」


 セヴランの筆槍が再び白く光る。


「君に、私を斬る資格があるのか」


「分からない」


 ファンタは即答した。


「ないかもしれない。僕も、カインを守れなかった。怒りに剣を曲げられた。英雄になりたくないと言いながら、誰かを守りたい気持ちは捨てられない」


「なら、迷うな」


「迷う」


 ファンタは言った。


「迷ったまま、止まって、聞いて、それでも必要なら剣を振る。迷いを消すために役割へ逃げるのは、もう嫌だ」


 セヴランが踏み込む。


 筆槍グラン・スクリプトが、空中に新たな場面を書き込んだ。


 敗北する騎士。

 若き英雄に打ち倒され、道を開く。

 その死または敗北によって、主人公は次の段階へ進む。


 ファンタの周囲に、勝利の文字が集まる。


 今度は、セヴラン自身がその場面を書いた。


 自分を敗北させる筋書き。


「セヴラン!」


 ミレシアが叫ぶ。


 セヴランは振り返らない。


「来い、ファンタ=レイヴァン。私を越えろ。それが君の道だ」


 ファンタは、剣を構えた。


 正面から打てば、届く。


 セヴランは敗北するつもりでいる。

 主筆に与えられた結末を、自分でもなぞろうとしている。

 それを償いだと信じて。


 ファンタの身体が、前へ出る。


 若き英雄。

 越えるべき騎士。

 敗北する古い正義。


 物語が完成しようとしていた。


 その瞬間、カインが叫んだ。


「そこを斬るな!」


 ファンタの剣が止まる。


「騎士を斬るな。場面を斬れ!」


 場面。


 ファンタは、セヴランの身体ではなく、彼の周囲に書かれた文字を見た。


 敗北する騎士。

 道を開くために倒される。

 償いとして敗北を受け入れる。


 それは、セヴラン本人の意思に見えて、主筆が与えた結末でもある。

 セヴランは従おうとしている。

 自分の罪を、その役割で処理しようとしている。


 ファンタは息を吸った。


 剣を振る。


 だが、セヴランの肩ではない。


 彼の背後に浮かぶ「敗北する騎士」の文字列へ、青銀の刃を叩き込んだ。


 紙が裂ける音がした。


 戦記挿絵が割れる。

 旧校舎廊下の窓が砕ける。

 王都外縁の水路に白い波が立つ。


 セヴランの筆槍が弾かれた。


 彼自身は倒れていない。

 傷も浅い。

 だが、彼を敗北へ導く場面だけが切断された。


 セヴランは呆然と立っていた。


「なぜ」


「あなたを倒したら、主筆の筋書きになる」


 ファンタは息を切らしながら言った。


「だから、倒さない。あなたが自分で、次にどう立つか決めてください」


「私は」


 セヴランの声が揺れる。


「私は、敗れるべきだった」


「それを主筆が決めたんでしょう」


「私も選んだ」


「なら、もう一度選んでください。敗れるためじゃなく、あなたが何をするかを」


 セヴランは筆槍を見た。


 彼の周囲から、越えるべき騎士の文字が剥がれていく。

 完全には消えない。

 彼はまだ神筆会の騎士だ。正文に縛られ、ヴァルダの記録に囚われている。


 それでも、「敗北する結末」だけは断ち切られた。


 セヴランは、長い時間、動かなかった。


 やがて、筆槍をゆっくり下ろした。


「私は」


 彼は言った。


 声は低く、疲れていた。


「まだ、神筆会の騎士だ」


 ファンタは剣を下ろさない。


 セヴランは続ける。


「主筆に背くと言うには、私は多くを神筆会に預けすぎた。ヴァルダの記録も、私の役割も、償い方も。すぐに君たちの側へ立てるほど、私は自由ではない」


「それでいい」


 ファンタは言った。


 セヴランが目を上げる。


「よくはないだろう」


「よくはない。でも、嘘よりはいい」


 カインが杖を突いて近づく。


「少なくとも、今ここで敗北役を演じるよりはましだ」


 ジアも小さく頷いた。


「まだ決めきれないことを、決めきれないと言うのは、たぶん大事です」


 ミレシアは、セヴランを見つめていた。


「セヴラン。いつか、ヴァルダのことを聞かせてください。あなたが英雄としてではなく、あなたとして覚えている記録を」


 セヴランは、苦しげに目を閉じた。


「聞くに堪えない話です」


「それでも」


 ミレシアの声は静かだった。


「閉じたままでは、誰も選べません」


 セヴランは目を開いた。


 そして、筆槍グラン・スクリプトを肩に担ぎ直す。


「私はまだ、神筆会の騎士だ」


 もう一度、同じ言葉を言った。


 だが、今度は少しだけ違って聞こえた。


「だが、私の敗北まで主筆に書かせるつもりはない」


 その瞬間、戦場を覆っていた役割文の一部が破れた。


 若き英雄。

 越えるべき騎士。

 負傷した補佐。

 後方支援。

 救われる証人。


 それらの文字が、完全には消えないまでも、強制力を失って床へ落ちる。


 余白門へ向かう重層路図に、新しい線が現れた。


 セヴランが主筆の筋書きから、ほんの半歩だけ外れた道。


 それは細く、危うく、いつ消えてもおかしくない線だった。


 だが、確かに存在していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ