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第12章 正典配役

 黒い文字の渦の中を落ちているはずだった。


 リョウは、はつかの手を握っていた。

 指先の感触は薄い。だが、確かにあった。


 黒い書庫の床が割れ、欄外の群れがざわめき、レムの声が遠ざかる。

 その次の瞬間、足元に床が戻った。


 落下の衝撃はなかった。


 リョウは、綴原高校の図書室に立っていた。


 いや、図書室だけではない。


 見慣れた閲覧机がある。

 窓の外には、夕方の校庭が見える。

 カウンターも、貸出端末も、分類番号の貼られた本棚もある。


 だが、天井の一部は星見校典塔の円環天球儀になっていた。

 床の木目の下には、リヴェリスの水路が青く流れている。

 書架の奥は、黒い書庫へ続く果てのない棚に変わっている。


 図書室。

 星見校典塔。

 黒い書庫。


 三つの場所が、紙を重ねたように一つになっていた。


 閲覧机の上には、リョウの黒いノートと《アヴァターラ断章》。

 塔の石床には、ファンタの大剣が影を落とす。

 黒い書庫の棚には、没原稿と削除記録が詰まっている。


「ここは」


 はつかが呟いた。


 彼女の声は震えていたが、手は離さなかった。


「最終章の舞台です」


 答えたのは、御影透子だった。


 彼女は図書室のカウンター前に立っていた。

 いつもの司書の姿だ。だが、その影には、校訂官《索引》としての黒い外套が薄く重なっている。離反したはずの神筆会の紋章が、まだ彼女の足元に焼き跡のように残っていた。


「神筆会が、大規模な正典化を行う時に作る統合領域。複数の層を、一つの場面として扱うための舞台です」


「場面って」


 リョウは、奥歯を噛んだ。


「人のいる場所を、勝手に場面って呼ぶなよ」


「それが、神筆会のやり方です」


 透子は苦く言った。


 その声には、前のような冷たい正しさはなかった。

 知っていて加担してきた者の、遅すぎる悔いが混じっている。


 図書室の奥で、石の扉が開いた。


 ファンタが現れた。


 濃紺の外套。青銀の大剣。

 その隣には、ジア。さらに少し遅れて、測路杖をついたカイン。

 カインの左脚には補助具があり、歩くたびに治癒文字がわずかに光る。


 ミレシアもいた。

 王杖アステリアを手に、青い王太女の外衣をまとっている。王宮の水路の光が、彼女の足元に細く流れていた。


 別の棚の影から、レム=ネグラが現れる。

 黒い外套の裾には、欄外の文字片がまとわりついていた。


 そして、入口に近い場所に、セヴラン=グリフが立っていた。


 筆槍を手にしている。

 彼の背後には、神筆会の正文が薄く浮かんでいる。

 だが、顔色は悪かった。水路王都で黒稿体が暴いたヴァルダ改稿記録が、彼の中でまだ処理されていないのだろう。


「全員、呼ばれたのか」


 ファンタが周囲を見回す。


 リョウと目が合った。


 二人の間に、短い沈黙が落ちる。


 まだ信用していない。

 まだ許していない。

 それでも、互いが同じものに巻き込まれていることは分かっている。


「無事か」


 ファンタが言った。


 リョウは少し驚いた。


「たぶん」


「たぶん?」


「あんたも、カインもジアも、無事って聞かれたら同じような返事になるだろ」


 ファンタは、ほんの少しだけ苦い顔をした。


「それは、そうかもしれない」


 カインが測路杖を鳴らす。


「挨拶をしている場合か」


「カイン、君は本当にいつでも正しいタイミングで冷たい」


「冷たくない。時間がない」


 ジアが小さく頷いた。


「空間が安定していません。現実層、異典層、余白層が、同じ文脈として束ねられています。長く留まると、役割固定が始まるかもしれません」


「始まるのではありません」


 声がした。


 穏やかな声だった。


 大きくも、威圧的でもない。

 それなのに、図書室のすべての紙が、その声に従うように静まり返った。


「もう始まっています」


 閲覧机の向こうに、一人の男が立っていた。


 白に近い灰色の長衣。

 胸元には、羽根ペンと開いた本を重ねた神筆会主筆の紋章。

 髪は銀にも灰にも見え、目は乾いた湖のように静かだった。

 年齢は読めない。若くも老いても見える。だが、その表情には長い時間、失敗を記録し続けた者の疲労があった。


 主筆アレフ。


 彼は、怒っていなかった。

 脅してもいなかった。

 まるで、閲覧室で資料の説明を始める司書のように、静かに立っていた。


「皆さんを、ここへお呼びしました」


 アレフは言った。


「唯一正典計画の配役を、当事者に説明するためです」


 その言葉に、空気が凍る。


 リョウは、手の甲の断章印が熱を帯びるのを感じた。


「配役」


 ミレシアが低く繰り返す。


「私たちを、まだ役として扱うのですか」


「はい」


 アレフは、迷わず答えた。


「役割を与えられないまま存在することは、苦痛です。皆さんはその苦痛をすでに知っているはずです。選ぶ痛み。選ばれない痛み。複数の可能性が互いを削る痛み。記録が矛盾し、誰が誰であるかを保証できなくなる痛み」


 彼の視線が、はつかとジアを通り過ぎた。


 はつかの指が、わずかに震える。

 ジアも、白い翼型の髪飾りへ触れた。


「私は、それを終わらせます」


 アレフは言った。


「唯一正典計画は、犠牲を最小にするための校了です」


「犠牲を最小」


 レムが笑った。


 低く、冷たい笑いだった。


「削除する者は、いつもそう言う」


「削除ではありません」


 アレフはレムを見る。


「統合です」


「名前を奪う時、言葉を整えるのが神筆会の悪癖だ」


「余白で現在を上書きしようとするあなたに言われたくはありません」


 アレフの声は、少しも荒れなかった。


 だが、その一言で、レムの目が冷えた。


「レム=ネグラ。あなたは、削除された者たちの痛みを代表しているつもりでいる。しかし、あなた自身もまた、欄外の群れへ役割を与えている。『採用された者から場所を取り戻す者』という役割を」


 レムは黙った。


 アレフは続ける。


「神筆会は余白を消そうとした。あなたは正典を余白で上書きしようとしている。どちらも、同じ苦痛から生まれた反応です。だからこそ、私は第三の処理を行います」


「第三?」


 リョウが問う。


 アレフは、断章へ視線を落とした。


「分岐を残さない。余白も残さない。すべてを一つの正しい歴史へ統合する」


 図書室のすべての白紙に、文字が浮かび始めた。


 正典配役案。


 リョウは、ぞっとした。


 それは、物語のプロットのようだった。

 人物の一覧。役割。関係性。結末までの配置。


 その中に、自分たちの名前があった。


「久世遼」


 アレフが読み上げる。


「ファンタ=レイヴァン」


 二人の名前が、同じ行へ引き寄せられた。


 リョウの断章印と、ファンタの胸元の薄い紋章が同時に光る。


「あなた方は、一人の正典主人公となります」


 リョウの喉が詰まった。


「一人?」


「現実層の書き手と、異典層の行動者。断章所有候補と巡境騎士。内省と行動。責任と剣。二つに分かれていた主人公性を統合し、唯一の正典主人公とする」


「ふざけるな」


 ファンタが先に言った。


 剣を抜きかける。


 アレフは動かない。


「あなたは、正しい英雄になれます。焦りも、未熟さも、外部の怒りに剣を曲げられた記録も、統合後には修正される。カイン=ローデルを守れなかった後悔も、英雄としての成長譚へ正しく配置される」


「後悔を、配置するな」


 ファンタの声が震えた。


 怒りで。

 恐怖で。


「僕は間違えた。カインを守れなかった。だから考える。だから迷う。それを消して、正しい英雄にするな」


「迷いは、次の犠牲を生みます」


「迷わずに誰かを切り捨てる方が、よほど怖い」


 ファンタの手が剣の柄を握る。


「僕は、未熟なままでいい。間違えたことを持ったままでいい。正しい英雄になるために、僕自身を削られるのは拒む」


 リョウは、ファンタを見た。


 彼は、自分が思い描いた理想の主人公ではない。

 怒る。焦る。間違える。自分の弱さを突かれて揺れる。


 だからこそ、そこにいる。


 アレフの視線がリョウへ向く。


「久世遼。あなたは、作者ではありません」


 胸の奥を突かれたようだった。


「あなたは、自分が書く側だと思っていた。物語に責任を持つべき者だと。しかし実際には、あなたもまた正典主人公の片割れです。書く者であると同時に、書かれる者。断章によって主人公性を付与された存在」


 リョウは、呼吸が浅くなるのを感じた。


 自分がしてきたこと。


 ファンタを理想の主人公として見た。

 カインを親友役として罰した。

 はつかを「ここにいる」と書いて保証したくなった。

 事故を消す文章で、他人の出来事を書き換えようとした。


 自分が他人にやってきた役割化。


 今度は、自分がそれを受ける。


 正典主人公の片割れ。

 ファンタと統合され、迷いのない物語の中心へ置かれる。


「……嫌だ」


 声は小さかった。


 だが、はっきり出た。


「俺は、作者じゃないって言われるのは、たぶん正しい。俺は全部を決められる存在じゃなかった。でも、だからって、誰かの主人公役にされるのは違う」


 アレフは静かに聞いている。


「俺は、書いたことの責任から逃げたくない。でも、正しい主人公になって許されたいわけじゃない。俺の後悔を、成長イベントみたいに整理するな」


 ファンタが、横目でリョウを見る。


 ほんの少しだけ、表情が変わった。


 次の白紙が開いた。


「廻宵はつか」


 はつかの輪郭が、緊張で揺れる。


「ジア」


 ジアが息を呑む。


 二人の名前が、同じ円の中へ引き寄せられた。


「あなた方は、一人の正典記述者兼ヒロインとなります」


 リョウの手に力が入る。


 はつかは、すぐには言葉を出せなかった。


 アレフの声は穏やかに続く。


「ジア。あなたの欠損は修復されます。家名、幼年記憶、術式索引。失われたものは戻り、あなたは完全な記述魔導士となる」


 ジアの瞳が揺れた。


 完全な自分。


 その言葉が、どれほど強く彼女を引くか、リョウにも分かった。


 家名を持つ。

 覚えていなかった幼い日を取り戻す。

 術式の穴が埋まり、治せなかった傷を治せるかもしれない。

 カインの脚の傷も、もっと正しく扱えたかもしれない。


 ジアは唇を噛んだ。


 アレフは、はつかを見る。


「廻宵はつか。あなたは安定します。現実層仮固定個体としての不安定さは解消され、余白層にも現実層にも引き裂かれない。ジアと統合されることで、あなたの記憶は正式な記述体系へ組み込まれる」


 はつかの指が震える。


 安定。


 その言葉は、彼女にとって残酷なほど甘い。


 写真から消えかけることもない。

 住民記録が剥がれる恐怖もない。

 誰かの記憶に支えられなければ存在できない不安もない。

 ジアと一つになれば、きっと消えない。


 ただし。


 廻宵はつかとしては、残らない。


「……私は」


 はつかは声を出そうとする。


 だが、喉が震えた。


 ジアも何も言えない。


 二人は互いを見る。


 取り戻したい者と、生きたい者。

 その間に、アレフは「統合」という穏やかな橋をかけている。


 橋に見える。

 だが、渡れば片方の名前が消えるかもしれない。


「はつかさん」


 ジアが先に言った。


「私は、揺れています」


 はつかは、ジアを見る。


「私もです」


「完全になれると言われて、思ってしまいました。欲しい、と」


「はい」


「でも、あなたが消えると思うと、怖いです」


「私は、安定すると言われて、少し安心してしまいました」


 はつかは、自分の胸に手を当てる。


「でも、私でなくなるなら、それは安心なのか分かりません」


 ジアの目に涙が滲んだ。


「すみません。まだ、すぐには拒めません」


「私もです」


 二人は、拒絶ではなく、揺れを認め合った。


 アレフは、それを責めなかった。


「迷う必要はありません。統合後、苦痛は残りません」


 その言葉に、はつかが顔を上げた。


「苦痛が残らなければ、今の私が消えてもいいのですか」


 アレフは静かに言う。


「苦痛が残らない形で、意味は保存されます」


「意味ではなく、私の話をしています」


 はつかの声は細かったが、消えていなかった。


 次の白紙が開く。


「相馬カイ」


 図書室の空間に、病室のモニター音が混じった。


 カイの姿が、薄い映像のように現れる。

 ベッドの上。左脚は固定され、胸には包帯。だが、彼は画面越しではなく、この統合領域の中で声を聞いているようだった。


「カイン=ローデル」


 カインの名前が、同じ行へ並ぶ。


「あなた方は、主人公を支える一人の親友となります」


 カイの表情が、一瞬で険しくなった。


『は?』


 声は病室のスピーカー越しに響く。


『何だそれ。俺、今かなり腹立ったんだけど』


 カインも、測路杖を床へ強く突いた。


「説明を聞くまでもなく不快だが、一応聞こう」


 アレフは続ける。


「相馬カイ。あなたは久世遼を現実へつなぎ、彼の創作を外へ押し出す役割を持つ。事故と和解を経て、主人公の責任を受け入れさせる親友となる」


 カイの顔から、軽さが消えた。


『俺は、リョウを許すための装置じゃない』


 病室の空気が重くなる。


『俺が悪かったこともある。勝手に原稿を出した。あいつを傷つけた。それは俺が謝る。でも、事故に遭ったことも、怖いことも、これから歩けるか分かんねえことも、全部リョウが成長するための材料にされるのは違うだろ』


 リョウは、胸を掴まれるような感覚を覚えた。


 カイは続ける。


『俺がリョウを許すかどうかは、俺が決める。許さないかもしれないし、許すかもしれないし、途中でまた怒るかもしれない。勝手に役割で処理すんな』


 アレフは、今度はカインへ視線を移す。


「カイン=ローデル。あなたはファンタ=レイヴァンの道を測り、彼が英雄として帰還するための補佐となる。負傷は、主人公に責任を自覚させる出来事として保存される」


 カインの目が冷たくなる。


「俺は、ファンタの帰り道だけじゃない」


 静かな声だった。


 だから、強かった。


「俺は道を読む。だが、ファンタを主人公にするために存在しているわけじゃない。俺の脚の痛みも、測路も、判断も、あいつの成長素材ではない」


 ファンタは、何かを言いかけた。


 カインはそれより早く続ける。


「ファンタ、お前も勘違いするな」


「え?」


「俺のために怒るな。俺のために英雄を拒むな。俺の傷を理由にお前の役割を決めるな。俺は俺で怒っている」


 ファンタは、言葉を失った。


 カインはアレフを見る。


「親友役にまとめるな。現実層の相馬カイとも、勝手に一人にするな。俺たちは似た位置にいるかもしれないが、同じ人間ではない」


『そうだそうだ』


 カイが病室から言う。


『あと、カインさん、いつかちゃんと話そうぜ。俺たぶん、そっちの方がリョウより話通じる』


「相馬カイ」


 カインが真顔で返す。


「君もかなり無茶をするタイプだと聞いている。話が通じるかは疑わしい」


『初対面で辛辣』


「初対面だから控えめにした」


『控えめでそれ?』


 場の空気が一瞬だけ揺らいだ。


 それは小さな抵抗だった。

 役割にまとめられそうな二人が、別々の声で言い合っている。


 アレフは、表情を変えない。


 次の配役が開く。


「ミレシア=リヴェルナ」


 王杖アステリアが青く光る。


「あなたは、正しい王統を導く王妃、あるいは証人となります。ファンタ=レイヴァンと結ばれ、王家と英雄譚を結合する道も想定されています」


 ミレシアの目が、冷たくなった。


「想定」


「王国の安定には、象徴が必要です。あなたは王家の過ちを認め、英雄と結ばれることで新しい正統性を示す。民は分かりやすい和解を得る」


「私は、王統の道具ではありません」


 ミレシアは王杖を床へ突いた。


「私が誰と結ぶか、何を証言するか、どの順番で真実を開くか。それを国の安定のために選ぶことはあるでしょう。ですが、それを神筆会が配役として先に書くなら、私は拒みます」


「民は不安定な真実に耐えられません」


「民を理由に、私の意思を消さないでください」


 その言葉は、塔でセヴランへ向けた問いと響き合っていた。


 セヴランは、入口で目を伏せる。


 アレフの視線が、レムへ移る。


「レム=ネグラ」


 黒い書庫の棚がざわめく。


「あなたは、主人公に倒される最終的な悪となります」


 黒稿体たちが低く唸るように揺れた。


 レムは、静かに笑った。


「都合がいいな。削除された者の代表を悪にすれば、正典は美しく閉じる」


「あなたの行動は、現在の記録を侵食し、多数の生活を危険にさらしています。最終的な悪として配置するには十分です」


「私は、隠された名を開こうとしている」


「その名を、あなたは代表しているつもりでいる」


 アレフの言葉に、レムの表情が止まる。


「あなたは、欄外の群れの怒りを背負っている。しかし、群れの全てが現在を上書きしたいわけではない。戻りたい者、読まれたいだけの者、眠ったままでいたい者、新しい名を望む者。声は分かれている。あなたはその差異を、自分の怒りへ統合している」


 レムの外套の文字片が激しく揺れる。


「黙れ」


 初めて、レムの声に明確な怒りが出た。


「神筆会がそれを言うか。散々、声を削除してきたお前たちが」


「だから、私は唯一正典を行う」


「それが同じだと言っている!」


 レムの足元から黒い文字が噴き上がる。

 だが、アレフの周囲に浮かぶ白い頁が、それを静かに吸収した。


「あなたは悪として倒されることで、余白の痛みを正典へ組み込まれる。倒される悪は、物語に必要です。あなたの存在も、消えずに保存される」


「保存」


 レムは、吐き捨てるように言った。


「死体を標本にすることを、保存と呼ぶな」


 最後に、アレフの視線はセヴランへ向いた。


「セヴラン=グリフ」


 セヴランは、筆槍を握り直す。


「あなたは、主人公に敗れることで道を開く正文の騎士となります」


 セヴランの顔は、大きく変わらなかった。


 だが、指先が白くなる。


「私は、神筆会の騎士です」


「はい。あなたは最後まで役割に従う。ファンタ=レイヴァンに敗れ、正しい英雄が神筆会を越えるための門となる。それが、あなたの償いです」


「償い」


 セヴランは低く繰り返した。


 その声には、抵抗よりも疲労があった。


 ファンタは、セヴランを見る。


 水路王都で黒稿体が暴いたヴァルダ改稿記録。

 セヴランの過去に何があったのか、まだ分からない。

 だが、彼は何かを償おうとしている。


「セヴラン」


 ファンタが呼ぶ。


「それでいいのか」


「よいか悪いかではない」


 セヴランは答えた。


「私は従うべき役割を失えば、何も残らない」


「そんなこと」


「君に分かるのか」


 セヴランの声が鋭くなる。


「役割に救われる人間もいる。何をすればいいか、どこに立てばいいか、誰に剣を向ければいいか。それが決まっていれば、過去の失敗に押し潰されずに済む」


 ファンタは言葉に詰まった。


 セヴランは、アレフへ向き直る。


「私は正文の騎士として、配役を受けます」


 ジアが小さく息を呑む。


 カインは険しい顔をした。


 ファンタは、セヴランから目を離せなかった。


 最も揺れているのに、最も従おうとしている。

 それが、痛々しかった。


 アレフは、最後に自分の名を読み上げた。


「アレフ」


 白紙に、彼の名前だけが淡く浮かぶ。


「神筆会主筆。世界完成後に消える編集者」


 リョウは顔を上げた。


「消える?」


「はい」


 アレフは、静かに頷いた。


「唯一正典が完成すれば、編集者は不要です。矛盾を校訂し、配役を定め、余白を統合した後、私は正典から消えます」


「それで、責任を取るつもりか」


 リョウの声が震えた。


「自分も消えるから、公平だって?」


「公平ではありません」


 アレフは即答した。


「私が行った削除も、改稿も、救えなかった記録も、消えません。ですが、完成後の世界に私の迷いは不要です」


「迷いを消すなよ」


 リョウは言った。


「澪とミラを救えなかったんだろ」


 アレフの目が、初めて揺れた。


 図書室の空気が冷たくなる。


「その記録を、見たのですね」


「見た」


 リョウは一歩前へ出る。


「最初から全部を一つにしようとしてたわけじゃない。二人を二人のまま救おうとしてた。でも失敗した。だから唯一正典に行った」


「はい」


 アレフは認めた。


「なら、そこで止まれよ。失敗したからって、全員を一つの正しい物語に押し込むな」


「止まった結果、二人は苦しみ続けました」


 アレフの声は静かだった。


 だが、その奥に、底のない痛みがあった。


「選ばない優しさは、時に残酷です。複数の可能性を残すことは、美しい。けれど、残された者は揺れ続ける。自分が誰であるか、どの記録が本物か、どちらの人生を選ぶべきか。問い続ける苦痛を、あなたは知っているはずです」


 その視線が、はつかへ向く。


「廻宵はつか。あなたは今も苦しいでしょう」


 はつかは答えない。


 苦しくないとは言えなかった。


 アレフは、ジアへ向く。


「ジア。あなたも、欠けたままです」


 ジアは唇を噛む。


 次に、カイとカインへ。


「相馬カイ。カイン=ローデル。あなた方は、傷を負ったまま、自分の役割を問い続けることになる」


 次に、ミレシアへ。


「ミレシア=リヴェルナ。真実と安定の間で、国を揺らし続ける」


 レムへ。


「レム=ネグラ。代表であることと、一人であることの間で割れ続ける」


 セヴランへ。


「セヴラン。償いと服従を区別できないまま、剣を握り続ける」


 最後に、リョウとファンタへ。


「久世遼。ファンタ=レイヴァン。あなた方は、責任と行動の間で互いを責め続ける」


 アレフは、両手を開いた。


「それでも、複数でありたいと言いますか」


 誰も、すぐには答えられなかった。


 アレフの言葉は、甘くはない。

 だが、確かに痛みを見ている。


 彼は、誰かを苦しめたいわけではない。

 苦しみを終わらせたいのだ。


 ただ、その方法が、全員の声を聞く前に結論を閉じている。


「言う」


 最初に答えたのは、カイだった。


 病室の映像が揺れる。

 彼は疲れている。顔色も悪い。

 それでも、声ははっきりしていた。


『揺れるのは嫌だ。痛いのも怖い。リョウとどうなるかも分かんない。でも、勝手に一人の親友役にされるよりはましだ』


 カインが続く。


「俺も同じだ。迷うのは面倒だ。痛みもある。だが、誰かが決めた帰り道だけを歩く気はない」


 ミレシアが王杖を握る。


「国は揺れます。それでも、揺れない嘘で沈むよりは、揺れながら水路を開く道を選びます」


 ファンタが剣を下げる。


「僕は正しい英雄にならない。間違えたことを持って、次に止まる方法を覚える」


 リョウは、断章を見る。


「俺は、書くことで誰かを決めたくない。でも、書いたことから逃げたくもない。正典主人公になって全部を綺麗にされるのは嫌だ」


 ジアは、はつかを見る。


「私は、完全になりたいです。でも、はつかさんを消して完全になるのは嫌です」


 はつかは、小さく息を吸った。


「私は、安定したいです。でも、私でなくなる安定は、まだ選べません」


 レムは、黒い文字片を握る。


「私は余白を閉じさせない。だが、私の怒りで全てを代表することも、問われたままにしておく」


 最後に、セヴランだけが黙っていた。


 ファンタは彼を見る。


「セヴラン」


「私は」


 セヴランの声は硬かった。


「私は、まだ拒めない」


 筆槍を握る手が震える。


「役割を失うことが、怖い」


 ファンタは、何か言おうとして止めた。


 その恐怖を、簡単に否定することはできなかった。


 アレフは、静かに頷いた。


「では、配役拒否多数。ただし、一名受諾」


 白紙の頁が、一斉にめくれた。


「予定通り、余白門を開きます」


 透子が顔を変えた。


「主筆、まだ不安定です。今開けば、三層の境界が」


「不安定だからこそ、今です」


 アレフは答えた。


「迷いが広がる前に、校了します」


 図書室の床が裂けた。


 裂け目から、黒い書庫の棚が見える。

 同時に、星見校典塔の円環が降りてくる。

 リヴェリスの水路の青い光が、閲覧机の脚元を走る。


 現実層では、綴原高校図書室のすべての本が開く。

 異典層では、星見校典塔の天球儀が逆回転を始める。

 余白層では、黒い書庫の奥に巨大な門が浮かび上がる。


 三つの場所が、同じ舞台として重なっていく。


 余白門。


 それは扉ではなかった。

 開いた頁であり、鏡であり、水面であり、傷口でもあった。


 その中心に、アレフが立つ。


「唯一正典計画、最終校了準備」


 彼の声が、三層すべてに響いた。


「配役抵抗を確認。次段階、強制照合へ移行します」


 白紙の頁が、リョウたちの周囲を取り囲む。


 それぞれの名前が、ゆっくりと近づき始めた。


 リョウとファンタ。

 はつかとジア。

 カイとカイン。

 ミレシアと王統。

 レムと最終悪。

 セヴランと正文の騎士。


 役割が、彼らを飲み込もうとしていた。

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