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第10章 水路王都リヴェリス

 水路王都リヴェリスは、水の上に書かれた都市だった。


 白い石の橋が幾重にもかかり、運河は王宮を中心に放射状へ伸びている。家々の壁は淡い青と白で塗られ、窓辺には小さな星灯が吊るされていた。朝になると運河の水面に星灯の残り火が揺れ、昼には水路を行き交う小舟の影が石壁に反射する。


 街のどこにいても、水の音がした。


 水車の回る音。

 船底が水を押す音。

 橋の下で水が細く鳴る音。

 広場の噴水が、王家の紋章をかたどって落ちる音。


 リヴェルナの民にとって、水路は道であり、記録であり、避難路でもあった。

 災害時には水門が開き、人々は舟で各地区へ分散する。戸籍も、税記録も、避難登録も、水路ごとの区画に結びついている。王家は水を治める者として、都市の流れと民の名を守ってきた。


 だからこそ、王宮の前庭に掲げられた告知文は、あまりにも整っていた。


 王太女ミレシア殿下、星見校典塔より無事帰還。

 魔導士による不当拘束から、王都巡境騎士団ファンタ=レイヴァンらの尽力により救出。

 王家は勇敢なる騎士たちに感謝を表し、王都の安寧を宣言する。


 その文字を、ファンタは王宮前の広場で見上げていた。


 違う。


 最初に浮かんだのは、その一語だった。


 ミレシアはさらわれていない。

 塔へ自ら向かった。

 母セレナの暗号を辿り、王家と神筆会の密約を調べていた。

 自分たちは救出したのではない。彼女が残した道標を追って、ようやく真実の端へ辿り着いただけだ。


 それなのに、広場に集まった人々は安堵していた。


「よかった」


「殿下がご無事で」


「やはり王家は守られている」


「あの若い騎士が救ったのか?」


「巡境騎士だそうだ。勇敢な方だ」


 声が、運河沿いの風に乗って広がる。


 ファンタは、外套の裾を握った。


「違う」


 小さく呟いたつもりだった。


 だが、隣にいたカインは聞いていた。


「何が違う」


 測路杖を突いたまま、彼は広場の石畳に立っている。脚部補助具は布で隠しているが、歩く速度はまだ遅い。王都へ入るまでの道中、何度も休憩を挟んだ。それでもカインは、同行をやめなかった。


 ファンタは告知文を見上げたまま言った。


「全部だ。僕は殿下を救ってない。殿下はさらわれてない。カインが傷ついたことも、ジアが無理をしたことも、ミレシア殿下が何を調べていたかも、何も書いてない」


「告知文は、事実の全部を書くものじゃない」


「だからって、嘘を書いていいのか」


「いいとは言っていない」


 カインの声は冷静だった。


「ただ、王都の広場に最初に出す文章として、これが選ばれた理由は分かる」


「分かりたくない」


「分かれ」


 短い言葉だった。


 ファンタは、カインを見る。


 カインは痛みに耐えるように少し杖へ体重を預けていた。

 だが、その視線は王宮の告知文から離れない。


「リヴェルナは水路王国だ。避難路、戸籍、王位継承記録、地区ごとの公示網。その多くが、神筆会の校訂技術で補強されている可能性がある。塔で見た密約が本物なら、なおさらだ」


「だから?」


「今ここで『王家は神筆会と密約を結び、継承記録の一部を改稿していました』と公表すれば、真実を言った側から、民の避難登録や戸籍まで揺らぐかもしれない」


 ファンタは黙った。


 王都の運河を、小舟が静かに通り過ぎる。

 荷物を積んだ船。子どもを連れた母親。水門管理の老人。

 彼らは広場の告知を見て、安心した顔をしている。


 その安心が、嘘に支えられているのだとしても。

 今夜寝る場所、明日配られる水、災害時に乗るべき舟、家族の名前が記された戸籍。それらが急に揺らぐことを、彼らは望んでいない。


「正す順番を間違えれば」


 カインは言った。


「守るべき人が落ちる」


「でも、正さなければ」


「正さないとは言っていない」


「カインはいつもそうだ。止めるけど、じゃあどうするかはすぐ言わない」


「急いで間違えるよりはましだ」


「それは、そうだけど」


 ファンタは苛立ちを呑み込んだ。


 カインの言葉は、正しい。

 正しいからこそ、苦しい。


「君は、どう思う?」


 ファンタが振り返ると、ジアは広場の端で告知文を見上げていた。


 彼女は王都へ入ってから、いつもより口数が少ない。

 はつかとの対話の後、何かをずっと考えている。白い翼型の髪飾りに触れる回数も増えた。


「私は」


 ジアは言葉を選ぶ。


「正しいことを言えば、正しく治るわけではないと思います」


「治癒術みたいに?」


「はい。傷口に異物が入っていたら取り除かなければなりません。でも、乱暴に取り除けば血管も神経も傷つけます。だから順番が必要です。痛み止めも、止血も、説明も」


 ジアは告知文を見る。


「ただ、異物を残したまま『治りました』と言うのも違います」


 ファンタは苦笑した。


「結局、難しいってことか」


「はい」


 ジアは真面目に頷いた。


「難しいです」


 その正直さに、少しだけ肩の力が抜けた。


 そこへ、王宮の水門騎士が近づいてきた。


「ファンタ=レイヴァン殿、カイン=ローデル殿、ジア殿。王太女殿下がお呼びです」


 ファンタは王宮を見上げた。


 水路王都リヴェリスの中心に建つ王宮は、白亜の建物ではない。水路と橋と塔を組み合わせた、複雑な構造をしている。中央には王座塔。左右に公示楼。下層には水門管理庁。王宮そのものが、水路の結節点だった。


 その奥で、ミレシアは何を選ぼうとしているのか。


     *


 王宮の公示の間には、青い水が流れていた。


 床の中央を細い水路が通り、その両側に白い石の歩廊がある。壁には歴代王の公示文が刻まれ、天井からは星路王杖アステリアを模した青銀の灯具が吊るされていた。

 この間で発せられた言葉は、水路公示網を通じて王都全域へ届く。王家の宣言、災害時の避難指示、継承の承認。水路を持つ国にとって、言葉は水と同じように流れるものだった。


 ミレシアは、公示の間の奥に立っていた。


 旅装は脱いでいる。

 王太女としての青い外衣をまとい、肩には水路紋の薄布をかけている。けれど、王宮が用意した宝冠はつけていなかった。髪も、儀礼用に高く結い上げず、塔で見た時と同じく低く束ねている。


 その横に、父王オルディス三世が座していた。


 年齢は五十代半ば。

 水路王国の王らしく、穏やかで深い声を持つ人物だった。暴君には見えない。むしろ、長年災害と政務に削られてきた人間の疲労が滲んでいる。青灰色の目はミレシアに似ていたが、そこには彼女よりも多くの諦めがあった。


 ファンタたちが礼を取ると、オルディス三世は手で制した。


「形式はよい。まず、礼を言うべきだろう。娘を無事に連れ戻してくれたこと、感謝する」


 ファンタは顔を上げた。


「陛下。私たちは、王太女殿下を救出したわけではありません」


 王の表情は変わらなかった。


「そうだな」


 その返答に、ファンタは少し驚いた。


「ご存じだったのですか」


「ミレシアが自分の足で塔へ向かったことは、戻った時に本人から聞いた。だが、告知文はすでに出ている」


「撤回してください」


 ファンタは言った。


 カインが横で小さく息を吐いたが、止めなかった。


 王はファンタを見た。


「若い騎士よ。撤回した後、何を出す」


「真実を」


「どの真実を」


 王の問いは静かだった。


「娘が自ら王宮を抜けたことか。リヴェルナ王家が神筆会と密約を結んでいたことか。避難路と戸籍の一部が神筆会の校訂術で保たれていたことか。先代王妃セレナの死に関する記録が、いまだ完全ではないことか。王位継承記録の一部に改稿があることか」


 ファンタは言葉に詰まった。


 オルディス三世は、責めるようには言わなかった。

 ただ、積み重なった事実を水路に置くように並べた。


「それらは真実だ。だが、一度に水門を開けば、王都は沈む」


「なら、いつ開くのですか」


 ミレシアが言った。


 王の視線が娘へ移る。


「父上は、いつもそう言われました。今ではない。民の安定が先だ。災害復旧が先だ。外交が落ち着いてから。継承式が終わってから。次の水路監査が終わってから。そうして、母の記録はずっと閉じられたままでした」


「ミレシア」


「私は、責めています」


 ミレシアの声は震えていなかった。


「ですが、父上が何を恐れていたかも、今は少し分かります」


 王は目を伏せた。


 ミレシアは続ける。


「塔で密約を読みました。境界崩落の時、リヴェルナの南水路は破綻しかけていた。避難路記録が失われ、戸籍と配給記録が混乱し、民がどの舟へ乗るべきか分からなくなっていた。神筆会が記録を校訂し、避難名簿を復元し、水門の開閉順序を修正した。それで救われた命がある」


 ファンタは、王の顔を見た。


 否定しない。

 その事実を、王は否定しなかった。


「余は、あの時王太子だった」


 オルディス三世が言った。


「水路は壊れ、下町は沈み、名簿は泥に濡れて読めなくなった。誰をどの舟に乗せるか、どの家族がどこへ避難したか、分からなくなった。神筆会の校訂官が来なければ、さらに多くの民が死んでいた」


 王の手が、肘掛けを握る。


「だから、余は彼らを完全には否定できなかった。記録を整える力は、確かに国を救った」


「その力で、母の声を閉じたのですね」


 ミレシアの言葉に、王は目を閉じた。


「セレナは、神筆会への依存を危険視していた。唯一正典計画の初期案にも気づいていた。余も、途中から知った。だが、国はまだ不安定だった。公表すれば、王家への信頼も、避難路の信用も、戸籍の正当性も揺らぐ。余は、待った」


「待っている間に、母はいなくなりました」


「……そうだ」


「その記録すら、整えられました」


「そうだ」


 王は、逃げなかった。


 逃げなかったからといって、許されるわけではない。

 そのことも、彼は分かっているようだった。


「余は暴君ではないつもりだった」


 王は言った。


「民を守ろうとした。水路を守ろうとした。明日も暮らせる街を守ろうとした。だが、そのために閉じた記録がある。聞かなかった声がある」


 ミレシアは、父を見つめた。


「私も同じです」


 静かな告白だった。


 ファンタたちが顔を上げる。


「私は塔へ向かう前、すべてを話しませんでした。王宮にも、民にも、あなた方にも。母の暗号を辿るため、誰がどう動くかを見るため、自分がさらわれた姫として扱われる可能性を利用しました」


「殿下」


 ファンタが言いかける。


 ミレシアは首を横に振った。


「私は被害者だけではありません。自分の意思を無視されたことに怒りながら、私もまた国民を守る名目で情報を独占しました。その結果、あなた方を危険へ巻き込み、カイン殿は傷を負った」


 カインは、測路杖に手を置いたまま言った。


「その責任を英雄譚で隠す気がないなら、聞く価値はあります」


「カイン」


 ファンタが少し慌てる。


「王太女殿下にその言い方」


「殿下が責任の話をした。なら、こちらも正直に言うべきだ」


 ミレシアは、少しだけ口元を緩めた。


「構いません。むしろ、その方が助かります」


 ジアが小さく息を吐く。


「正しい真実と、明日も暮らすための安定」


 彼女は呟いた。


「どちらかだけを選ぶのは、たぶん治療ではありません」


 王がジアを見る。


「治療?」


「はい。傷を隠せば膿みます。でも、いきなり全て切り開けば出血で死にます。だから、痛みの場所を本人に説明して、同意を取り、順番を決めて処置します」


 ジアは少し恥ずかしそうに付け加えた。


「治癒術の話です」


 オルディス三世は、わずかに笑った。


「国にも医師が必要か」


「治癒術師だけでは足りません。本人たちの同意が必要です」


 ジアの言葉に、ミレシアが頷く。


「私は、公示を行います」


 王の表情が険しくなる。


「今すぐか」


「はい」


「全てをか」


「いいえ」


 ミレシアは答えた。


「全てを一度に開けば、混乱します。ですが、最初の嘘だけは、今ここで止めます」


 ファンタは、彼女を見る。


 ミレシアの瞳には迷いがあった。

 だが、その迷いを隠していない。迷ったうえで、言葉を選ぼうとしている。


「私は、さらわれた姫ではないと公示します」


 彼女は言った。


「そして、塔へ自ら向かったこと。その結果として、多くの人を危険へ巻き込んだこと。神筆会と王家の記録について、段階的な検証を始めること。それを告げます」


 王は長い沈黙を置いた。


 水路の音が、公示の間を流れている。


「それは、王家への信頼を傷つける」


「はい」


「民を不安にさせる」


「はい」


「神筆会は、これを反逆に近いものと見るだろう」


「はい」


「それでもか」


「はい」


 ミレシアは一歩前へ出た。


「父上。信頼とは、何も知らされないことで守られるものではありません。揺らぐことを恐れて、ずっと閉じてきた結果、私は母の声を失いました。これ以上、同じことを続ければ、国は安定しているように見えても、内部から空白になります」


 王は娘を見ていた。


 そして、静かに立ち上がった。


星路王杖アステリアを」


 側近が息を呑む。


「陛下」


「持て」


 命じられた側近が、公示の間の奥から王杖を運んでくる。


 ミレシアが塔で持っていた細い杖ではない。

 正式な星路王杖アステリア。水路王国の王家公示術を起動するための王具。青銀の杖身には、七つの運河を結ぶ星の文様が刻まれている。


 王はそれを受け取り、しばらく見つめた。


 それから、ミレシアへ差し出す。


「余は、お前を止めない」


 ミレシアの目が揺れた。


「父上」


「だが、支えるともまだ言えぬ。余は臆病な王だ。水路の崩壊を恐れ、民の混乱を恐れ、神筆会を恐れた。その恐れは、今も消えていない」


 王は、娘の手に王杖を渡した。


「それでも、最初の言葉は、お前が言え」


     *


 公示の間の扉が開く直前、セヴラン=グリフが現れた。


 彼は王宮警備の騎士たちを従えていた。

 いや、従えているというより、すでに掌握していた。王宮の警備騎士たちの胸元には、水路王国の紋章とともに、細い羽根ペンの印が浮かんでいる。神筆会の命令系統が一時的に上書きされているのだろう。


 セヴランは筆槍を手に、公示の間の入口に立った。


「王太女殿下。公示はお控えください」


 ミレシアは王杖を握ったまま振り返る。


「命令ですか」


「保護です」


「また、その言葉ですか」


 彼女の声は静かだった。


 セヴランの表情がわずかに曇る。


「殿下は、今ご自身の置かれた状況を十分に理解しておられません。神筆会と王家の密約、唯一正典計画、余白層干渉。公示を行えば、正典安定化に亀裂が入る。王都の記録網にも影響が出ます」


「分かっています」


「分かっていてなお?」


「はい」


 セヴランは、短く息を吐いた。


 その目に、騎士としての迷いがあった。


 ミレシアは、彼をまっすぐ見た。


「セヴラン。あなたは昔、私の護衛候補でしたね」


 ファンタはセヴランを見る。


 彼の表情が、ほんの一瞬だけ変わった。


「幼少期の一時期です」


「私は覚えています。あなたはいつも廊下の曲がり角を先に確認して、私が走ると叱りました。水路に近づくと手を伸ばし、式典で退屈していると、見つからないように小さな紙の鳥をくれた」


 セヴランの筆槍を握る手が固くなる。


「古い話です」


「ええ。ですが、あなたは守ろうとしてくれた。だから、聞きます」


 ミレシアは一歩前へ出た。


「私を守るためなら、私が何者であるかを無視してよいのですか」


 セヴランは答えなかった。


 答えられなかった。


 その沈黙を裂くように、ファンタが前へ出る。


「通してください」


「君は下がれ、ファンタ=レイヴァン」


 セヴランの声が硬くなる。


「君は今、救国の英雄として公示されるべき位置にいる。余計な反論は役割を乱す」


「その役割、僕は受けていない」


「受けるかどうかの問題ではない」


 セヴランが筆槍を構える。


「人は役割があるから迷わず立てる。王女は王女として、騎士は騎士として、補佐は補佐として、証人は証人として。そうして初めて、多くの人間が同じ物語の中で迷わず動ける」


「迷わず動けることが、そんなに大事ですか」


「迷いで人が死ぬこともある」


 セヴランの目が、ファンタを貫いた。


「君も知ったはずだ。自由に選んだ結果、カイン=ローデルは倒れた。君が役割を逸脱し、焦り、外部感情に揺らいだからだ」


 ファンタの息が止まる。


 弱いところを正確に突かれた。


 カインが一歩進もうとして、痛みに顔をしかめる。

 ジアが支える。


「ファンタさん」


 ジアが呼ぶ。


 ファンタは、セヴランから目を逸らさない。


「僕は間違えた」


 声は、少し震えた。


「カインを守れなかった。役割に乗せられて、急いで、剣を曲げられた。それは認める」


「なら、次は役割に従え」


「違う」


 言葉は弱かった。

 だが、言った。


「間違えたから、自分で考える。カインに聞く。ジアに止められる。ミレシア殿下の意思を確認する。リョウにも答えさせる。役割に従うんじゃなくて、誰が何を選ぶのかを聞く」


 セヴランの顔が険しくなる。


「それが間に合わない時、誰が責任を取る」


「僕が」


「英雄の言葉だ」


 セヴランは、鋭く言った。


「君は英雄であることから逃げられない。責任を取ると言った瞬間、君はまた全てを背負おうとしている」


 ファンタは、言葉に詰まった。


 セヴランの筆槍が動く。


 空中に文字が走り、ファンタの足元へ役割文が刻まれる。


 救国の騎士。

 姫を救う者。

 王家と民をつなぐ英雄。

 迷いを断つ剣。


 その文字が、ファンタの身体へ絡みつこうとする。


「ファンタ!」


 ジアが叫ぶ。


 ファンタは大剣を抜いた。


 青銀の刃が、役割文を断つ。

 だが、文字は完全には消えない。斬られても、別の行として再び浮かび上がる。


 セヴランが踏み込む。


 筆槍と大剣がぶつかった。


 金属音ではない。

 紙に刃を入れる音と、鐘のような響きが重なった。


 ファンタは押し返す。

 セヴランは流す。

 筆槍の先が空中に文字を描き、その文字が足場や重みや方向を変える。


 ファンタの剣は強い。

 だが、セヴランの戦いは剣術だけではない。彼は場面そのものを書き換え、ファンタが「英雄らしく」動く角度へ誘導してくる。


 前へ。

 守れ。

 斬れ。

 姫の前に立て。


 その全てが、ファンタの得意な動きだった。


 だからこそ、危険だった。


「乗るな、ファンタ!」


 カインの声が飛ぶ。


「その動きは、お前が選んだように見えて、書かれている!」


 ファンタは歯を食いしばる。


 前へ出たい。

 セヴランを止めたい。

 ミレシアを守りたい。

 分かりやすい。


 分かりやすすぎる。


 だから、踏みとどまった。


 剣を振り下ろす直前、ファンタは一歩引いた。


 セヴランの筆槍が空を切る。


 役割文が一瞬乱れた。


「なぜ退く」


 セヴランが問う。


「退くのも、選択だ」


 ファンタは息を切らしながら言った。


「僕は、姫の前に立つ英雄としてじゃなく、ミレシア殿下が自分で話す時間を作るために戦う」


 決着はつかなかった。


 だが、その一瞬で十分だった。


 ミレシアは王杖アステリアを掲げ、公示の間の中央へ進んでいた。


     *


 水路王都リヴェリスの全ての水面が、青く光った。


 運河。

 噴水。

 井戸。

 家庭の水瓶。

 水門の監視盤。

 王宮前広場の中央水路。


 王家公示術が起動した。


 人々は足を止めた。

 舟を操る者も、商人も、子どもも、兵士も、広場に集まっていた者たちも、水面に浮かび上がる王太女の姿を見た。


 ミレシアは、公示の間に立っていた。


 背後には父王。

 片側にはファンタたち。

 入口ではセヴランが筆槍を構えたまま動けずにいる。


 ミレシアは、息を吸った。


 その顔には恐怖があった。

 だが、隠さなかった。


「リヴェルナの民へ」


 声が、水路を通じて王都全域へ流れる。


「王太女ミレシア=リヴェルナです。先ほど王宮は、私が魔導士にさらわれ、勇敢な騎士によって救出されたと公示しました」


 広場がざわめく。


 ミレシアは続けた。


「その公示には、誤りがあります」


 ざわめきが大きくなる。


「私は、さらわれた姫ではありません。私は、自ら星見校典塔エル・オルドへ行きました」


 水路の音が、一瞬止まったように感じられた。


 ミレシアの声は震えた。

 それでも、途切れなかった。


「私は、亡き母セレナが残した記録を追い、王家と神筆会の間に存在する密約の一部を調べていました。私はその調査を、王宮にも民にも十分に知らせませんでした。自らの判断で行動し、その結果として、多くの人を危険へ巻き込みました」


 ファンタは、剣を構えたまま彼女を見ていた。


 これは、英雄譚ではない。

 救われる姫の台詞ではない。

 自分の行動の結果を、自分の声で引き受けようとする人間の言葉だった。


「巡境騎士団ファンタ=レイヴァン殿、カイン=ローデル殿、記述魔導士ジア殿は、私の痕跡を追い、塔の真実の一部へ到達しました。彼らの行動に感謝します。しかし、私は彼らによって救われた姫として、自らの責任を隠すつもりはありません」


 王宮の入口で、セヴランの筆槍が震えた。


 正典の筋書きに、亀裂が入っている。


 ミレシアは、王杖をさらに高く掲げる。


「神筆会と王家の記録に関する検証を、段階的に開始します。避難路、戸籍、水路公示網、王位継承記録。それらは民の生活を支える重要な記録です。ゆえに、乱暴に壊すことはしません」


 彼女の声が、少しだけ強くなる。


「しかし、安定の名で閉じられた声を、永遠に閉じたままにはしません」


 王都の水面に、波紋が広がった。


「私は、この責任を英雄譚で隠しません」


 公示の間に静寂が落ちた。


 水路王都リヴェリスは、ミレシアの言葉を聞いていた。


 信じる者も、疑う者も、怒る者も、恐れる者もいるだろう。

 それでも、最初の嘘は止まった。


 その瞬間、空気に亀裂が入った。


     *


 王宮前広場の中央水路が、黒く濁った。


 最初は、インクが一滴落ちたようだった。

 だが、次の瞬間、その黒は水路全体へ走り、石橋の下から、路地の排水溝から、噴水の影から、無数の黒い文字片が浮かび上がった。


 人々が悲鳴を上げる。


「何だ、あれは」


「水が黒い!」


「文字?」


 黒い文字片は水面から立ち上がり、人の形になりかける。

 完全な人ではない。輪郭が足りず、名前が欠け、顔の部分には消された文章の跡が揺れている。


 黒稿体。


 余白層に押し込まれていた、採用されなかった記録たち。


 ファンタは広場を見て、剣を握る。


「亀裂から入ってきたのか」


 ジアが青ざめる。


「公示で、閉じられていた記録が開きました。その隙間から、余白層が」


「ミレシア殿下のせいじゃない」


 ファンタが即座に言った。


 カインが短く返す。


「せいの話をしている暇はない。流入経路を読む」


 王宮の水路の中央に、黒い外套の男が現れた。


 レム=ネグラ。


 彼は水面の上に立っていた。

 足元には、黒い文字片が花びらのように集まっている。


 ミレシアは、公示の間から水面越しに彼を見る。


「あなたが、これを」


「私は扉を開けてはいない」


 レムの声が、水路全体に響く。


「あなたが開いた。隠されたものを、開くと宣言した。その亀裂から、隠されたものたちが顔を出しただけだ」


「民を危険にさらすつもりですか」


「危険にさらされてきたのは、彼らも同じだ」


 レムは、黒稿体たちを見た。


「隠されたものを開くなら、全て開くべきだ」


 その言葉に、ミレシアの顔が強張る。


「全てを一度に開けば、国が壊れます」


「なら、また選別するのか」


 レムの銀の瞳が、冷たく光る。


「民の安定のため。王家の継承のため。正しい順番のため。そう言って、また誰かを後回しにするのか」


 ファンタは、水路へ向かって剣を構えた。


「レム。人を襲わせるなら止める」


「襲わせてはいない」


 レムは静かに言った。


「彼らは、出てきただけだ。読まれたいから。自分たちがいたことを、誰かに見てほしいから」


 広場では、黒稿体の一体が水路沿いの告知板に触れていた。

 すると、古い公示文の下から別の文が浮かび上がる。


 削除された避難名簿。

 王位継承から外された名。

 水路崩落で救われなかった地区の記録。

 病死とされた者の異議。

 神筆会の校訂印。


 人々がざわめく。


 真実が、一度に溢れ出そうとしていた。


 ミレシアは王杖を握りしめる。


 自分は最初の嘘を止めた。

 しかし、その亀裂から、閉じられていた全ての声が押し寄せてくる。


 全て開くべきか。

 順番を決めるべきか。

 順番を決めることは、また誰かを黙らせることなのか。


 問いが、水路のように彼女の足元へ流れ込む。


 ファンタは、その横顔を見た。


 そして、ようやく理解した。


 英雄が剣を振れば解決する場面ではない。

 姫が真実を叫べば終わる場面でもない。

 ここには、国があり、民がいて、記録があり、隠された声がある。


 その全てを、一つの物語へ押し込もうとしている者がいる。


 そして、一つの物語から外された全てを、一度に返そうとしている者もいる。


 水路王都リヴェリスの青い水は、黒い文字で満ち始めていた。

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