第11章 欄外の群れ
# 第11章 欄外の群れ
黒い水は、王都の運河だけに流れたのではなかった。
水路王都リヴェリスの噴水が黒い文字を噴き上げたその時、遠く離れた綴原市でも、紙の端が黒く染まり始めた。
最初に異常が出たのは、市役所の文書管理課だった。
午後の窓口業務が終わり、庁舎の中に事務処理だけの音が残る時間。
プリンターの排紙音。
キーボードの打鍵音。
蛍光灯の微かな唸り。
書類をめくる音。
どれも、久世誠司には慣れた音だった。
だが、その中に、聞き慣れない音が混じった。
紙が、内側から濡れる音。
誠司は顔を上げた。
机の上の文書箱から、黒い染みが広がっていた。
インクをこぼしたようではない。文字そのものが紙の裏側から湧き上がり、余白を食べながら増えている。
「何だ……?」
誠司が立ち上がる。
棚に並んだ保存箱のラベルが、一斉に震えた。
綴原高校学籍関連。
旧市街水路台帳。
住民記録補正履歴。
事故報告連携。
廻宵はつか。
最後の名前を見た瞬間、誠司の背筋が冷えた。
前に見た、更新履歴のおかしな名前。
息子のクラスメイトらしい少女。
システム担当から「触らずに閉じてください」と言われた記録。
その保存箱のラベルが、黒い文字に侵食されていく。
廻宵はつか。
仮固定。
補填記憶。
削除対象。
維持不能。
回収失敗。
「削除対象?」
誠司は、思わず声に出した。
次の瞬間、文書管理課の端末が一斉に黒い画面へ切り替わった。
白い文字が、そこに浮かぶ。
削除済み名簿、復元開始。
不採用戸籍、再掲示。
消去済み証言、開封。
欄外の群れ、接続。
室内がざわめいた。
「何これ、ウイルス?」
「ネットワーク切って!」
「紙の方も変です!」
同僚たちが慌てる中、誠司は廻宵はつかの保存箱へ手を伸ばした。
黒い文字は、箱の縁から中へ入り込もうとしている。
その動きに、誠司は直感した。
これは、ただ壊そうとしているのではない。
中にある記録を奪おうとしている。
いや、奪還しようとしているのかもしれない。
どちらでも、今この瞬間に記録が崩れれば、あの少女の存在はさらに不安定になる。
理由は分からない。だが、息子の周囲で起きていることと、この記録が無関係でないことだけは分かった。
誠司は保存箱を抱えた。
「久世さん、危ないですよ!」
同僚が叫ぶ。
「この箱だけ、物理隔離します」
「規定外です!」
「規定にない事態です」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
誠司は箱を抱え、非常用の防火保管庫へ向かった。
黒い文字が、箱の表面を這う。まるで、内側にある名前を呼んでいるようだった。
廻宵はつか。
廻宵はつか。
廻宵はつか。
それは呪いにも、救援にも見えた。
「書類があるから事実とは限らない」
誠司は、誰にともなく言った。
自分が長年、文書と向き合ってきて何度も思ったことだった。
書類は間違う。
書類は遅れる。
誰かが都合よく整えることもある。
だから、書類があるからといって、それだけで真実とは言えない。
だが。
「でも、書類がない人を、いないことにしていいわけでもない」
誠司は防火保管庫を開け、保存箱を中へ入れた。
黒い文字が保管庫の縁へ伸びる。
誠司は扉を閉じる直前、箱の上に自分の名刺を一枚差し込んだ。
久世誠司。
文書管理課。
確認中。削除不可。
そんなメモに法的な力はない。
けれど、誰かがこの箱を見た時、少なくとも一人の職員が「確認中」として残した痕跡になる。
扉を閉め、ロックをかける。
黒い文字が金属扉の表面を叩いた。
内側から。
外側から。
まるで、記録されなかった者たちが、同時に扉を叩いているようだった。
*
綴原市立図書館では、郷土資料室の古い地図が開き始めた。
誰も触れていないのに、地図帳が棚から滑り出し、床へ落ち、勝手に頁をめくる。
旧市街水路図。
再開発前道路計画。
行方不明者記事。
閉架室利用記録。
消された閲覧申請。
黒い文字が欄外から溢れ、本文を押しのけていく。
学校では、卒業アルバムの写真が乱れた。
廊下の展示ケースに置かれていた過去のアルバム。
そこに写っていた卒業生たちの肩の隙間から、知らない顔が浮かび上がる。
修学旅行の集合写真に、いなかったはずの生徒が立っている。
文化祭のページに、役名だけ残っていた生徒の名前が戻る。
その代わり、現在の生徒名簿の余白が黒く染まっていく。
病院では、カイのカルテの端に、別の負傷者名が滲み出た。
事故現場にいたが、記録から欠けかけた通行人。
リョウが事故を消そうとした夜、代わりに空白へ押し込まれかけた名前。
田辺小夜子。
その名前を見た看護師が、首を傾げた。
「この人、昨日の事故現場にいましたっけ」
カイは病室のベッドで、その声を聞いた。
「田辺?」
胸が痛まないように、浅く息をする。
ベッド脇の端末には、自分のカルテが開かれているはずだった。だが、画面の端が黒く染まり、知らない名前が浮かんでいる。
田辺小夜子。
事故記録、欠落。
代替被害候補。
未確定より復元要求。
「……リョウ」
カイはスマートフォンへ手を伸ばした。
その指は少し震えた。
だが、今は震えを隠している場合ではなかった。
*
リョウとはつかが異変を知ったのは、放送室で音声記録を整理している最中だった。
音羽湊のパソコンに、市役所のネットワークニュースが流れ込んだ。
同時に、岸本怜奈のスマートフォンへ学校のグループメッセージが殺到する。
「卒アルが変って何」
怜奈が画面をスクロールする。
「写真に知らない人が増えてるって。昔のクラス写真に黒い影みたいなのが写るとか、名前だけ増えるとか。誰かが悪質な加工してるんじゃないかって騒ぎになってる」
湊が別の画面を開く。
「市立図書館もです。閉架資料の閲覧停止。郷土資料室で原因不明の資料破損。いや、破損じゃなくて文字が増えてる……?」
リョウの右手の断章印が熱を持つ。
はつかは顔色を変えた。
「欄外の群れです」
「黒稿体か」
「はい。余白層に押し込まれた記録が、現実層の記録施設へ流入しています。目的は破壊だけではありません。削除された名前や出来事を取り戻そうとしている」
「取り戻すって」
リョウは言いかけて、言葉を止めた。
自分の足元に落ちた黒い文字片を思い出す。
主人公になれなかった者たちにも、夜は来る。
消えたもの。
書かなかったもの。
消された名前。
公式記録から外された出来事。
それらが戻ってくる。
それは、正しいようにも思えた。
でも、同時に、今ある記録を侵食している。
はつかがスマートフォンを見た。
画面には、父ではなく、久世誠司からリョウ宛てに送られたメッセージが表示されていた。真琴経由で届いたものらしい。
――廻宵はつかさんの記録に異常。
――保存箱を物理隔離。
――詳細は言えないが、削除不可として保護中。
――遼、何が起きている。
はつかは、その文面を見たまま固まった。
「お父様が」
「父さん……」
リョウは画面を見つめる。
父は何も知らない。
断章も、異典層も、神筆会も、黒稿体も知らない。
それでも、記録の異常に気づき、はつかの名前を守ろうとした。
書類があるから事実とは限らない。
でも、書類がない人をいないことにしていいわけでもない。
父からの追伸には、そう書かれていた。
はつかの唇が震えた。
「私の記録を」
「守ってる」
リョウは言った。
「父さんが」
はつかは、何かを言おうとして、言えなかった。
涙は出ていない。
だが、彼女の輪郭が少しだけ濃くなったように見えた。
自分を保証する完全な記録ではない。
正しい証明でもない。
ただ、一人の大人が、消すなと手で押さえた痕跡。
それは、はつかにとって、思った以上に大きな支えだった。
その時、カイから通話が入った。
『リョウ、病院の記録にも出た』
音声だけの通話だった。
カイの声は、いつもより急いでいる。
『田辺小夜子って名前。俺のカルテに混じってる。たぶん、お前が前に言ってた、事故を消そうとした時の代わりの人じゃないのか』
リョウの胸が冷える。
「……そうだと思う」
『その人、今、記録に戻ろうとしてるのか?』
「分からない」
『戻れるなら、戻したほうがいいんじゃないのか』
カイの言葉に、リョウはすぐ答えられなかった。
戻したい。
そう思う。
だが、どう戻す。
田辺小夜子を事故記録に戻すということは、また別の被害の位置を決めることにならないか。
彼女自身の声を聞かずに、また誰かが記録を整えることにならないか。
はつかが静かに言った。
「まず、名前を消さないことです」
カイが画面の向こうで黙る。
「戻す、戻さないの前に、その人がいたことを消さない。代替候補としてではなく、田辺小夜子さんとして記録する。そこからです」
『……はつか、強くなった?』
カイが少しだけ笑う。
はつかは瞬きした。
「そうでしょうか」
『前より、言い切る感じになった』
「そうかもしれません」
はつかは、少しだけ目を伏せた。
「消されかけると、消したくないものが分かるのかもしれません」
その言葉に、放送室が静かになった。
*
異典層でも、欄外の群れは動いていた。
リヴェルナ王都の水路から溢れた黒稿体は、王都の中心だけでなく、王立記述院へ向かった。
王立記述院は、王宮の北水路沿いに建つ石造りの施設だった。
王家公示、戸籍、避難名簿、水門管理記録、外交文書。あらゆる公的記述を扱う場所であり、神筆会の校訂官も一部常駐していた。
その封印書庫の扉が、黒い文字に覆われていく。
記述院の書記たちは必死に封印を維持しようとした。
しかし、黒稿体は扉を壊そうとしているわけではなかった。
扉に書かれた「開くな」という命令の欄外へ、別の文字を書き足していた。
なぜ。
誰のために。
誰の声を閉じるために。
いつまで。
問いが増えるたび、封印が弱まる。
ファンタたちが記述院へ駆けつけた時、黒稿体はすでに封印記録の一部を奪い出していた。
黒い紙束が、水路の上を鳥の群れのように飛ぶ。
その中には、ジアが見覚えのないはずなのに、胸の奥で知っている記録があった。
分割実験記録。
記述魔導士ジアより、家名索引および幼年記憶片を抽出。
現実層仮固定個体構築に転用。
欠落補填、余白層未採用少女群より採取。
ジアは立ち尽くした。
「これが、私の」
ファンタが紙束を追おうとする。
だが、カインが止めた。
「待て。全部追うな。流れを読め」
「でも」
「黒稿体は、封印記録を奪っている。燃やしていない。どこかへ集めるつもりだ」
カインは杖をつき、痛みに耐えながら水路の流れを見た。
「北水路から中央運河、王宮前へ戻る流れ。いや、違う。余白層の裂け目へ向かっている」
ジアが別の紙束を見つける。
「セヴランさんの名前があります」
ファンタが振り返った。
黒い紙片に、文字が浮かぶ。
ヴァルダ改稿記録。
執筆騎士セヴラン=グリフ、関与。
原記録削除。
英雄配役再設定。
記憶封鎖。
ファンタは眉をひそめる。
「ヴァルダ?」
カインも知らない顔をした。
だが、その記録を見たセヴランは、王宮警備の列の中で明らかに動揺した。
「それを読むな」
彼の声は低かった。
ファンタはセヴランを見る。
「君に関係ある記録か」
「閉じられるべき記録だ」
「誰が決めた」
セヴランの顔に怒りが浮かぶ。
その時、さらに別の封印記録が水路から浮かび上がった。
リヴェルナ王家密約。
先代王妃セレナ、異議申立。
公示前削除。
唯一正典計画初期案、王家証人候補。
ミレシアが息を呑む。
父王オルディス三世は、公示の間からその文字を見ていた。
彼の顔は、今までよりも老いて見えた。
そして、最後に最も古い記録が浮かんだ。
主筆アレフ。
救済失敗記録。
対象、澪。
対象、ミラ。
統合不可。
分岐崩壊。
唯一正典構想、発生。
その記録は、まだ完全には開かなかった。
黒い書庫の奥へ引き込まれるように消えていく。
ファンタは剣を握る。
「黒稿体が、全部を奪うつもりか」
ジアは唇を噛んだ。
「奪うというより、閉じられていたものを自分たちの書庫へ移しているんです」
「それで、どうなる」
カインが答えた。
「公式記録から抜ける。あるいは、公式記録を侵食する。どちらにしても、王都の安定はさらに揺らぐ」
ファンタは水路の黒い流れを見た。
神筆会は余白を消す。
レムは余白を全て戻そうとする。
どちらも、人を見ているようで、人が立っている場所を壊している。
*
リョウは、黒い書庫にいた。
いつ入ったのか分からなかった。
放送室にいたはずだ。
市役所の記録異常、病院のカルテ、学校のアルバム。
それらを追っていたはずだった。
気づけば、足元は黒い木床になっていた。
左右には果てしない本棚。棚に並んでいるのは、すべて没原稿、破られた頁、消された名前、未採用の設定だった。
そこに、見覚えのあるノートが何冊もあった。
リョウのものだった。
小学生の頃に書いた、竜の王子の話。
途中で恥ずかしくなって捨てた魔法学園。
主人公の親友を途中で裏切り者にしたが、展開が重すぎて消した章。
カイに似た人物を出して、腹が立って罰するような結末を書きかけたメモ。
名前だけつけて、物語に入れなかった少女。
はつかに似た、最初から誰にも覚えられていない図書委員の断片。
そんなものまである。
「やめろ」
リョウは呟いた。
書庫の奥から、レム=ネグラが現れた。
黒い外套の裾に、文字片がまとわりついている。
彼の手には、リョウの古い原稿があった。赤ペンで自分がばつ印をつけ、二度と読まないように破ったはずのものだ。
「君は、よく消す」
レムは言った。
「下手だから。恥ずかしいから。暗すぎるから。誰かに似すぎたから。自分の怒りが見えすぎたから。理由はさまざまだ」
「勝手に読むな」
「捨てたのだろう」
「捨てたからって、読んでいいことにはならない」
レムは少しだけ目を細めた。
「その怒りは正しい」
予想外の返答に、リョウは黙る。
「捨てられたものにも、無断で読まれたくない権利はある。だが、同時に問いたい」
レムは原稿を掲げた。
「採用しなかったから、責任はないのか」
リョウは答えられなかった。
レムは、次々に原稿を開く。
主人公になれなかった少年。
途中で名前を変えられた少女。
都合の悪い役回りを押しつけられ、消された友人。
怒りをぶつけるためだけに作られた敵。
救われるはずだったのに、続きを書かれずに止まった人々。
それらは、現実の人間ではない。
リョウが書かなかった物語の断片だ。
だが、断章と余白層を知ってしまった今、簡単に「ただの没」とは言えなくなっている。
「責任って」
リョウはようやく言った。
「全部を最後まで書けってことか。思いついたもの全部を採用しろってことか。そんなの無理だ」
「無理だろう」
レムは認めた。
「すべてを採用することはできない。だから、余白が生まれる。問題は、その余白を存在しなかったことにする者たちだ」
「神筆会のことか」
「神筆会は余白を消す。正典に合わない声を削除し、整った物語を作る。私は、それに抗う」
「でも、レムも同じことをしてる」
リョウは、黒い書庫の棚を見回した。
「全部を現実に戻したら、今いる人間の人生はどうなる」
レムの表情が止まる。
「どういう意味だ」
「リヴェリスで黒稿体が一気に出た。王都の記録が壊れかけてる。市役所も、病院も、学校も、現実の記録が侵食されてる。消された人が戻るのは、正しいのかもしれない。でも、その場所で今生きてる人はどうなる」
リョウは、自分の没原稿を指差した。
「俺が捨てた主人公を全部戻したら、ファンタはどうなる。はつかの材料になった無名の少女たちが全員戻るなら、はつかはどうなる。カイの事故記録に田辺さんを戻す時、カイの傷はどう扱われる。今あるものを押しのけていいのか」
レムは静かに答えた。
「採用された者は、場所を譲るべきだ」
リョウは息を呑んだ。
その言葉は、優しさの形をしていなかった。
「採用された者?」
「正典に置かれた者。記録に残された者。名前を与えられた者。物語の中心に置かれた者。彼らは、すでに場所を持っている」
「だから、譲れって?」
「余白に押し込まれた者たちには、場所がない」
「それは分かる」
「分かっていない」
レムの声が、わずかに鋭くなった。
「場所がないということは、朝がないということだ。誰かに名前を呼ばれる時間がない。痛みを痛みとして記録される場所がない。怒りを怒りとして扱われる権利がない。君たち採用された者は、少し場所を失うだけで恐れる。だが、こちらは最初から何も持っていない」
「だからって、今いる人を押しのけていい理由にはならない」
「では、永遠に待てと言うのか」
「そうじゃない」
「順番を決めると言う者は、いつも待てと言う。国の安定のため。物語の完成のため。治療の順番のため。本人の同意のため。美しい言葉だ。だが、待たされる者の名前は、その間に薄れる」
レムの言葉には、嘘がなかった。
だから怖かった。
神筆会は、余白を消す。
レムは、現在を余白で上書きしようとする。
どちらも、自分の側の痛みだけは本物だと知っている。
そして、相手側の生活を場所として見てしまう。
リョウは拳を握った。
「はつかは、そっち側だって言ったな」
「彼女は、こちらに近い」
「近いかどうかを、本人に聞いたのか」
レムは黙った。
「君はこちら側だ、って言った。それ、神筆会が『お前は回収対象だ』って言うのと何が違うんだ」
レムの銀の瞳が冷える。
「私を神筆会と同じにするか」
「同じじゃない。でも、似てるところがある」
リョウは、震える声で続けた。
「俺もそうだった。カイのためって言って、勝手に直そうとした。事故を消そうとして、別の誰かを空白に落としかけた。善意でも、怒りでも、相手の行き先を勝手に決めたら同じなんだと思う」
レムはリョウを見ていた。
怒りも、興味も、悲しみも混じった目だった。
「なら、君はどうする」
「分からない」
「またそれか」
「でも、分からないまま全部戻すとも、全部消すとも言わない」
リョウは、黒い書庫の本棚を見る。
「まず、名前を消さない。戻すかどうかは、その人の声を聞く。今いる人の場所も、戻りたい人の場所も、どっちかだけにしない方法を探す」
レムは、ほんの少し笑った。
「理想論だ」
「そうだと思う」
「遅すぎる」
「それも、そうかもしれない」
「その間に、また誰かが消える」
リョウは言葉に詰まった。
レムの言うことは、正しい部分がある。
待っている間に、名前は薄れる。
順番を決めている間に、余白へ押し込まれた者たちはまた忘れられるかもしれない。
でも、だからといって、全部を一気に戻せば、今度は別の誰かが消える。
正しさ同士が、ぶつかっている。
その時、黒い書庫の奥から、はつかの声がした。
「レムさん」
リョウが振り返る。
はつかが立っていた。
いつ来たのか分からない。
現実の放送室から、断章と余白層の裂け目を通じて、意識だけがここへ引かれたのだろう。輪郭は少し薄いが、前よりは安定している。
レムは彼女を見る。
「廻宵はつか」
「私は、あなたの言葉に救われました」
はつかは言った。
「余白にいてもいい。正典にも、元の存在にも属さなくていい。そう言われて、少しだけ楽になりました」
レムは静かに頷く。
「なら」
「でも」
はつかは、彼の言葉を遮った。
「君はこちら側だ、と言われた時、怖くなりました」
レムの表情が動く。
「怖い?」
「はい。私は、神筆会に回収対象と言われました。ジアさんには、元は私のものだと言われました。久世さんにも、一度は記憶で支えられそうになりました。どれも、私の居場所を誰かが決める言葉でした」
はつかは、黒い書庫の棚を見る。
「あなたの『こちら側』も、同じに聞こえました」
レムは黙った。
「私は、余白に近いのかもしれません。ジアさんに近いのかもしれません。現実層の記録に支えられているのかもしれません。でも、それをどこか一つに決めるのは、今の私ではありません」
「なら、君はどこに立つ」
「今は」
はつかは、自分の足元を見る。
黒い書庫の床。
けれど、その下には綴原高校の放送室の床も、図書室の木目も、リヴェリスの水路の光も、どこか重なっている。
「ここに立ちます」
彼女は言った。
「消えかけながらでも、ここに」
レムは、長い沈黙のあと、黒い外套の裾を揺らした。
「君たちは、残酷だ」
「そうかもしれません」
「待てと言う。選べと言う。声を聞くと言う。その間にも、欄外の者たちは消えていく」
「では、あなたは私の声を聞いてくれますか」
はつかの問いに、レムは目を細めた。
「私は、今は行きません」
はつかは言った。
「それが私の声です」
レムは何も言わなかった。
黒い書庫の奥で、別の本棚が開く音がした。
*
開いた棚の奥には、古い記録があった。
黒稿体のものではない。
神筆会の記録でもある。
だが、完全な正典として整えられてはいない。何度も書き直され、削られ、封じられ、なお消えずに残った記録。
主筆アレフ。
最初の失敗。
リョウは、はつかと並んでその記録を見た。
映し出されたのは、若いアレフだった。
今、三層に冷たい声を響かせる主筆ではない。
まだ神筆会の若い編纂官だった頃。
髪も、目も、今より柔らかく、表情には疲れよりも必死さがあった。
彼の前に、二人の少女がいた。
澪。
ミラ。
よく似ている。
だが、同じではない。
一人は現実層に近い記録を持つ少女。
もう一人は異典層に近い記述から生まれた少女。
何らかの照応事故によって、二人は互いの存在を削り合っていた。
どちらかが安定すれば、どちらかが薄れる。
記憶も、名前も、周囲の記録も、二人分を同時に支えきれない。
若いアレフは、二人を救おうとしていた。
「統合ではない」
記録の中で、彼は言っている。
「どちらかを消すのでもない。二人を二人として残す方法があるはずだ」
その声には、今のアレフにはない熱があった。
しかし、術式は失敗した。
澪の記憶がミラへ流れ込み、ミラの身体記録が澪へ重なり、二人の境界が崩れた。
救おうとして開いた接続が、逆に二人を傷つけた。
周囲にも被害が広がる。
家族の記録が二重化し、友人の名前が消え、学校と記述院の台帳が互いに矛盾し始める。
神筆会の上層部は、片方を削除するよう命じた。
アレフは拒んだ。
拒んだまま、別の方法を探した。
だが、その間に澪とミラは苦しみ続けた。
記録の中の二人は、最後にアレフへ言った。
――どちらかを選ばないでくれて、嬉しかった。
――でも、ずっと揺れたままなのは、苦しかった。
――私たちは、どうなればよかったの?
アレフは答えられなかった。
その後、記録は大きく欠けていた。
澪。
ミラ。
統合失敗。
分岐崩壊。
残存記録、封印。
アレフ、唯一正典構想を提出。
リョウは、息を忘れていた。
「アレフは」
はつかが小さく言った。
「最初から、消そうとしたわけではなかったんですね」
レムが、棚の影から答えた。
「多くの怪物は、最初から怪物ではない」
その声には、皮肉だけではない重さがあった。
「救おうとして失敗した者は、次に失敗しないための仕組みを作ろうとする。アレフは、揺れを憎んだ。選ばれない痛みも、選ぶ痛みも、選ばせる痛みも、すべてを憎んだ」
リョウは、記録の中の若いアレフを見た。
澪とミラを救えなかった男。
その失敗から、唯一正典へ向かった男。
正しい一つの物語なら、誰も揺れずに済む。
役割が決まっていれば、迷わなくて済む。
矛盾する記録がなければ、二人の少女が削り合うこともない。
その考えが、どれほど危険かは分かる。
でも、なぜそこへ行ったのかも、少しだけ見えてしまった。
リョウは、拳を握った。
「救いたかったからって、全部一つにしていい理由にはならない」
「そうだ」
レムは言った。
「消されたからといって、現在を上書きしていい理由にもならない」
はつかが、静かに続けた。
レムは彼女を見る。
リョウも、はつかを見る。
彼女は震えていた。
それでも、言った。
「たぶん、どちらも違います」
黒い書庫の奥で、欄外の群れがざわめいた。
削除された名前たち。
未採用の可能性たち。
戻りたい者。
怒っている者。
ただ読まれたい者。
現在を押しのけても場所を取り戻したい者。
そのすべてが、リョウとはつかを見ている気がした。
レムは、棚の奥に消えかけたアレフの記録を閉じた。
「なら、君たちは答えを出せ」
彼は言った。
「神筆会は始める。唯一正典を。余白は戻る。欄外の群れとして。王都も、現実層も、記録院も、もう閉じたままではいられない」
黒い書庫全体が、低く震えた。
「採用された者も、されなかった者も、同じ頁に立てるというなら、証明してみせろ」
その言葉とともに、黒い書庫の床が割れた。
リョウは、はつかの手を掴む。
今度は、許可を取る余裕がなかった。
はつかも、掴み返した。
二人は、黒い文字の渦の中へ落ちていった。




