第5章 side story お姉ちゃんの迷子
「……ねえ、藍。そのズボン、本当に暑くないわけ?」
夕暮れのキッチンで、冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出しながら、亜子は思わずそう尋ねていた。
返ってきたのは、「うるさいな、男にはこだわりがあるの!」という、少し掠れた、だけどどこか背伸びをした声だ。
リビングのソファに腰掛けながら、亜子はふぅっと小さく息をつく。
高校2年生の夏。周りの友達はみんな恋愛や部活、将来の進路の話で持ちきりで、自分だってもうすぐ17歳になる。大人への階段を一つずつ登っているつもりだった。それなのに、目の前にいる幼馴染の藍――小学6年生のあの子のせいで、最近どうもペースが狂って仕方がない。
(……いったい、どうしちゃったんだろう、あの子)
昔は「亜子ちゃーん!」と泣きつきながら後ろをトコトコついてくる、ただの「可愛い弟」だったはずだ。
高いところに手が届かなくて抱っこをせがまれたり、お花見の日に唐揚げを食べて「おいしい!」って無邪気に笑ったりしていた、あの愛おしい子供。
それがどうだ。
この夏、藍はなぜか猛暑だというのに、洗いがえとたった2枚しかないお気に入りの長ズボンを頑なに穿き続け、駅前の自動販売機で苦いブラックコーヒーをこっそり買っては「大人だから」と無理をして飲んでいるみたい。
――「亜子ちゃんが怖いときは、いつでも僕が守ってあげるからさ」
ふと、数日前に藍から言われた言葉が頭をよぎり、亜子は自分の頬がカッと熱くなるのを感じた。
あのとき、目の前にいたのは、いつもの頼りない子供の顔じゃなかった。背伸びをしているのは分かっている。声だってまだ完全に大人になりきっていないし、身長だって自分の鼻先あたりまでしかない。
なのに、あの真剣な瞳で見つめられた瞬間、胸の奥がキュッと締め付けられ、変にドクンと大きく跳ねたのだ。
(あんなこと言われたらさ……まるで、私が守られるだけの女の子みたいじゃない)
いつだって頭をポンポンと撫でて、よしよしと可愛がる立場だったはずなのに。
いつの間にか、藍のほうが少しずつ自分の背中を追い越し、気づけばすぐ隣に並ぼうとしている。あの細い腕で必死に腕立て伏せをして、男としての強さを証明しようとしている姿を思い出すと、こそばゆいような、胸の奥が甘くざわめくような感覚に襲われる。
アニメの『ロミオの青い空』で、主人公のロミオが、親友のアルフレドに追いつこうと必死に前を向いて駆け抜けていく姿を思い出す。
あの物語のロミオのように、藍もまた、自分の背中を必死に追いかけてくれているのだろうか。
――いや、違うかもしれない。
(ロミオは、アルフレドみたいに眩しい存在になりたいって……今の藍は、まさにそんな顔をするんだもん)
いつの間にか「守ってあげる対象」から、「目を離せない、ドキッとする存在」へと変わりつつある藍の姿。
自分が知っている「弟分の藍ちゃん」という枠組みが、音を立てて少しずつ形を変えていく。その変化に戸惑いながらも、亜子は冷えた麦茶のグラスを両手で包み込み、自分のトクトクとうるさい心臓の音をごまかすように、そっと窓の外の夕空を見上げた。




