第10章 水路王都リヴェリス
水路王都リヴェリスは、水の上に書かれた都市だった。
白い石の橋が幾重にもかかり、運河は王宮を中心に放射状へ伸びている。家々の壁は淡い青と白で塗られ、窓辺には小さな星灯が吊るされていた。朝になると運河の水面に星灯の残り火が揺れ、昼には水路を行き交う小舟の影が石壁に反射する。
街のどこにいても、水の音がした。
水車の回る音。
船底が水を押す音。
橋の下で水が細く鳴る音。
広場の噴水が、王家の紋章をかたどって落ちる音。
リヴェルナの民にとって、水路は道であり、記録であり、避難路でもあった。
災害時には水門が開き、人々は舟で各地区へ分散する。戸籍も、税記録も、避難登録も、水路ごとの区画に結びついている。王家は水を治める者として、都市の流れと民の名を守ってきた。
だからこそ、王宮の前庭に掲げられた告知文は、あまりにも整っていた。
王太女ミレシア殿下、星見校典塔より無事帰還。
魔導士による不当拘束から、王都巡境騎士団ファンタ=レイヴァンらの尽力により救出。
王家は勇敢なる騎士たちに感謝を表し、王都の安寧を宣言する。
その文字を、ファンタは王宮前の広場で見上げていた。
違う。
最初に浮かんだのは、その一語だった。
ミレシアはさらわれていない。
塔へ自ら向かった。
母セレナの暗号を辿り、王家と神筆会の密約を調べていた。
自分たちは救出したのではない。彼女が残した道標を追って、ようやく真実の端へ辿り着いただけだ。
それなのに、広場に集まった人々は安堵していた。
「よかった」
「殿下がご無事で」
「やはり王家は守られている」
「あの若い騎士が救ったのか?」
「巡境騎士だそうだ。勇敢な方だ」
声が、運河沿いの風に乗って広がる。
ファンタは、外套の裾を握った。
「違う」
小さく呟いたつもりだった。
だが、隣にいたカインは聞いていた。
「何が違う」
測路杖を突いたまま、彼は広場の石畳に立っている。脚部補助具は布で隠しているが、歩く速度はまだ遅い。王都へ入るまでの道中、何度も休憩を挟んだ。それでもカインは、同行をやめなかった。
ファンタは告知文を見上げたまま言った。
「全部だ。僕は殿下を救ってない。殿下はさらわれてない。カインが傷ついたことも、ジアが無理をしたことも、ミレシア殿下が何を調べていたかも、何も書いてない」
「告知文は、事実の全部を書くものじゃない」
「だからって、嘘を書いていいのか」
「いいとは言っていない」
カインの声は冷静だった。
「ただ、王都の広場に最初に出す文章として、これが選ばれた理由は分かる」
「分かりたくない」
「分かれ」
短い言葉だった。
ファンタは、カインを見る。
カインは痛みに耐えるように少し杖へ体重を預けていた。
だが、その視線は王宮の告知文から離れない。
「リヴェルナは水路王国だ。避難路、戸籍、王位継承記録、地区ごとの公示網。その多くが、神筆会の校訂技術で補強されている可能性がある。塔で見た密約が本物なら、なおさらだ」
「だから?」
「今ここで『王家は神筆会と密約を結び、継承記録の一部を改稿していました』と公表すれば、真実を言った側から、民の避難登録や戸籍まで揺らぐかもしれない」
ファンタは黙った。
王都の運河を、小舟が静かに通り過ぎる。
荷物を積んだ船。子どもを連れた母親。水門管理の老人。
彼らは広場の告知を見て、安心した顔をしている。
その安心が、嘘に支えられているのだとしても。
今夜寝る場所、明日配られる水、災害時に乗るべき舟、家族の名前が記された戸籍。それらが急に揺らぐことを、彼らは望んでいない。
「正す順番を間違えれば」
カインは言った。
「守るべき人が落ちる」
「でも、正さなければ」
「正さないとは言っていない」
「カインはいつもそうだ。止めるけど、じゃあどうするかはすぐ言わない」
「急いで間違えるよりはましだ」
「それは、そうだけど」
ファンタは苛立ちを呑み込んだ。
カインの言葉は、正しい。
正しいからこそ、苦しい。
「君は、どう思う?」
ファンタが振り返ると、ジアは広場の端で告知文を見上げていた。
彼女は王都へ入ってから、いつもより口数が少ない。
はつかとの対話の後、何かをずっと考えている。白い翼型の髪飾りに触れる回数も増えた。
「私は」
ジアは言葉を選ぶ。
「正しいことを言えば、正しく治るわけではないと思います」
「治癒術みたいに?」
「はい。傷口に異物が入っていたら取り除かなければなりません。でも、乱暴に取り除けば血管も神経も傷つけます。だから順番が必要です。痛み止めも、止血も、説明も」
ジアは告知文を見る。
「ただ、異物を残したまま『治りました』と言うのも違います」
ファンタは苦笑した。
「結局、難しいってことか」
「はい」
ジアは真面目に頷いた。
「難しいです」
その正直さに、少しだけ肩の力が抜けた。
そこへ、王宮の水門騎士が近づいてきた。
「ファンタ=レイヴァン殿、カイン=ローデル殿、ジア殿。王太女殿下がお呼びです」
ファンタは王宮を見上げた。
水路王都リヴェリスの中心に建つ王宮は、白亜の建物ではない。水路と橋と塔を組み合わせた、複雑な構造をしている。中央には王座塔。左右に公示楼。下層には水門管理庁。王宮そのものが、水路の結節点だった。
その奥で、ミレシアは何を選ぼうとしているのか。
*
王宮の公示の間には、青い水が流れていた。
床の中央を細い水路が通り、その両側に白い石の歩廊がある。壁には歴代王の公示文が刻まれ、天井からは星路王杖を模した青銀の灯具が吊るされていた。
この間で発せられた言葉は、水路公示網を通じて王都全域へ届く。王家の宣言、災害時の避難指示、継承の承認。水路を持つ国にとって、言葉は水と同じように流れるものだった。
ミレシアは、公示の間の奥に立っていた。
旅装は脱いでいる。
王太女としての青い外衣をまとい、肩には水路紋の薄布をかけている。けれど、王宮が用意した宝冠はつけていなかった。髪も、儀礼用に高く結い上げず、塔で見た時と同じく低く束ねている。
その横に、父王オルディス三世が座していた。
年齢は五十代半ば。
水路王国の王らしく、穏やかで深い声を持つ人物だった。暴君には見えない。むしろ、長年災害と政務に削られてきた人間の疲労が滲んでいる。青灰色の目はミレシアに似ていたが、そこには彼女よりも多くの諦めがあった。
ファンタたちが礼を取ると、オルディス三世は手で制した。
「形式はよい。まず、礼を言うべきだろう。娘を無事に連れ戻してくれたこと、感謝する」
ファンタは顔を上げた。
「陛下。私たちは、王太女殿下を救出したわけではありません」
王の表情は変わらなかった。
「そうだな」
その返答に、ファンタは少し驚いた。
「ご存じだったのですか」
「ミレシアが自分の足で塔へ向かったことは、戻った時に本人から聞いた。だが、告知文はすでに出ている」
「撤回してください」
ファンタは言った。
カインが横で小さく息を吐いたが、止めなかった。
王はファンタを見た。
「若い騎士よ。撤回した後、何を出す」
「真実を」
「どの真実を」
王の問いは静かだった。
「娘が自ら王宮を抜けたことか。リヴェルナ王家が神筆会と密約を結んでいたことか。避難路と戸籍の一部が神筆会の校訂術で保たれていたことか。先代王妃セレナの死に関する記録が、いまだ完全ではないことか。王位継承記録の一部に改稿があることか」
ファンタは言葉に詰まった。
オルディス三世は、責めるようには言わなかった。
ただ、積み重なった事実を水路に置くように並べた。
「それらは真実だ。だが、一度に水門を開けば、王都は沈む」
「なら、いつ開くのですか」
ミレシアが言った。
王の視線が娘へ移る。
「父上は、いつもそう言われました。今ではない。民の安定が先だ。災害復旧が先だ。外交が落ち着いてから。継承式が終わってから。次の水路監査が終わってから。そうして、母の記録はずっと閉じられたままでした」
「ミレシア」
「私は、責めています」
ミレシアの声は震えていなかった。
「ですが、父上が何を恐れていたかも、今は少し分かります」
王は目を伏せた。
ミレシアは続ける。
「塔で密約を読みました。境界崩落の時、リヴェルナの南水路は破綻しかけていた。避難路記録が失われ、戸籍と配給記録が混乱し、民がどの舟へ乗るべきか分からなくなっていた。神筆会が記録を校訂し、避難名簿を復元し、水門の開閉順序を修正した。それで救われた命がある」
ファンタは、王の顔を見た。
否定しない。
その事実を、王は否定しなかった。
「余は、あの時王太子だった」
オルディス三世が言った。
「水路は壊れ、下町は沈み、名簿は泥に濡れて読めなくなった。誰をどの舟に乗せるか、どの家族がどこへ避難したか、分からなくなった。神筆会の校訂官が来なければ、さらに多くの民が死んでいた」
王の手が、肘掛けを握る。
「だから、余は彼らを完全には否定できなかった。記録を整える力は、確かに国を救った」
「その力で、母の声を閉じたのですね」
ミレシアの言葉に、王は目を閉じた。
「セレナは、神筆会への依存を危険視していた。唯一正典計画の初期案にも気づいていた。余も、途中から知った。だが、国はまだ不安定だった。公表すれば、王家への信頼も、避難路の信用も、戸籍の正当性も揺らぐ。余は、待った」
「待っている間に、母はいなくなりました」
「……そうだ」
「その記録すら、整えられました」
「そうだ」
王は、逃げなかった。
逃げなかったからといって、許されるわけではない。
そのことも、彼は分かっているようだった。
「余は暴君ではないつもりだった」
王は言った。
「民を守ろうとした。水路を守ろうとした。明日も暮らせる街を守ろうとした。だが、そのために閉じた記録がある。聞かなかった声がある」
ミレシアは、父を見つめた。
「私も同じです」
静かな告白だった。
ファンタたちが顔を上げる。
「私は塔へ向かう前、すべてを話しませんでした。王宮にも、民にも、あなた方にも。母の暗号を辿るため、誰がどう動くかを見るため、自分がさらわれた姫として扱われる可能性を利用しました」
「殿下」
ファンタが言いかける。
ミレシアは首を横に振った。
「私は被害者だけではありません。自分の意思を無視されたことに怒りながら、私もまた国民を守る名目で情報を独占しました。その結果、あなた方を危険へ巻き込み、カイン殿は傷を負った」
カインは、測路杖に手を置いたまま言った。
「その責任を英雄譚で隠す気がないなら、聞く価値はあります」
「カイン」
ファンタが少し慌てる。
「王太女殿下にその言い方」
「殿下が責任の話をした。なら、こちらも正直に言うべきだ」
ミレシアは、少しだけ口元を緩めた。
「構いません。むしろ、その方が助かります」
ジアが小さく息を吐く。
「正しい真実と、明日も暮らすための安定」
彼女は呟いた。
「どちらかだけを選ぶのは、たぶん治療ではありません」
王がジアを見る。
「治療?」
「はい。傷を隠せば膿みます。でも、いきなり全て切り開けば出血で死にます。だから、痛みの場所を本人に説明して、同意を取り、順番を決めて処置します」
ジアは少し恥ずかしそうに付け加えた。
「治癒術の話です」
オルディス三世は、わずかに笑った。
「国にも医師が必要か」
「治癒術師だけでは足りません。本人たちの同意が必要です」
ジアの言葉に、ミレシアが頷く。
「私は、公示を行います」
王の表情が険しくなる。
「今すぐか」
「はい」
「全てをか」
「いいえ」
ミレシアは答えた。
「全てを一度に開けば、混乱します。ですが、最初の嘘だけは、今ここで止めます」
ファンタは、彼女を見る。
ミレシアの瞳には迷いがあった。
だが、その迷いを隠していない。迷ったうえで、言葉を選ぼうとしている。
「私は、さらわれた姫ではないと公示します」
彼女は言った。
「そして、塔へ自ら向かったこと。その結果として、多くの人を危険へ巻き込んだこと。神筆会と王家の記録について、段階的な検証を始めること。それを告げます」
王は長い沈黙を置いた。
水路の音が、公示の間を流れている。
「それは、王家への信頼を傷つける」
「はい」
「民を不安にさせる」
「はい」
「神筆会は、これを反逆に近いものと見るだろう」
「はい」
「それでもか」
「はい」
ミレシアは一歩前へ出た。
「父上。信頼とは、何も知らされないことで守られるものではありません。揺らぐことを恐れて、ずっと閉じてきた結果、私は母の声を失いました。これ以上、同じことを続ければ、国は安定しているように見えても、内部から空白になります」
王は娘を見ていた。
そして、静かに立ち上がった。
「星路王杖を」
側近が息を呑む。
「陛下」
「持て」
命じられた側近が、公示の間の奥から王杖を運んでくる。
ミレシアが塔で持っていた細い杖ではない。
正式な星路王杖。水路王国の王家公示術を起動するための王具。青銀の杖身には、七つの運河を結ぶ星の文様が刻まれている。
王はそれを受け取り、しばらく見つめた。
それから、ミレシアへ差し出す。
「余は、お前を止めない」
ミレシアの目が揺れた。
「父上」
「だが、支えるともまだ言えぬ。余は臆病な王だ。水路の崩壊を恐れ、民の混乱を恐れ、神筆会を恐れた。その恐れは、今も消えていない」
王は、娘の手に王杖を渡した。
「それでも、最初の言葉は、お前が言え」
*
公示の間の扉が開く直前、セヴラン=グリフが現れた。
彼は王宮警備の騎士たちを従えていた。
いや、従えているというより、すでに掌握していた。王宮の警備騎士たちの胸元には、水路王国の紋章とともに、細い羽根ペンの印が浮かんでいる。神筆会の命令系統が一時的に上書きされているのだろう。
セヴランは筆槍を手に、公示の間の入口に立った。
「王太女殿下。公示はお控えください」
ミレシアは王杖を握ったまま振り返る。
「命令ですか」
「保護です」
「また、その言葉ですか」
彼女の声は静かだった。
セヴランの表情がわずかに曇る。
「殿下は、今ご自身の置かれた状況を十分に理解しておられません。神筆会と王家の密約、唯一正典計画、余白層干渉。公示を行えば、正典安定化に亀裂が入る。王都の記録網にも影響が出ます」
「分かっています」
「分かっていてなお?」
「はい」
セヴランは、短く息を吐いた。
その目に、騎士としての迷いがあった。
ミレシアは、彼をまっすぐ見た。
「セヴラン。あなたは昔、私の護衛候補でしたね」
ファンタはセヴランを見る。
彼の表情が、ほんの一瞬だけ変わった。
「幼少期の一時期です」
「私は覚えています。あなたはいつも廊下の曲がり角を先に確認して、私が走ると叱りました。水路に近づくと手を伸ばし、式典で退屈していると、見つからないように小さな紙の鳥をくれた」
セヴランの筆槍を握る手が固くなる。
「古い話です」
「ええ。ですが、あなたは守ろうとしてくれた。だから、聞きます」
ミレシアは一歩前へ出た。
「私を守るためなら、私が何者であるかを無視してよいのですか」
セヴランは答えなかった。
答えられなかった。
その沈黙を裂くように、ファンタが前へ出る。
「通してください」
「君は下がれ、ファンタ=レイヴァン」
セヴランの声が硬くなる。
「君は今、救国の英雄として公示されるべき位置にいる。余計な反論は役割を乱す」
「その役割、僕は受けていない」
「受けるかどうかの問題ではない」
セヴランが筆槍を構える。
「人は役割があるから迷わず立てる。王女は王女として、騎士は騎士として、補佐は補佐として、証人は証人として。そうして初めて、多くの人間が同じ物語の中で迷わず動ける」
「迷わず動けることが、そんなに大事ですか」
「迷いで人が死ぬこともある」
セヴランの目が、ファンタを貫いた。
「君も知ったはずだ。自由に選んだ結果、カイン=ローデルは倒れた。君が役割を逸脱し、焦り、外部感情に揺らいだからだ」
ファンタの息が止まる。
弱いところを正確に突かれた。
カインが一歩進もうとして、痛みに顔をしかめる。
ジアが支える。
「ファンタさん」
ジアが呼ぶ。
ファンタは、セヴランから目を逸らさない。
「僕は間違えた」
声は、少し震えた。
「カインを守れなかった。役割に乗せられて、急いで、剣を曲げられた。それは認める」
「なら、次は役割に従え」
「違う」
言葉は弱かった。
だが、言った。
「間違えたから、自分で考える。カインに聞く。ジアに止められる。ミレシア殿下の意思を確認する。リョウにも答えさせる。役割に従うんじゃなくて、誰が何を選ぶのかを聞く」
セヴランの顔が険しくなる。
「それが間に合わない時、誰が責任を取る」
「僕が」
「英雄の言葉だ」
セヴランは、鋭く言った。
「君は英雄であることから逃げられない。責任を取ると言った瞬間、君はまた全てを背負おうとしている」
ファンタは、言葉に詰まった。
セヴランの筆槍が動く。
空中に文字が走り、ファンタの足元へ役割文が刻まれる。
救国の騎士。
姫を救う者。
王家と民をつなぐ英雄。
迷いを断つ剣。
その文字が、ファンタの身体へ絡みつこうとする。
「ファンタ!」
ジアが叫ぶ。
ファンタは大剣を抜いた。
青銀の刃が、役割文を断つ。
だが、文字は完全には消えない。斬られても、別の行として再び浮かび上がる。
セヴランが踏み込む。
筆槍と大剣がぶつかった。
金属音ではない。
紙に刃を入れる音と、鐘のような響きが重なった。
ファンタは押し返す。
セヴランは流す。
筆槍の先が空中に文字を描き、その文字が足場や重みや方向を変える。
ファンタの剣は強い。
だが、セヴランの戦いは剣術だけではない。彼は場面そのものを書き換え、ファンタが「英雄らしく」動く角度へ誘導してくる。
前へ。
守れ。
斬れ。
姫の前に立て。
その全てが、ファンタの得意な動きだった。
だからこそ、危険だった。
「乗るな、ファンタ!」
カインの声が飛ぶ。
「その動きは、お前が選んだように見えて、書かれている!」
ファンタは歯を食いしばる。
前へ出たい。
セヴランを止めたい。
ミレシアを守りたい。
分かりやすい。
分かりやすすぎる。
だから、踏みとどまった。
剣を振り下ろす直前、ファンタは一歩引いた。
セヴランの筆槍が空を切る。
役割文が一瞬乱れた。
「なぜ退く」
セヴランが問う。
「退くのも、選択だ」
ファンタは息を切らしながら言った。
「僕は、姫の前に立つ英雄としてじゃなく、ミレシア殿下が自分で話す時間を作るために戦う」
決着はつかなかった。
だが、その一瞬で十分だった。
ミレシアは王杖を掲げ、公示の間の中央へ進んでいた。
*
水路王都リヴェリスの全ての水面が、青く光った。
運河。
噴水。
井戸。
家庭の水瓶。
水門の監視盤。
王宮前広場の中央水路。
王家公示術が起動した。
人々は足を止めた。
舟を操る者も、商人も、子どもも、兵士も、広場に集まっていた者たちも、水面に浮かび上がる王太女の姿を見た。
ミレシアは、公示の間に立っていた。
背後には父王。
片側にはファンタたち。
入口ではセヴランが筆槍を構えたまま動けずにいる。
ミレシアは、息を吸った。
その顔には恐怖があった。
だが、隠さなかった。
「リヴェルナの民へ」
声が、水路を通じて王都全域へ流れる。
「王太女ミレシア=リヴェルナです。先ほど王宮は、私が魔導士にさらわれ、勇敢な騎士によって救出されたと公示しました」
広場がざわめく。
ミレシアは続けた。
「その公示には、誤りがあります」
ざわめきが大きくなる。
「私は、さらわれた姫ではありません。私は、自ら星見校典塔エル・オルドへ行きました」
水路の音が、一瞬止まったように感じられた。
ミレシアの声は震えた。
それでも、途切れなかった。
「私は、亡き母セレナが残した記録を追い、王家と神筆会の間に存在する密約の一部を調べていました。私はその調査を、王宮にも民にも十分に知らせませんでした。自らの判断で行動し、その結果として、多くの人を危険へ巻き込みました」
ファンタは、剣を構えたまま彼女を見ていた。
これは、英雄譚ではない。
救われる姫の台詞ではない。
自分の行動の結果を、自分の声で引き受けようとする人間の言葉だった。
「巡境騎士団ファンタ=レイヴァン殿、カイン=ローデル殿、記述魔導士ジア殿は、私の痕跡を追い、塔の真実の一部へ到達しました。彼らの行動に感謝します。しかし、私は彼らによって救われた姫として、自らの責任を隠すつもりはありません」
王宮の入口で、セヴランの筆槍が震えた。
正典の筋書きに、亀裂が入っている。
ミレシアは、王杖をさらに高く掲げる。
「神筆会と王家の記録に関する検証を、段階的に開始します。避難路、戸籍、水路公示網、王位継承記録。それらは民の生活を支える重要な記録です。ゆえに、乱暴に壊すことはしません」
彼女の声が、少しだけ強くなる。
「しかし、安定の名で閉じられた声を、永遠に閉じたままにはしません」
王都の水面に、波紋が広がった。
「私は、この責任を英雄譚で隠しません」
公示の間に静寂が落ちた。
水路王都リヴェリスは、ミレシアの言葉を聞いていた。
信じる者も、疑う者も、怒る者も、恐れる者もいるだろう。
それでも、最初の嘘は止まった。
その瞬間、空気に亀裂が入った。
*
王宮前広場の中央水路が、黒く濁った。
最初は、インクが一滴落ちたようだった。
だが、次の瞬間、その黒は水路全体へ走り、石橋の下から、路地の排水溝から、噴水の影から、無数の黒い文字片が浮かび上がった。
人々が悲鳴を上げる。
「何だ、あれは」
「水が黒い!」
「文字?」
黒い文字片は水面から立ち上がり、人の形になりかける。
完全な人ではない。輪郭が足りず、名前が欠け、顔の部分には消された文章の跡が揺れている。
黒稿体。
余白層に押し込まれていた、採用されなかった記録たち。
ファンタは広場を見て、剣を握る。
「亀裂から入ってきたのか」
ジアが青ざめる。
「公示で、閉じられていた記録が開きました。その隙間から、余白層が」
「ミレシア殿下のせいじゃない」
ファンタが即座に言った。
カインが短く返す。
「せいの話をしている暇はない。流入経路を読む」
王宮の水路の中央に、黒い外套の男が現れた。
レム=ネグラ。
彼は水面の上に立っていた。
足元には、黒い文字片が花びらのように集まっている。
ミレシアは、公示の間から水面越しに彼を見る。
「あなたが、これを」
「私は扉を開けてはいない」
レムの声が、水路全体に響く。
「あなたが開いた。隠されたものを、開くと宣言した。その亀裂から、隠されたものたちが顔を出しただけだ」
「民を危険にさらすつもりですか」
「危険にさらされてきたのは、彼らも同じだ」
レムは、黒稿体たちを見た。
「隠されたものを開くなら、全て開くべきだ」
その言葉に、ミレシアの顔が強張る。
「全てを一度に開けば、国が壊れます」
「なら、また選別するのか」
レムの銀の瞳が、冷たく光る。
「民の安定のため。王家の継承のため。正しい順番のため。そう言って、また誰かを後回しにするのか」
ファンタは、水路へ向かって剣を構えた。
「レム。人を襲わせるなら止める」
「襲わせてはいない」
レムは静かに言った。
「彼らは、出てきただけだ。読まれたいから。自分たちがいたことを、誰かに見てほしいから」
広場では、黒稿体の一体が水路沿いの告知板に触れていた。
すると、古い公示文の下から別の文が浮かび上がる。
削除された避難名簿。
王位継承から外された名。
水路崩落で救われなかった地区の記録。
病死とされた者の異議。
神筆会の校訂印。
人々がざわめく。
真実が、一度に溢れ出そうとしていた。
ミレシアは王杖を握りしめる。
自分は最初の嘘を止めた。
しかし、その亀裂から、閉じられていた全ての声が押し寄せてくる。
全て開くべきか。
順番を決めるべきか。
順番を決めることは、また誰かを黙らせることなのか。
問いが、水路のように彼女の足元へ流れ込む。
ファンタは、その横顔を見た。
そして、ようやく理解した。
英雄が剣を振れば解決する場面ではない。
姫が真実を叫べば終わる場面でもない。
ここには、国があり、民がいて、記録があり、隠された声がある。
その全てを、一つの物語へ押し込もうとしている者がいる。
そして、一つの物語から外された全てを、一度に返そうとしている者もいる。
水路王都リヴェリスの青い水は、黒い文字で満ち始めていた。




