見えない稜線②
岐阜県新穂高ロープウェイ・新穂高駅。
大きなリュックを持った登山客や、団体旅行と思しき軽装の観光客などで、長い列ができていた。
そんな中、大学生の南野慎吾は、スマートフォンで自身の動画を撮影していた。
「これから、新穂高ロープウェイで西穂山荘目指します!すごい列です!」
動画を止めると、素早く編集して自分の登山SNSにアップさせる。
「おっ、すげえ。もうこんなにアクセス数ある」
横から南野のスマートフォンを覗きながら、谷口智樹が呟いた。
「ねえ、今日、本当に西穂高岳まで行くの?独標までの方がよくない?」
横から斎藤真奈美が心配そうに空を見た。
「平気だよ。夏山だし」
谷口はスマートフォンから目を離さず、呑気な声を上げた。
「けどさあ、その恰好、軽すぎない?」
斎藤は谷口の服を指差した。半袖Tシャツにハーフパンツ、ローカットのシューズで、アルプスというよりも低山ハイキングという雰囲気がある。
「軽量化だって」
南野も続く。一応長袖Tシャツに長ズボンだが、足元はやはりローカットのシューズだった。
「俺、色々山行っているけど、これで困ったことないし。真奈美ちゃん、そんな完全に山登りって格好で、慎重だって。昨日も動画見たけど、『初心者向け最難関』って感じだったし」
「最難関なのに初心者向けなの?」
「つまり映えるってこと」
「けどさあ……」
「お待たせ」
静かな声で、西川祐介がチケットを持ってきた。
「はい、チケット」
一人ずつに丁寧に配る。
「ありがとう。おーい、みんな、写真撮ろうぜ」
「イエーイ!」
表情がまちまちながら、四人は記念写真を撮った。
ロープウェィを乗り継ぎ、西穂高口駅に到着した。
「今西穂高駅到着でーす!」
「イエーイ!」
南野と谷口はVサインをしながら、スマートフォンで自撮りをしていた。
「真奈美ちゃん、一緒に映ろうよ」
南野が手招きをした。
「あたし、トイレ行ってくるから……」
「もう、ノリ悪いなー」
「行ってくるね」
「僕も、トイレ」
西川も小さく手を挙げ、一緒に移動した。
少し離れたところで、斎藤が西川に話し掛ける。
「なんだか、あのノリ、苦手だな……西川君、普段、仲いいの?」
「いや、会うの二回目……」
「そうだったの?まあ、私もだけど……ねえ、私はネットで仲間募集しているのを見て会ったんだけど……西川君も?」
「……うん」
「登山は?私、一応高校の時ワンゲルだったけど……」
「いや、ちっとも……」
「そう?じゃあ、なんで来たの?」
「僕……その……友達、いないから」
「そっか……」
斎藤はそれ以上聞かなかった。。ジャージにウインドブレーカー、普通のデイパックに安物のシューズで、どうみても山にそれほど関心があるようには思えなかった。
斎藤は一瞬、空を見上げた。青かった。
————なのに、妙に湿った風だった。
西穂山荘には一時間強で到着した。
南野の帽子にはカメラが付いていて、実況中継しながら歩いている。
「ただいま、西穂山荘到着しました!コースタイム一時間半のところ、一時間で到着です!」
「イエーイ!」
谷口も前に出て、ガッツポーズを決める。
少し離れたところで休憩をしていた斎藤と西川は、リュックを降ろして椅子に座った。
斎藤は西川の顔を覗き込んだ。息はそんなに乱れていないが、多少顔色が青い。
「西川君、少し、顔色悪いけど、大丈夫?」
「うん。ちょっと、頭痛いかな……」
「軽い高山病かもしれない。水飲んだ方がいいよ」
「うん」
西川はリュックから水筒を取り出すと、一口お茶を飲んだ。
「もっと飲んだ方がいいよ」
「でも、お水、お金払わないと……」
「そんなのケチっちゃダメだよ。あと、またトイレも行った方がいいかもよ」
「……うん……」
とぼとぼという足取りで、西川は水筒を片手に小屋に向かった。
(大丈夫かな……)
見送っている斎藤のそばに、南野と谷口が来た。
「ねえ、アイスあるらしいから、食べない?」
「下山後でいいよ。それより、天気のいいうちに独標まで行きたい」
「えーっ、せっかく来たのに……」
大げさに残念そうに両手を広げる谷口の前に、南野がスマートフォンを差し出した。
「ほら、見てよ。コメントいっぱいついている」
「え?どれ?」
見ると、動画のコメント欄には多数のコメントがあった。
『はえーじゃん!このまま行っちゃえ!』
『もっといろいろな景色見せて!』
『穂高サイコー!』
「すげー!」
谷口が目を丸くし、大きな声を出す。
「だろう!だから、このままどんどん行こうぜ!」
「おう!」
二人が盛り上がっているところに、西川が戻ってきた。
「お待たせ」
「おー!じゃあ、行こうぜ!」
「ラジャー!」
南野と谷口は軽々とリュックを担ぐと、標識の方向へ向かって歩いた。
西川の顔色は、多少落ち着いたものの顔に生気がない。
「西川君、本当に無理しちゃダメだよ」
「ありがとう。大丈夫」
西川はそれだけ言うと、静かにリュックを担いだ。
独標にはそれから一時間十分程度、十一時十分に南野と谷口が、その十五分後に斎藤と西川が到着した。
「初めての穂高連峰なのに、もう着いちゃいました。順調!」
南野は穂高の山並みを見渡しながら叫ぶ。
確かに景色はよかった。上高地の様子もよく見え、焼岳や霞沢岳、常念岳などの山々もよく見える。西穂高岳の奥には、奥穂高岳も見えた。
しかし、反対方面の笠ヶ岳が、ガスでよく見えない。
(やはり、午後から天気は下り坂……)
斎藤は記念写真を撮っている南野に「ねえ」と声を掛けた。
「やっぱり、ここで引き返そうよ」
「えー!せっかく調子いいのに」
「午後から天気悪くなるって!西川君も、体調良くなさそうだし」
「えーっ、そうなの?」
南野が怪訝そうに西川の顔を見た。確かに、顔色も良くなかった。
西川は下を向くと、小さく呟いた。
「……大丈夫……」
「ほら、大丈夫って言ってんじゃん!今からなら、ここから二時間もあれば頂上行けるって!」
「そうそう!」
谷口も大きく相槌を打った。
「でも……」
「ほら、行くよ!」
南野と谷口は、斎藤の反論を遮るように歩き出した。
「ねえ、私たちだけでも戻らない?」
斎藤は西川を向いた。
西川は首を振った。
「いいよ。行く」
「西川君」
西川は無言で二人の後を追った。
(僕……その……友達、いないから)
西川の声が、斎藤の耳の奥に蘇った。
斎藤は戸惑いつつも、その後ろを追いかけた。
独標から下る道は、岩が多く急だった。
「ここは……おお、こえー」
斎藤は大きな声を出しながら、実況している。
「ひえー!」
谷口は大げさに声を出し、西川は無言で慎重に足を運ぶ。
後から鞍部に降りた斎藤は、息を吐いた。
「ここから、まだ岩の道続くはずだよ」
斎藤は静かに言った。
「えーっ、マジ?」
これで懲りたかな、と斎藤が思った時だった。
「おもしれ―じゃん!」
南野が弾んだ声を出した。
「今から山頂までの大冒険が始まります!」
南野が先に進んだ。
「おー!」
谷口も続き、西川も無言で歩く。
「ねえ!」
斎藤の叫びも、届かないようだった。
小さいピークをいくつか超えたところで、少しずつガスが出てきた。
「ちょっと景色悪くなってきました……」
少し南野の息が切れてきた。吐く息も白い。
『ちょっとやばくない?』
『引き返したら?』
コメントも心配するようなものが増えてきた。
「やっぱり……」
斎藤が話し掛けた時だった。
「わぁ!」
後ろから、どん、という鈍い音がした。
斎藤と南野が振り返ると、谷口が尻もちをついていた。左足首を押さえている。
「大丈夫?」
斎藤が駆け寄った。南野も続く。
「これは……あれ?」
カメラから、何か音がした。
「画像、切れた?」
「そんなこと言っている場合じゃないって!」
「……ごめん」
「いてて……肩、貸して」
「ああ」
南野が肩を貸し、谷口がゆっくりと立ち上がった。
「ありがとう……いてっ!」
谷口は立ち上がっただけで、よろめいた。
「これは……」
少し遅れてきた西川が、心配そうに見る。
「待って」
斎藤がザックを降ろし、中のスタッフバッグからシップを出した。
「流石は元ワンゲル。手際いいね」
「南野君!だからそんなこと言っている場合じゃないって!……ほら、靴下履いて」
「ありがとう……」
谷口が靴下と靴を履いていると、ぽつり、と雨が顔に当たった。
「……雨?」
西川が掌で雨を確かめた。
「急いで雨具を着て!」
斎藤は言うと、素早くザックからゴアテックスの雨具を出して着た。
「おお、やべえ」
南野と谷口も急いでザックを出すが、中から出てきたのは百均で買ったと思しきポンチョだった。
「そんなので……」
斎藤は西川を見た。西川は一応上下セパレートの雨合羽だが、どうみても登山用ではない。
「西川君、それ……」
「高校の時の、通学用の……これしかなかったから……」
そこまで言ったところで、西川の体が激しく震え出した。
「寒い……」
「西川君、防寒具は?フリースとか」
「……ない」
濡れた服を脱がせたいが、風が強い。
斎藤は叫びたいのをこらえ、ザックから新聞紙を取り出した。
「これ、中に挟んで」
「……」
西川はがたがた震えながら無言で受け取ると、雨具の中に入れた。
「南野君、戻ろう!」
「うん。けど……」
周囲は既に激しい雨で、風も強い。
「え、道どっち?ちょ、待って……あれ、静電気?」
南野がそう言った瞬間。
ドカーン!
大きな雷鳴がした。
「わぁ!」
「きゃあ!」
全員が屈んだ。
「え……まじ……」
南野が携帯を見て青ざめている。
「どうしたの?」
「携帯の充電、切れた……」
「ええっ!」
斎藤は自分のスマートフォンを取り出した。だが、右上に『圏外』の文字が光る。
一縷の望みで110番に電話するも、呼び出し音すらない。
(どうしよう……)
斎藤は思い切って、登山アプリに緊急通報を送信した。
『ガスで動けない』
『4人』
『独標過ぎた』
『雷』
まだ送信できたかどうか、画面を見ても分からなかった。
少し場所を変えてみる。
少しだけ、手元がぶるっと震えた。
画面を見ると、『送信済』のマークがついていた。
ほっとして横を見ると、西川の目がとろんとしている。
「西川君、寝ちゃダメ!」
斎藤は必死で揺り動かす。
風が吹くたび、体温が奪われていく。
南野と谷口は膝を抱えながら、がたがた震えている。
稜線のどこかで、白い閃光が走った。雷鳴も響く。
(お願い、助けて……)
斎藤は目をつぶり、両手を組んだ。




