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第11章 欄外の群れ

# 第11章 欄外の群れ


 黒い水は、王都の運河だけに流れたのではなかった。


 水路王都リヴェリスの噴水が黒い文字を噴き上げたその時、遠く離れた綴原市でも、紙の端が黒く染まり始めた。


 最初に異常が出たのは、市役所の文書管理課だった。


 午後の窓口業務が終わり、庁舎の中に事務処理だけの音が残る時間。

 プリンターの排紙音。

 キーボードの打鍵音。

 蛍光灯の微かな唸り。

 書類をめくる音。

 どれも、久世誠司には慣れた音だった。


 だが、その中に、聞き慣れない音が混じった。


 紙が、内側から濡れる音。


 誠司は顔を上げた。


 机の上の文書箱から、黒い染みが広がっていた。

 インクをこぼしたようではない。文字そのものが紙の裏側から湧き上がり、余白を食べながら増えている。


「何だ……?」


 誠司が立ち上がる。


 棚に並んだ保存箱のラベルが、一斉に震えた。


 綴原高校学籍関連。

 旧市街水路台帳。

 住民記録補正履歴。

 事故報告連携。

 廻宵はつか。


 最後の名前を見た瞬間、誠司の背筋が冷えた。


 前に見た、更新履歴のおかしな名前。

 息子のクラスメイトらしい少女。

 システム担当から「触らずに閉じてください」と言われた記録。


 その保存箱のラベルが、黒い文字に侵食されていく。


 廻宵はつか。

 仮固定。

 補填記憶。

 削除対象。

 維持不能。

 回収失敗。


「削除対象?」


 誠司は、思わず声に出した。


 次の瞬間、文書管理課の端末が一斉に黒い画面へ切り替わった。

 白い文字が、そこに浮かぶ。


 削除済み名簿、復元開始。

 不採用戸籍、再掲示。

 消去済み証言、開封。

 欄外の群れ、接続。


 室内がざわめいた。


「何これ、ウイルス?」


「ネットワーク切って!」


「紙の方も変です!」


 同僚たちが慌てる中、誠司は廻宵はつかの保存箱へ手を伸ばした。


 黒い文字は、箱の縁から中へ入り込もうとしている。

 その動きに、誠司は直感した。


 これは、ただ壊そうとしているのではない。

 中にある記録を奪おうとしている。


 いや、奪還しようとしているのかもしれない。


 どちらでも、今この瞬間に記録が崩れれば、あの少女の存在はさらに不安定になる。

 理由は分からない。だが、息子の周囲で起きていることと、この記録が無関係でないことだけは分かった。


 誠司は保存箱を抱えた。


「久世さん、危ないですよ!」


 同僚が叫ぶ。


「この箱だけ、物理隔離します」


「規定外です!」


「規定にない事態です」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


 誠司は箱を抱え、非常用の防火保管庫へ向かった。

 黒い文字が、箱の表面を這う。まるで、内側にある名前を呼んでいるようだった。


 廻宵はつか。

 廻宵はつか。

 廻宵はつか。


 それは呪いにも、救援にも見えた。


「書類があるから事実とは限らない」


 誠司は、誰にともなく言った。


 自分が長年、文書と向き合ってきて何度も思ったことだった。

 書類は間違う。

 書類は遅れる。

 誰かが都合よく整えることもある。

 だから、書類があるからといって、それだけで真実とは言えない。


 だが。


「でも、書類がない人を、いないことにしていいわけでもない」


 誠司は防火保管庫を開け、保存箱を中へ入れた。


 黒い文字が保管庫の縁へ伸びる。

 誠司は扉を閉じる直前、箱の上に自分の名刺を一枚差し込んだ。


 久世誠司。

 文書管理課。

 確認中。削除不可。


 そんなメモに法的な力はない。

 けれど、誰かがこの箱を見た時、少なくとも一人の職員が「確認中」として残した痕跡になる。


 扉を閉め、ロックをかける。


 黒い文字が金属扉の表面を叩いた。


 内側から。


 外側から。


 まるで、記録されなかった者たちが、同時に扉を叩いているようだった。


     *


 綴原市立図書館では、郷土資料室の古い地図が開き始めた。


 誰も触れていないのに、地図帳が棚から滑り出し、床へ落ち、勝手に頁をめくる。

 旧市街水路図。

 再開発前道路計画。

 行方不明者記事。

 閉架室利用記録。

 消された閲覧申請。


 黒い文字が欄外から溢れ、本文を押しのけていく。


 学校では、卒業アルバムの写真が乱れた。


 廊下の展示ケースに置かれていた過去のアルバム。

 そこに写っていた卒業生たちの肩の隙間から、知らない顔が浮かび上がる。

 修学旅行の集合写真に、いなかったはずの生徒が立っている。

 文化祭のページに、役名だけ残っていた生徒の名前が戻る。

 その代わり、現在の生徒名簿の余白が黒く染まっていく。


 病院では、カイのカルテの端に、別の負傷者名が滲み出た。


 事故現場にいたが、記録から欠けかけた通行人。

 リョウが事故を消そうとした夜、代わりに空白へ押し込まれかけた名前。


 田辺小夜子。


 その名前を見た看護師が、首を傾げた。


「この人、昨日の事故現場にいましたっけ」


 カイは病室のベッドで、その声を聞いた。


「田辺?」


 胸が痛まないように、浅く息をする。

 ベッド脇の端末には、自分のカルテが開かれているはずだった。だが、画面の端が黒く染まり、知らない名前が浮かんでいる。


 田辺小夜子。

 事故記録、欠落。

 代替被害候補。

 未確定より復元要求。


「……リョウ」


 カイはスマートフォンへ手を伸ばした。


 その指は少し震えた。

 だが、今は震えを隠している場合ではなかった。


     *


 リョウとはつかが異変を知ったのは、放送室で音声記録を整理している最中だった。


 音羽湊のパソコンに、市役所のネットワークニュースが流れ込んだ。

 同時に、岸本怜奈のスマートフォンへ学校のグループメッセージが殺到する。


「卒アルが変って何」


 怜奈が画面をスクロールする。


「写真に知らない人が増えてるって。昔のクラス写真に黒い影みたいなのが写るとか、名前だけ増えるとか。誰かが悪質な加工してるんじゃないかって騒ぎになってる」


 湊が別の画面を開く。


「市立図書館もです。閉架資料の閲覧停止。郷土資料室で原因不明の資料破損。いや、破損じゃなくて文字が増えてる……?」


 リョウの右手の断章印が熱を持つ。


 はつかは顔色を変えた。


「欄外の群れです」


「黒稿体か」


「はい。余白層に押し込まれた記録が、現実層の記録施設へ流入しています。目的は破壊だけではありません。削除された名前や出来事を取り戻そうとしている」


「取り戻すって」


 リョウは言いかけて、言葉を止めた。


 自分の足元に落ちた黒い文字片を思い出す。


 主人公になれなかった者たちにも、夜は来る。


 消えたもの。

 書かなかったもの。

 消された名前。

 公式記録から外された出来事。


 それらが戻ってくる。


 それは、正しいようにも思えた。


 でも、同時に、今ある記録を侵食している。


 はつかがスマートフォンを見た。

 画面には、父ではなく、久世誠司からリョウ宛てに送られたメッセージが表示されていた。真琴経由で届いたものらしい。


 ――廻宵はつかさんの記録に異常。

 ――保存箱を物理隔離。

 ――詳細は言えないが、削除不可として保護中。

 ――遼、何が起きている。


 はつかは、その文面を見たまま固まった。


「お父様が」


「父さん……」


 リョウは画面を見つめる。


 父は何も知らない。

 断章も、異典層も、神筆会も、黒稿体も知らない。

 それでも、記録の異常に気づき、はつかの名前を守ろうとした。


 書類があるから事実とは限らない。

 でも、書類がない人をいないことにしていいわけでもない。


 父からの追伸には、そう書かれていた。


 はつかの唇が震えた。


「私の記録を」


「守ってる」


 リョウは言った。


「父さんが」


 はつかは、何かを言おうとして、言えなかった。


 涙は出ていない。

 だが、彼女の輪郭が少しだけ濃くなったように見えた。


 自分を保証する完全な記録ではない。

 正しい証明でもない。

 ただ、一人の大人が、消すなと手で押さえた痕跡。


 それは、はつかにとって、思った以上に大きな支えだった。


 その時、カイから通話が入った。


『リョウ、病院の記録にも出た』


 音声だけの通話だった。

 カイの声は、いつもより急いでいる。


『田辺小夜子って名前。俺のカルテに混じってる。たぶん、お前が前に言ってた、事故を消そうとした時の代わりの人じゃないのか』


 リョウの胸が冷える。


「……そうだと思う」


『その人、今、記録に戻ろうとしてるのか?』


「分からない」


『戻れるなら、戻したほうがいいんじゃないのか』


 カイの言葉に、リョウはすぐ答えられなかった。


 戻したい。

 そう思う。


 だが、どう戻す。

 田辺小夜子を事故記録に戻すということは、また別の被害の位置を決めることにならないか。

 彼女自身の声を聞かずに、また誰かが記録を整えることにならないか。


 はつかが静かに言った。


「まず、名前を消さないことです」


 カイが画面の向こうで黙る。


「戻す、戻さないの前に、その人がいたことを消さない。代替候補としてではなく、田辺小夜子さんとして記録する。そこからです」


『……はつか、強くなった?』


 カイが少しだけ笑う。


 はつかは瞬きした。


「そうでしょうか」


『前より、言い切る感じになった』


「そうかもしれません」


 はつかは、少しだけ目を伏せた。


「消されかけると、消したくないものが分かるのかもしれません」


 その言葉に、放送室が静かになった。


     *


 異典層でも、欄外の群れは動いていた。


 リヴェルナ王都の水路から溢れた黒稿体は、王都の中心だけでなく、王立記述院へ向かった。


 王立記述院は、王宮の北水路沿いに建つ石造りの施設だった。

 王家公示、戸籍、避難名簿、水門管理記録、外交文書。あらゆる公的記述を扱う場所であり、神筆会の校訂官も一部常駐していた。


 その封印書庫の扉が、黒い文字に覆われていく。


 記述院の書記たちは必死に封印を維持しようとした。

 しかし、黒稿体は扉を壊そうとしているわけではなかった。


 扉に書かれた「開くな」という命令の欄外へ、別の文字を書き足していた。


 なぜ。

 誰のために。

 誰の声を閉じるために。

 いつまで。


 問いが増えるたび、封印が弱まる。


 ファンタたちが記述院へ駆けつけた時、黒稿体はすでに封印記録の一部を奪い出していた。


 黒い紙束が、水路の上を鳥の群れのように飛ぶ。


 その中には、ジアが見覚えのないはずなのに、胸の奥で知っている記録があった。


 分割実験記録。

 記述魔導士ジアより、家名索引および幼年記憶片を抽出。

 現実層仮固定個体構築に転用。

 欠落補填、余白層未採用少女群より採取。


 ジアは立ち尽くした。


「これが、私の」


 ファンタが紙束を追おうとする。

 だが、カインが止めた。


「待て。全部追うな。流れを読め」


「でも」


「黒稿体は、封印記録を奪っている。燃やしていない。どこかへ集めるつもりだ」


 カインは杖をつき、痛みに耐えながら水路の流れを見た。


「北水路から中央運河、王宮前へ戻る流れ。いや、違う。余白層の裂け目へ向かっている」


 ジアが別の紙束を見つける。


「セヴランさんの名前があります」


 ファンタが振り返った。


 黒い紙片に、文字が浮かぶ。


 ヴァルダ改稿記録。

 執筆騎士セヴラン=グリフ、関与。

 原記録削除。

 英雄配役再設定。

 記憶封鎖。


 ファンタは眉をひそめる。


「ヴァルダ?」


 カインも知らない顔をした。


 だが、その記録を見たセヴランは、王宮警備の列の中で明らかに動揺した。


「それを読むな」


 彼の声は低かった。


 ファンタはセヴランを見る。


「君に関係ある記録か」


「閉じられるべき記録だ」


「誰が決めた」


 セヴランの顔に怒りが浮かぶ。


 その時、さらに別の封印記録が水路から浮かび上がった。


 リヴェルナ王家密約。

 先代王妃セレナ、異議申立。

 公示前削除。

 唯一正典計画初期案、王家証人候補。


 ミレシアが息を呑む。


 父王オルディス三世は、公示の間からその文字を見ていた。

 彼の顔は、今までよりも老いて見えた。


 そして、最後に最も古い記録が浮かんだ。


 主筆アレフ。

 救済失敗記録。

 対象、澪。

 対象、ミラ。

 統合不可。

 分岐崩壊。

 唯一正典構想、発生。


 その記録は、まだ完全には開かなかった。


 黒い書庫の奥へ引き込まれるように消えていく。


 ファンタは剣を握る。


「黒稿体が、全部を奪うつもりか」


 ジアは唇を噛んだ。


「奪うというより、閉じられていたものを自分たちの書庫へ移しているんです」


「それで、どうなる」


 カインが答えた。


「公式記録から抜ける。あるいは、公式記録を侵食する。どちらにしても、王都の安定はさらに揺らぐ」


 ファンタは水路の黒い流れを見た。


 神筆会は余白を消す。

 レムは余白を全て戻そうとする。


 どちらも、人を見ているようで、人が立っている場所を壊している。


     *


 リョウは、黒い書庫にいた。


 いつ入ったのか分からなかった。


 放送室にいたはずだ。

 市役所の記録異常、病院のカルテ、学校のアルバム。

 それらを追っていたはずだった。


 気づけば、足元は黒い木床になっていた。

 左右には果てしない本棚。棚に並んでいるのは、すべて没原稿、破られた頁、消された名前、未採用の設定だった。

 そこに、見覚えのあるノートが何冊もあった。


 リョウのものだった。


 小学生の頃に書いた、竜の王子の話。

 途中で恥ずかしくなって捨てた魔法学園。

 主人公の親友を途中で裏切り者にしたが、展開が重すぎて消した章。

 カイに似た人物を出して、腹が立って罰するような結末を書きかけたメモ。

 名前だけつけて、物語に入れなかった少女。

 はつかに似た、最初から誰にも覚えられていない図書委員の断片。


 そんなものまである。


「やめろ」


 リョウは呟いた。


 書庫の奥から、レム=ネグラが現れた。


 黒い外套の裾に、文字片がまとわりついている。

 彼の手には、リョウの古い原稿があった。赤ペンで自分がばつ印をつけ、二度と読まないように破ったはずのものだ。


「君は、よく消す」


 レムは言った。


「下手だから。恥ずかしいから。暗すぎるから。誰かに似すぎたから。自分の怒りが見えすぎたから。理由はさまざまだ」


「勝手に読むな」


「捨てたのだろう」


「捨てたからって、読んでいいことにはならない」


 レムは少しだけ目を細めた。


「その怒りは正しい」


 予想外の返答に、リョウは黙る。


「捨てられたものにも、無断で読まれたくない権利はある。だが、同時に問いたい」


 レムは原稿を掲げた。


「採用しなかったから、責任はないのか」


 リョウは答えられなかった。


 レムは、次々に原稿を開く。


 主人公になれなかった少年。

 途中で名前を変えられた少女。

 都合の悪い役回りを押しつけられ、消された友人。

 怒りをぶつけるためだけに作られた敵。

 救われるはずだったのに、続きを書かれずに止まった人々。


 それらは、現実の人間ではない。

 リョウが書かなかった物語の断片だ。


 だが、断章と余白層を知ってしまった今、簡単に「ただの没」とは言えなくなっている。


「責任って」


 リョウはようやく言った。


「全部を最後まで書けってことか。思いついたもの全部を採用しろってことか。そんなの無理だ」


「無理だろう」


 レムは認めた。


「すべてを採用することはできない。だから、余白が生まれる。問題は、その余白を存在しなかったことにする者たちだ」


「神筆会のことか」


「神筆会は余白を消す。正典に合わない声を削除し、整った物語を作る。私は、それに抗う」


「でも、レムも同じことをしてる」


 リョウは、黒い書庫の棚を見回した。


「全部を現実に戻したら、今いる人間の人生はどうなる」


 レムの表情が止まる。


「どういう意味だ」


「リヴェリスで黒稿体が一気に出た。王都の記録が壊れかけてる。市役所も、病院も、学校も、現実の記録が侵食されてる。消された人が戻るのは、正しいのかもしれない。でも、その場所で今生きてる人はどうなる」


 リョウは、自分の没原稿を指差した。


「俺が捨てた主人公を全部戻したら、ファンタはどうなる。はつかの材料になった無名の少女たちが全員戻るなら、はつかはどうなる。カイの事故記録に田辺さんを戻す時、カイの傷はどう扱われる。今あるものを押しのけていいのか」


 レムは静かに答えた。


「採用された者は、場所を譲るべきだ」


 リョウは息を呑んだ。


 その言葉は、優しさの形をしていなかった。


「採用された者?」


「正典に置かれた者。記録に残された者。名前を与えられた者。物語の中心に置かれた者。彼らは、すでに場所を持っている」


「だから、譲れって?」


「余白に押し込まれた者たちには、場所がない」


「それは分かる」


「分かっていない」


 レムの声が、わずかに鋭くなった。


「場所がないということは、朝がないということだ。誰かに名前を呼ばれる時間がない。痛みを痛みとして記録される場所がない。怒りを怒りとして扱われる権利がない。君たち採用された者は、少し場所を失うだけで恐れる。だが、こちらは最初から何も持っていない」


「だからって、今いる人を押しのけていい理由にはならない」


「では、永遠に待てと言うのか」


「そうじゃない」


「順番を決めると言う者は、いつも待てと言う。国の安定のため。物語の完成のため。治療の順番のため。本人の同意のため。美しい言葉だ。だが、待たされる者の名前は、その間に薄れる」


 レムの言葉には、嘘がなかった。


 だから怖かった。


 神筆会は、余白を消す。

 レムは、現在を余白で上書きしようとする。


 どちらも、自分の側の痛みだけは本物だと知っている。

 そして、相手側の生活を場所として見てしまう。


 リョウは拳を握った。


「はつかは、そっち側だって言ったな」


「彼女は、こちらに近い」


「近いかどうかを、本人に聞いたのか」


 レムは黙った。


「君はこちら側だ、って言った。それ、神筆会が『お前は回収対象だ』って言うのと何が違うんだ」


 レムの銀の瞳が冷える。


「私を神筆会と同じにするか」


「同じじゃない。でも、似てるところがある」


 リョウは、震える声で続けた。


「俺もそうだった。カイのためって言って、勝手に直そうとした。事故を消そうとして、別の誰かを空白に落としかけた。善意でも、怒りでも、相手の行き先を勝手に決めたら同じなんだと思う」


 レムはリョウを見ていた。


 怒りも、興味も、悲しみも混じった目だった。


「なら、君はどうする」


「分からない」


「またそれか」


「でも、分からないまま全部戻すとも、全部消すとも言わない」


 リョウは、黒い書庫の本棚を見る。


「まず、名前を消さない。戻すかどうかは、その人の声を聞く。今いる人の場所も、戻りたい人の場所も、どっちかだけにしない方法を探す」


 レムは、ほんの少し笑った。


「理想論だ」


「そうだと思う」


「遅すぎる」


「それも、そうかもしれない」


「その間に、また誰かが消える」


 リョウは言葉に詰まった。


 レムの言うことは、正しい部分がある。


 待っている間に、名前は薄れる。

 順番を決めている間に、余白へ押し込まれた者たちはまた忘れられるかもしれない。


 でも、だからといって、全部を一気に戻せば、今度は別の誰かが消える。


 正しさ同士が、ぶつかっている。


 その時、黒い書庫の奥から、はつかの声がした。


「レムさん」


 リョウが振り返る。


 はつかが立っていた。


 いつ来たのか分からない。

 現実の放送室から、断章と余白層の裂け目を通じて、意識だけがここへ引かれたのだろう。輪郭は少し薄いが、前よりは安定している。


 レムは彼女を見る。


「廻宵はつか」


「私は、あなたの言葉に救われました」


 はつかは言った。


「余白にいてもいい。正典にも、元の存在にも属さなくていい。そう言われて、少しだけ楽になりました」


 レムは静かに頷く。


「なら」


「でも」


 はつかは、彼の言葉を遮った。


「君はこちら側だ、と言われた時、怖くなりました」


 レムの表情が動く。


「怖い?」


「はい。私は、神筆会に回収対象と言われました。ジアさんには、元は私のものだと言われました。久世さんにも、一度は記憶で支えられそうになりました。どれも、私の居場所を誰かが決める言葉でした」


 はつかは、黒い書庫の棚を見る。


「あなたの『こちら側』も、同じに聞こえました」


 レムは黙った。


「私は、余白に近いのかもしれません。ジアさんに近いのかもしれません。現実層の記録に支えられているのかもしれません。でも、それをどこか一つに決めるのは、今の私ではありません」


「なら、君はどこに立つ」


「今は」


 はつかは、自分の足元を見る。


 黒い書庫の床。

 けれど、その下には綴原高校の放送室の床も、図書室の木目も、リヴェリスの水路の光も、どこか重なっている。


「ここに立ちます」


 彼女は言った。


「消えかけながらでも、ここに」


 レムは、長い沈黙のあと、黒い外套の裾を揺らした。


「君たちは、残酷だ」


「そうかもしれません」


「待てと言う。選べと言う。声を聞くと言う。その間にも、欄外の者たちは消えていく」


「では、あなたは私の声を聞いてくれますか」


 はつかの問いに、レムは目を細めた。


「私は、今は行きません」


 はつかは言った。


「それが私の声です」


 レムは何も言わなかった。


 黒い書庫の奥で、別の本棚が開く音がした。


     *


 開いた棚の奥には、古い記録があった。


 黒稿体のものではない。

 神筆会の記録でもある。

 だが、完全な正典として整えられてはいない。何度も書き直され、削られ、封じられ、なお消えずに残った記録。


 主筆アレフ。

 最初の失敗。


 リョウは、はつかと並んでその記録を見た。


 映し出されたのは、若いアレフだった。


 今、三層に冷たい声を響かせる主筆ではない。

 まだ神筆会の若い編纂官だった頃。

 髪も、目も、今より柔らかく、表情には疲れよりも必死さがあった。


 彼の前に、二人の少女がいた。


 澪。

 ミラ。


 よく似ている。

 だが、同じではない。


 一人は現実層に近い記録を持つ少女。

 もう一人は異典層に近い記述から生まれた少女。

 何らかの照応事故によって、二人は互いの存在を削り合っていた。


 どちらかが安定すれば、どちらかが薄れる。

 記憶も、名前も、周囲の記録も、二人分を同時に支えきれない。


 若いアレフは、二人を救おうとしていた。


「統合ではない」


 記録の中で、彼は言っている。


「どちらかを消すのでもない。二人を二人として残す方法があるはずだ」


 その声には、今のアレフにはない熱があった。


 しかし、術式は失敗した。


 澪の記憶がミラへ流れ込み、ミラの身体記録が澪へ重なり、二人の境界が崩れた。

 救おうとして開いた接続が、逆に二人を傷つけた。


 周囲にも被害が広がる。


 家族の記録が二重化し、友人の名前が消え、学校と記述院の台帳が互いに矛盾し始める。

 神筆会の上層部は、片方を削除するよう命じた。


 アレフは拒んだ。


 拒んだまま、別の方法を探した。


 だが、その間に澪とミラは苦しみ続けた。


 記録の中の二人は、最後にアレフへ言った。


 ――どちらかを選ばないでくれて、嬉しかった。


 ――でも、ずっと揺れたままなのは、苦しかった。


 ――私たちは、どうなればよかったの?


 アレフは答えられなかった。


 その後、記録は大きく欠けていた。


 澪。

 ミラ。

 統合失敗。

 分岐崩壊。

 残存記録、封印。

 アレフ、唯一正典構想を提出。


 リョウは、息を忘れていた。


「アレフは」


 はつかが小さく言った。


「最初から、消そうとしたわけではなかったんですね」


 レムが、棚の影から答えた。


「多くの怪物は、最初から怪物ではない」


 その声には、皮肉だけではない重さがあった。


「救おうとして失敗した者は、次に失敗しないための仕組みを作ろうとする。アレフは、揺れを憎んだ。選ばれない痛みも、選ぶ痛みも、選ばせる痛みも、すべてを憎んだ」


 リョウは、記録の中の若いアレフを見た。


 澪とミラを救えなかった男。

 その失敗から、唯一正典へ向かった男。


 正しい一つの物語なら、誰も揺れずに済む。

 役割が決まっていれば、迷わなくて済む。

 矛盾する記録がなければ、二人の少女が削り合うこともない。


 その考えが、どれほど危険かは分かる。


 でも、なぜそこへ行ったのかも、少しだけ見えてしまった。


 リョウは、拳を握った。


「救いたかったからって、全部一つにしていい理由にはならない」


「そうだ」


 レムは言った。


「消されたからといって、現在を上書きしていい理由にもならない」


 はつかが、静かに続けた。


 レムは彼女を見る。


 リョウも、はつかを見る。


 彼女は震えていた。

 それでも、言った。


「たぶん、どちらも違います」


 黒い書庫の奥で、欄外の群れがざわめいた。


 削除された名前たち。

 未採用の可能性たち。

 戻りたい者。

 怒っている者。

 ただ読まれたい者。

 現在を押しのけても場所を取り戻したい者。


 そのすべてが、リョウとはつかを見ている気がした。


 レムは、棚の奥に消えかけたアレフの記録を閉じた。


「なら、君たちは答えを出せ」


 彼は言った。


「神筆会は始める。唯一正典を。余白は戻る。欄外の群れとして。王都も、現実層も、記録院も、もう閉じたままではいられない」


 黒い書庫全体が、低く震えた。


「採用された者も、されなかった者も、同じ頁に立てるというなら、証明してみせろ」


 その言葉とともに、黒い書庫の床が割れた。


 リョウは、はつかの手を掴む。


 今度は、許可を取る余裕がなかった。


 はつかも、掴み返した。


 二人は、黒い文字の渦の中へ落ちていった。

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