見えない稜線④
「松岡さん、今の9って、何のこと?」
ただならぬ雰囲気を察し、松岡の後ろで聞いていた主任研究員の沢村美咲が聞いた。
「はい」
松岡は振り向かず、パソコンの画面を山岳地図に切り替えた。
「西穂高岳は、山頂から西穂独標まで、ピークに番号が振ってあるんです。西穂高岳が1,独標が11を表します」
「9っていうのは、そのピークのひとつってこと?」
「はい」
松岡はパソコンの画面を指差した。
「ここにピラミッドピークという岩峰があるんですが、ここは7に該当します。これより先は道も険しく、雲の動きも悪いです」
「ということは……」
「彼らはその手前にいるということです。9を降りたところは、部分的ですが鞍部で風をよけられる場所があります」
「じゃあ、望みはあるってこと?」
美咲の声が少し明るくなった。
「あります。しかし」
松岡は画面を切り替え、雨雲レーダーを映した。
「先程も言った通り、猶予は四十分程度です。上高地から現地まで飛んで、四人全員を救助するのは、全く余裕はありません」
「それなら、全員は難しい……」
「いえ」
松岡の語気が強くなった。
「僕が雲なら」
一拍おいて、松岡は静かに言った。
「四十分は絶対にこの場所には動きません。それに」
「それに?」
「篠田先輩は、日本屈指のヘリレスキューです」
松岡は振り返った。
「僕は、信じます」
松岡の真っすぐな視線に、美咲は言葉を失った。
「西川君、写真、ありがとう……」
斎藤の言葉に、西川は苦しい表情のまま、口元を少し緩めた。
「僕、一番弱いから、迷わないように記録とっておこうと思って……」
「西川君……」
あなたは弱くない、と斎藤が言おうとした時だった。
南野が立ち上がり、首元のタオルを取ると、思いっきり振り回した。
「おーい!」
「南野君!……」
斎藤は一瞬驚いたが、一緒に立ち上がろうとするのを、南野が手で制した。
「真奈美ちゃんは、西川君を起こして!」
「南野君!」
「俺のせいなんだ!」
「え?」
「俺のせいで、みんなが……」
南野はそこで言葉に詰まった。
斎藤はその南野の横顔を見てはっとした。鼻をすすり、目が赤い。
「おーい!」
南野は必死でタオルを振り続けた。
やがて、遠くから、その声に応えるように爆音が聞こえてきた。
柳沢はグラスコックピットで3D地形データを見ながら、水平儀、電波高度計をこまめにチェックし、尾根に向かっていく。
小型レーダーで雨雲を確認しながら、なるべく回避するが、視界はすぐれない。
「もうすぐだが……」
柳沢が呟いた時だった。
ガスが切れ、稜線が見えた。
「いたぞ!」
篠田の指さす先に、タオルを振り回す南野たちの姿があった。
しかし、強風下では、機体が安定せず、ホイストケーブルが揺れて障害物に接触する危険がある。
「まだ風速十メートル以下だな……ヤナ、ホバリング維持、頼む」
「まかせろ!」
柳沢はホバリングに入った。
高度約三十メートルで停止。だが、機体は左右に揺れる。風に煽られ、岩壁に寄りすぎると尾翼をぶつけて墜落する危険もある。操縦桿を細かく操作し、機体を微妙に位置調整し続ける。
「……出るぞ!」
篠田ともう一人の隊員が、ホイストケーブルで下降。
篠田ともうひとりの隊員は降り立つと、すぐに四人に駆け寄った。
「お前ら、よく頑張った!」
篠田の言葉に、全員が泣き出した。
「ありがとうございます……」
斎藤と南野が、篠田に近づいた。
「けが人と病人は?」
「あっちです」
「よし」
雨に打たれながら、谷口を確保。
「引き上げろ!」
ホイストがつり上げる。だが、ワイヤーが風に煽られて斜めに振れ、岩壁に叩きつけられそうになる。
柳沢は細かくスティックを動かし、体勢を立て直す。
ローターの風で、霧と雨が渦を巻いた。
必死に耐え、何とか谷口を確保。
別の隊員が、早速毛布をあてがい、お茶を差し出した。
「あと三人……」
篠田は歯を食いしばった。
次に隊員が殆ど力の入らない西川を背後から支えながら上がり、確保。手早く毛布に包まれた。
「次だ、急げ!」
だが、乱流がさらに強まり、機体が大きく振られた。
柳沢の額から汗が落ちた。グローブの中の手が滑る。
「っくそ!」
柳沢は、歯を食いしばり、スティックを押さえ込む。
「次、南野!」
南野に手早く装具をセットした。
「え、俺より、真奈美ちゃんを……」
「そういうことは、いい雨具買ってから言え」
「……すみません」
「反省は後にしろ」
「はい……」
あっという間に、南野が単独ホイストで上がった。
「先輩、あと十分です」
松岡の声が、無線に響く。
「十分?」
「真奈美ちゃん!」
南野や谷口が、下に向かって叫んだ。
手早く準備する手を止めずに、篠田は怒鳴った。
「てめえの心配だけしろ!」
「でも……」
「十分もあれば充分だ!」
一瞬の静寂の後、篠田が噴き出した。
「くだらねえダジャレ、言わせんじゃねぇ」
「すみません……」
ボロボロ泣きながら、斎藤がワイヤーに繋がれる。
篠田は手を止めず、手早く装備をセットする。
「謝るんじゃねぇ」
「でも……」
「行くぞ!」
素早く体を固定し、引き上げ体制に入った。
その時、遠くで雷鳴がした。
「きゃあ!」
斎藤が頭を押さえた。
雨とガスが、白く渦を巻いた。
「上がるぞ!」
篠田が手を振ると同時に、ワイヤーが上がった。
ゴロゴロゴロ……!
低く、地を這うような雷鳴が山間に響き渡った。
「来たな……」
篠田は短く呟く。
「怖い……」
斎藤が小さく呟いた。
再び雨が叩きつける。機体が激しく揺れ、風に煽られる。
「大丈夫だ」
篠田が言った直後、ワイヤーが風に流され、機体右後方に振れる。
「右流れるぞ!」
柳沢が叫ぶ。
ローターの風で、また雨とガスが渦を巻いた。
「くっ!」
篠田が歯を食いしばり、斎藤を抱えた。
篠田はワイヤーと岩壁の間に、自分の体を滑り込ませた。ぎりぎりのところで、衝突を免れた。
「真奈美ちゃん!」
南野が叫んだ。
「あがれ……あと三メートル……二メートル……」
篠田の声と共に、ワイヤーが揺れる。
「収容!」
ドアマンが叫び、二人が機内に引き込まれた。
一瞬、機内から誰も声を出さなかった。
「ヤナ、引き返すぞ!」
沈黙を篠田の怒号が破った。
「了解!」
すぐにヘリは旋回を始めた。
「どうにか無事収容できたみたいね」
安堵の混じった美咲の声のすぐあと、松岡が冷静に言い放った。
「すぐに撤収してください」
「わかっている!」
ヘリの爆音が、電話口からも大きく響く。
「松岡君、現在の状況を報告して」
「はい」
松岡は降水レーダーを出した。
「稜線で乱流も発生しだしました。ガスも北から下りています」
「松岡、ルートは?」
「南東方面なら、切れ間があります。セルが西に流れているので、吸い込み側に入る前に抜けてください」
「ヤナ、聞いたか?」
篠田が操縦席を見た。
「大丈夫!行くぞ!」
柳沢は汗まみれになった手で操縦桿を握った。
「少し揺れるけど、絶対帰してやる」
柳沢は引き続き電波高度計を見ながら、若干高度を上げ、南東方面に向かう。
途中、ぐらっ、と揺れる。
「わぁ!」
「きゃあ!」
四人の悲鳴が上がる。
「もう少しだ。こらえろ!」
ほんの数分だが、四人には永遠に感じた。
しかし。
「見ろ!」
南野の声で、四人が外を見る。
雲を抜け、灰色だった視界が、一気に青に変わった。足元に上高地や大正池が見えた。
「わぁ!」
ヘリの揺れが落ち着き、エンジン音が、少しだけ安定した。
「こちら北方航空。ホワイトアウトを抜けた。今から松本空港に向かう」
「了解しました。気を付けて」
松岡の深く息を吐く音が切れると同時だった。
「わぁあ!」
南野が大きな声を出して泣き出した。
つられて、斎藤や谷口も黙って泣き出す。西川は憔悴しきったのか、黙ってお茶を飲んでいる。
「お前ら、靴脱ぐまでは山だ。着陸するまで終わっていねえぞ」
篠田が冷静な声でたしなめた。
「はい……」
斎藤は涙を拭きながら、少し微笑んだ。
「松本空港到着ですね。わかりました」
西穂山荘でずっと交信を聞いていた飯田は、電話口で微笑んだ。
「飯田。世話になったな」
篠田のぶっきらぼうな声が、ヘリの爆音とともに聞こえてくる。
「いいえ。助かって良かったです」
「また、県警に報告書」
「それですけど」
飯田は手元にある個人のスマートフォンを触った。
「会話は全部、録音しました。あとでデータ、県警に送ります」
「すまないな」
「いえいえ。北方航空さんにはお世話になっていますし」
「じゃあ、また連絡するわ」
電話が切れると同時に、フロアから声がした。
「飯田さん、こっち、ヘルプお願いします」
「はーい」
飯田はバンダナを頭に巻きなおすと、眼鏡を拭きながらフロアに向かった。
「終わったようね」
篠田との電話を終えた松岡に、美咲が静かに話し掛けた。
「はい。本当にぎりぎりでしたが……」
「でも、信じていたんでしょう?」
美咲が少し斜めの姿勢で、松岡の顔を覗き込む。
「はい」
松岡はきっぱりと答えた。




