見えない稜線①
「本格的な夏山シーズンを迎え、各地で登山を楽しむ人の姿が良く見られます」
日本エアウェーブの朝の情報番組『モーニング・ブリーズ』で、アナウンサーの佐藤実花が弾んだ声で伝えた。
映像では富士山のご来光を見に登る登山者や、上高地周辺で散策する家族連れのハイカーなどの姿が映し出された。いずれも快晴の中笑顔を見せている。
「さて、ここからは気象情報です。夏山などの天気はどうでしょう。小林さん、お願いします」
画面が天気図をバックに立つ小林優花に変わった。
「はい。お伝えします。楽しい登山に水を差すようですが、今日は空の急変に最大限の警戒が必要です。まずはこちらの天気図をご覧ください」
優花が棒で天気図の中央付近を指した。
「現在、中部山岳地方は高気圧に覆われ、午前中は抜けるような青空が広がっています」
画面がアニメーションに変わり、雲と地表の断面図になった。雲がわきたち、地表から湯気が出ている。
「しかし、午後は山岳部で積乱雲発達の恐れがあります。地表が強い日差しで温められる一方、上空には冷たい空気が流れ込んでいます。この温度差により、午後になると山の斜面に沿って湿った空気が一気に立ち上がり、入道雲が急速に発達する見込みです」
「ということは、急な雨の対策が必要ということですか?」
実花が横から質問をした。
優花は小さく頷きながら続けた。画面は再び変わり、雨合羽を着た登山者が下山のため歩く絵に変わった。
「はい。午前中晴れていても、急な天気の変化に注意してください。山の下で晴れていても、稜線ではわずか数十分で真っ白なガスが立ち込めて、激しい雷雨や突風になる恐れがあります。夏山に出かけられる方は、お昼前後には山小屋に到着するか、下山を開始する行程を組まれてください」
実花も小さく頷くと、カメラ目線で訴えた。
「行楽地に行かれる方は、くれぐれもご注意ください」
「それでは、全国のお天気です」
画面は全国の天気を映し出す。概ね晴れのマークがついている。
「今日は全国的に晴れの予報ですが、暑さの為積乱雲が発達しやすく、ところによっては大気の状態が不安定で、一時激しい雨が降るでしょう。暑さと急な雨にご注意ください。日傘兼雨傘の利用もお勧めです。以上、気象情報でした」
「お疲れ様です。小林さん」
控室に行くと、穏やかな笑顔で、松岡亮太が出迎えた。
「お疲れ様です」
「やはり小林さんが言うと、伝わりやすさが違いますね。夏山の話取り入れてくださって、ありがとうございました」
優花は手を目の前で小さく振った。
「私は松岡さんの言われた通りのこと言っただけですから……登山するわけでもないですし……」
「いえ、きちんと理解して物を言う人と、言われたことを言うだけの人とは違います。そして何より、口調が聞きやすい。僕には真似できません」
「そんな……恐れ入ります」
優花より五歳も年上ながら、敬語で礼儀正しく接する松岡には、いつも恐縮させられる。
「これで少しでも、無謀な登山をする人が減ればいいのですが……『重いから雨具を持たなかった』とか、『ヘッドライトがないから、日が暮れてから動けなかった』とか、以前なら考えられない遭難事故も増えていますからね……」
そこまで言って、松岡は一瞬言葉を切った。
視線が、どこか遠くへ向く。
優花は少し間をおいてから、少し明るい声を出した。
「私たちの声が、少しでも遭難を減らすことになることを祈ります」
「そうですね」
松岡は顔を上げ、小さく微笑んだ。
直帰の優花と日本エアウェーブの玄関で別れた松岡は、歩いてすぐそばのアトモス気象研究所に戻った。
自分のデスクに戻ると、すぐに電話が鳴った。「北方航空」とある。
「はい。アトモス気象研究所、松岡です」
「おお、松岡。篠田だ」
元気のいい篠田の声が響いた。研究所と契約をしている北方航空の社員で、山岳救助のエキスパートだ。松岡の白鳳大学山岳部の先輩にあたる。
「さっきニュース観たぞ。あれ、お前のアイディアか?」
「はい。そうです」
「だろうなあ」
篠田はくすっと笑った。
「まあ、俺たちにしてみたら助かるよ」
「恐れ入ります」
「今日の天気、やはり午後崩れそうか?」
「そうですね」
松岡はXRAINの画像を拡大し、続けて山岳部周辺の風向データを確認した。
「うーん……」
「どうした?」
「風が弱すぎますね」
「弱すぎる?」
「槍ヶ岳山荘付近の風速、ほとんど落ちていますね……湿った空気のたまり方が気になります」
松岡は画面を切り替えた。
「湿度も高いですね。特に木曽駒周辺」
松岡はさらに、気象庁の高層天気図を開いた。
「上空寒気も入っています」
「と、いうことは?」
声の調子から、篠田も察した様子がうかがえた。
「これ、午後に一気に爆発しますね……」
そう口にした瞬間、脳裏に白い霧の尾根がよぎった。
少し沈黙した後、篠田が「よしっ」と声を上げた。
「北方航空のSNSにも、その情報あげておこう。文面、任せていいか?」
「もちろんです」
「後でメールくれ。じゃあ」
電話が切れた。
窓の外では、夏の青空が広がっていた。
研究所向かいの歩道を、帽子を被った観光客らしき若者たちが笑いながら歩いていく。
「問題は、情報を得た人が、どう行動するかだけどな……」
松岡は試しに「#モーニング・ブリーズ」「#気象情報」などのハッシュタグで検索を試みた。
すぐにずらりと検索結果が並ぶ。
「優花さん、かわいい!」
「今日も女神」
そういったコメントの続く中、下の方に気象情報のコメントが綴られていた。
「また大げさ」
「晴れてるじゃん」
「脅しすぎ」
「こうやって煽るから、山離れするんだよ」
松岡はふーっ、と大きなため息をついた。
(いかんいかん)
ネットを閉じると、頼まれた文章を書き始めた。
それとほぼ同時に、長野県山岳部の雷ナウキャストが、黄色から橙色へ変わった。




