見えない稜線③
東京・アトモス気象研究所。
松岡は穂高連峰周辺の雨雲データを確認した。
明らかに積乱雲の影響と思われる激しい雨がある。
(嫌な予感がする……)
そう思った時、手元のスマートフォンが鳴った。『篠田純一』の文字が浮かぶ。
「はい、松岡です」
「松岡。俺だ。穂高で遭難だ」
嫌な予感ほどよく当たる。
「穂高のどの辺でしょうか?」
「西穂独標周辺らしい。山岳アプリでの通報だ。その周辺、天気はどうだ?」
「確認します」
松岡は素早くパソコンの画面を西穂高岳周辺に切り替えた。
「今現在、上高地周辺は問題ありませんが、上空は積乱雲が発達して、西穂から北穂に関しては厳しいですね……」
「上高地までは飛べるな?」
「はい。そこで待機して、チャンスをつかんで登るのがいいかと」
「わかった。そのまま電話を切るなよ」
松本空港の北方航空オフィスで、篠田がベテランパイロット、柳沢昭一に無線で声をかけた。
「ヤナ、聞いたな?まずは上高地に向かう」
『了解!出発準備に入る』
救助隊はヘリポートへと急ぎ、全員が順番に機体へと乗り込む。ドアガンナーが機内で装備をチェックしながら、全員のヘルメットとハーネスを確認する。
十二時十分。
エンジン音が高まり、ヘリコプター「AS365 ドーファン」がゆっくりと浮かび上がった。
「松岡、現在の状況はどうだ?」
「はい」
松岡はパソコンの画面を拡大した。
「今確認した限りだと、あと二十分から三十分程度後に、一時的ですが風が風速十メートル以下に下がる可能性があります。ガスも限定的です。大体独標からピラミッドピークまで程度なら、なんとかなると思いますが……具体的な場所はわかりますか?」
「独標は超えたとメッセージにあった。だが、確実な情報じゃない」
「登山アプリのGPS情報は?」
「俺たちもそれを思って見た。しかし、それだと独標の手前周辺なんだ」
「悪天候で、微妙な誤差が出ているかもですね……」
「ああ。道迷いで勘違いの可能性も否定できないしな……」
「遭難者は何名ですか?」
「四人だ。送信者は斎藤真奈美、二十歳」
「残りのメンバーの情報、わかります?」
「おう」
がさがさという音が響いた後、すぐに篠田の大きな声がした。
「上から読むぞ。西川祐介、十九歳、学生。次は谷口智樹、二十歳、学生。最後が南野慎吾、二十歳。山岳系ユーチューバー……あん?」
「ちょっと待ってください」
松岡は動画サイトを開いた。
「今、ユーチューバーって言いました?」
「ああ」
「名前、もう一度言ってください」
「南野慎吾だ」
「南野、慎吾、ですね」
松岡が急いで検索をした。
すぐにずらり、と「ナンノの登山日記!」という動画チャンネルが出てきた。
「この中の……」
一番上に、「西穂高岳挑戦!」という、途中で途切れたと思しきライブ中継の動画があった。
「これだ!」
松岡は素早く動画URLを篠田宛にメール送信した。
「篠田先輩、今、そのユーチューバーの撮影した、今日の動画URLを送信しました。多分その最後周辺に、現在地のヒントがあると思います」
「わかった。確認する」
松岡は急いでカーソルを当て、右方向に移動させる。
「独標……」
四人が独標にいるところは確認できた。その後、独標を超え、少し歩いたところで映像が切れた。音声だけが少し流れているが、それも切れた。
『ちょっと、やばくね?』
『遭難した?』
『故障だといいけど』
コメント欄には、身を案ずる言葉が溢れている。
「いったん、独標を超えたのは間違いないようですね。奥に一瞬、ピラミッドピークは見えましたが……」
「俺も今、そこを見た」
「今の状況だと、ピラミッドピークを越えていると、話が厄介ですね……雲が悪い」
「独標を超えたのは?」
「独標の下で十一時三十分。その後、途絶えていますね」
「アプリに送信があったのが十一時五十五分くらいか……」
「若者の体力考えると、微妙ですね……」
「ああ……」
ヘリは上高地に、どんどん近づいている。
「西川君、絶対に寝ないで!」
斎藤は叫びながら、必死で西川の体をゆすった。
「うん……」
力はないが、西川は小さく頷いた。
「うーっ、いてぇ……」
反対側の、少し離れた場所から、谷口が低い声を出す。
「谷口君、寒さは?」
「寒いけど……真奈美ちゃん、風邪薬ある?」
「え?」
「俺、風邪ひいたかも……熱っぽい」
谷口の顔は、明らかに赤かった。
「南野君、自撮り棒あったよね?」
「あるけど……俺のスマホ、写真取れないよ」
「そうじゃなくて、谷口君の足、テープか紐で固定して!」
「え?」
「早く!」
南野は意味がよく分からないまま、座っていたザックから自撮り棒を出すと、谷口の足に当てた。
「こんな感じ?」
「そう」
斎藤はザックからテーピングテープを出した。
「これで、足首ぐるぐる巻きにして」
「あ、うん」
南野はたどたどしい手つきで、足首にテープを巻き始めた。
「もっとぎゅっと!」
「あ、はい!」
南野は気圧された表情で、力を込めて巻いた。
斎藤がスマートフォンを見た。
圏外。
(早く助けが来ないかな……)
腰が痛くなり、少し体の向きを変えた。
その時、スマートフォンのアンテナが、一気に二本立った。
「通じた!」
斎藤は震える手で、電話帳を開き、スクロールした。
西穂山荘は昼時を迎え、上高地やロープウェー、西穂独標から来る客でごったがえしていた。
「うどん二人前!」
「コーヒー!」
室内は皆玄関で雨具を脱いだとはいえ、湯気が立ち込めるほどの湿気だった。
スタッフの飯田雄一郎は控室から雨の降る外を見ながら、曇った眼鏡を拭いた。
飯田は県警から届いた、緊急連絡メールで登山計画書のPDFファイルを開いてみた。
西穂独標付近で今日宿泊予定の客が遭難したのは聞いていた。だが、場所やメンバーの健康状態など、詳細はわからない。
(大事に至らなければいいが……)
そう心の中で呟いた時だった。
プルルルル。
現地連絡用のスマートフォンが鳴った。番号が、どこかで見た記憶がある。
「まさか……」
独り言ちながら、電話をとった。
「はい、こちら西穂山荘飯田です」
「助けてください……私たち、独標付近で遭難しました……」
泣きそうな女の子の声がした。
飯田はぱっと一度スマートフォンを離し、番号を見た。やはり、さっき見た計画書PDFファイルと一致する。
「あなた、ひょっとして、斎藤真奈美さん?アプリで届を出した」
「はい……」
「わかった!そのまま切らないで!県警に繋げる!」
飯田はすぐに無線機のそばに走って移動した。
ピー。ピー。
北方航空ヘリコプターの中で、無線機が鳴った。
「はい、こちら北方航空、篠田」
「篠田さん、西穂山荘飯田です。今、遭難者の斎藤真奈美さんから電話がありました!」
「本当か!よし、そのままつないでくれ」
「はい!」
飯田はすぐに、無線機のそばにスマートフォンを置いた。
「松岡、聞いたな?今、斎藤と話す。お前も聞いてくれ」
「はい」
松岡も東京のオフィスで、スマートフォンをスピーカーにした。
篠田は無線機の奥から「もしもし……」という、力のない声を確認すると、話し出した。
「もしもし、こちら救助隊の篠田だ。聞こえるか?」
「はい……」
「まずは現在地。わかるか?」
「わかりません……」
「独標より先なのは、間違いないか?」
「はい……」
「ピラミッドピークは越えたか?」
「あ……ガスだったから、よくわかりません……」
「そうか……」
多分超えていないな、と思った篠田は、質問を変えた。
「現在のメンバーの状況は?」
「一人左足首をけがして、熱出しています……あと、一人、震えて眠そうにしています……」
(恐らく、左足首骨折と低体温症……)
「絶対寝させるな。体をゆすれ。いいか?」
「はい……」
鼻をすすりながら、斎藤は答え、体をゆすろうと横の西川を見た。
すると、西川は雨具の奥のズボンに手を入れていた。
「何しているの?」
「これ……」
生気のない顔のまま、スマートフォンを取り出すと、ゆっくりと操作しだした。
「何?」
斎藤が画面を覗き込んだ。
「さっき、撮った……」
画面を見ると、手前のピークの写真だった。
斎藤は無言で受け取ると、画面を食い入るように見た。
「どうした?何かあったか?」
篠田の力が入った声が聞こえてきた。
「すみません。さっき、手前のピークで、撮った写真があって……」
「写真?何か映っていないか?」
「えっと……」
斎藤は震える濡れた手で、必死にスワイプした。
「わかりません……」
「すみません」
松岡が声を上げた。
「アトモス気象研究所の松岡といいます。斎藤さん、どこかの岩にペンキで文字書いていませんか?」
「文字……」
必死に写真を拡大して、探してみた。しかし、丸印ばかり見つかる。
その時、西川が指を伸ばした。
「ここ……」
「え?」
「9……」
「9?」
見て見ると、左端に、確かに「9」の文字が見える。
「9の字がありました……」
「9?」
松岡、篠田、飯田三人の声が揃った。
「斎藤さん、9の字、間違いない?」
飯田が机に手を置き、前のめりになって壁に貼ってある地図を見た。
「はい……」
「見間違いとか、ずっと手前だったとかはない?」
一瞬間があいたが、奥から谷口が「間違いありません!」と声を上げた。
「俺、誕生日十月九日なんです。9の字を見て、あ、誕生日超えた、と思ったら、下りで転んで、動けなくなったから……」
「よし、わかった!」
篠田が叫んだ。
「松岡、現地の天気はどうだ?」
「はい」
松岡は高解像度降水ナウキャストと雷キャスト、メソ数値予報モデルを素早く確認した。
「今から四十分以内は、少なくとも風速が十メートルを超えない見込みで、顕著な乱流もまだ入っていません。視界も、柳沢さんなら攻められる範囲です。しかし、それ以上は危険です。今すぐそのまま現地に向かってください」
「よし!」
篠田は操縦席の柳沢の方を向いた。
「ヤナ、そのまま9に行くぞ!」
「了解!」
篠田は無線機に向かって叫んだ。
「おい、今すぐ助けに行く。それまで絶対にくたばるな!」
「はい……」
斎藤は思わず、泣きだした。
ヘリは晴れ間の見える上高地を足元に、黒い雲のわく穂高の稜線に向かった。




