第6章 ふたりの現在地
午後のまどろみがゆっくりと形を変え、大通りを染める夕暮れの橙色の光が、喫茶店の大きなガラス窓を通り抜けていく。
アンティーク調の木製テーブルの上で、亜子はうっすらと開けた瞳のままで、ぼんやりと目の前の藍を見つめていた。
先ほどまで感じていた心地よい気だるさは、藍がかけてくれた優しい言葉と、その圧倒的な存在感によって、すっかり温かな安堵へと変わっていた。
トレンチコートの袖口から覗くしっかりとした手首、シャツの首元に落ちる陰影、そして何より、自分を包み込むように見つめるその瞳の「高さ」と「深さ」。
(――いつの間に、こんなに大きくなったんだろう)
脳裏に蘇るのは、かつての記憶だ。
ランドセルを背負い、自分の腰のあたりまでしか背がなかったあの頃の藍。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」といつも後ろをついてきて、何かにつけて突っ張っては、子ども扱いされると顔を真っ赤にして怒り出していた、あの生意気で愛おしい男の子の姿。
あの頃の藍と、今の目の前にいる彼が、どうしても同じ人間だということが信じられなくなる瞬間がある。
けれど、今こうして同じテーブルを挟み、自分のジャケットをそっと肩にかけてくれ、手の届く位置にあたたかい白湯を置いてくれるその手つきは、まぎれもなくあの日の藍の延長線上にあるものだった。
「……ねえ、藍くん」
亜子はカップから手を離し、少しだけ声のトーンを落として呟いた。
「なぁに?」
「さっき、夢を見てたんだって言ったでしょ。……あのね、その夢の続きみたいな話をしてもいい?」
「うん、聞いてるよ」
藍は穏やかな笑みを浮かべたまま、亜子の言葉を促すようにカップの縁を指でなぞった。その余裕のある佇まいに、亜子は胸の奥がキュッと締め付けられるような、甘い切なさを覚える。
「夢の中の藍くんは、とにかく必死だったの。何をするにも『僕だってもう子どもじゃない』って顔をして、私のことを見上げてさ。私がちょっと頭でも撫でようものなら、ものすごく嫌そうな顔をして、でも本当は必死で私に追いつこうとして……」
亜子はそこまで言うと、ふっと小さく笑い声をこぼした。その瞳には、懐かしさと、言葉にできないほどの愛おしさが揺れている。
「あの頃の藍くんはね、私にとって、守ってあげなきゃいけない可愛い『弟』だった。……なのに、いつの間にか、その立場がすっかり逆転しちゃってさ」
「逆転、ねえ」
藍は苦笑いを浮かべ、カップをテーブルに置いた。
「そうだよ。今の藍くんは、私なんかよりずっと背が高くて、頼もしくて、こうして……逆に私が守られたくなっちゃうくらい、立派な大人の男の人になっちゃったんだもん」
亜子の頬が、夕暮れの光の中でわずかに赤く染まる。
その言葉の裏にある照れと、隠しきれない熱を、藍は見逃さなかった。
藍は胸の奥で、ふうっと小さく息を吐き出す。あの長い「背伸びの期間」を経て、自分がどれだけこの言葉を待ち望んでいたことか。
「お姉ちゃんに守ってもらう必要なんかないよ、亜子ちゃん」
藍は声のトーンを少しだけ落とし、大人の男性としての落ち着いた響きを込めて静かに言った。
その表情に浮かんでいたのは、かつての生意気な少年の面影ではなく、一人の男性としての確固たる決意だった。
「これからは、俺がずっと、亜子ちゃんの隣で――ううん、亜子ちゃんの手を取って歩いていくから」
その言葉を受けた瞬間、亜子の息がわずかに止まった。
胸の奥で鐘が鳴るような衝撃とともに、かつての小さな弟分が、いつの間にか自分の心を完全に奪っていく「運命の相手」になっていたという事実が、温かな熱となって全身を駆け巡る。
言葉が出ない亜子の代わりに、店のドアベルがカランコロンと心地よい音を立てて響いた。
「いらっしゃいませ」という店員の穏やかな声に導かれるように、新しい客が二人、窓際の席から少し離れたボックス席へと案内されていく。
無意識にそちらへと視線を向けた亜子は、ふと動きを止めた。
「……あ」
亜子の小さな声に釣られて、藍もそちらへと視線を移す。
そこには、制服姿の女子高校生と、その少し後ろをトボトボと歩く、小学校高学年くらいの男の子の姿があった。
男の子は、大きなリュックを背負い、何かを一生懸命にまくし立てながら歩いている。その足元を見ると、真夏でもないのに妙に暑苦しい長ズボンを穿き、誇らしげに胸を張っていた。
どうやらお姉ちゃんらしき女の子に対して何か大人びたセリフを吐いたのか、女の子は「はいはい、すごいねー」と苦笑いしながら、その子の頭をポンポンと軽く撫でた。
その瞬間、男の子は顔を真っ赤にして、「子ども扱いすんなって!」とムキになって声を荒らげた。
――あまりにも鮮やかすぎる、過去の自分たちのデジャヴだった。
「……あれって」
亜子は思わず目を見張り、それから隣に座る藍をそっと見上げた。藍もまた、その光景をじっと見つめながら、どこか気恥ずかしそうな、それでいて深い慈しみに満ちた笑みを浮かべていた。
「……昔の俺たちと、そっくりだね」
藍が低い声でそう呟くと、亜子は堪えきれなくなったように、ふっと声を立てて笑った。
「そっくりどころじゃないよ。あの頃の藍くん、まさにあんな感じだった。私が何か言うたびに『子ども扱いするな』って怒って、無理してブラックコーヒー飲んで、カッコつけて……」
「黒歴史を掘り起こすなよ。あの頃は、必死だったんだからさ」
藍はわざとらしく両手を上げて降参のポーズをとってみせたが、その眼差しはどこまでも優しかった。
「でもさ、藍くん」
亜子はクスッと笑ったあと、ゆっくりと表情を和らげ、まっすぐに藍を見つめた。
「あの頃の藍くんが、あんなに必死に背伸びをして、私の背中を追いかけてくれて……本当によかったって、今なら心からそう思うよ」
「どうして?」
「だって、あの時の藍くんの必死さがなかったら、今のこの時間はなかったかもしれないから。……私、あの小さな男の子が、いつの間にかこんなに大きくなって、私をこんな風に真っ直ぐ愛してくれるようになるなんて、あの頃は想像もしなかったもん」
亜子の言葉に、藍の胸が熱く震えた。
窓の外では、夕暮れの空がゆっくりと夜の帳へと色を変え、街のイルミネーションが温かな光を灯し始めている。
かつては上から見下ろされ、頭を優しく撫でられていた自分が、今こうして彼女の手を取り、同じ目線で未来を見据えている。
「俺だって、あのとき亜子ちゃんが俺を見ていてくれなかったら、ここまで真っ直ぐ歩いてこれなかったよ」
藍はテーブルの上に置かれた亜子の手に、そっと自分の大きな手を重ね合わせた。
驚いたように微かに肩を揺らした亜子は、すぐにほどけるような笑みを浮かべ、その手をしっかりと、力強く握り返してくれる。
冷えていたグラスの水滴がテーブルの木目に染み込み、店内のボサノヴァのBGMが心地よく二人を包み込む。
かつて不器用だった少年は、長い時間をかけて本当の意味での「大人」になり、ずっと焦がれていた背中に追いつき、そして今、その温もりを永遠のものにしようとしている。
「ねえ、藍くん」
「なに?」
「これからもずっと、こうして隣にいてくれる?」
「当たり前だろ。……もう子ども扱いなんて絶対にさせない代わりに、これからは一生、俺が亜子を離さないから」
その言葉に、亜子は少しだけ涙ぐみながらも、満面の笑みでうなずいた。
窓の外の夜空に一番星がまたたく頃、2人の影はテーブルの上でしっかりと一つに重なり合い、それぞれの胸に刻まれた甘く切ない思い出とともに、新しい未来へと静かに歩き出していた。
それは、かつて河原の土手で流した涙から始まった、ふたりだけの永遠の物語の――紛れもない、美しい結末だった。
読んでいただき、ありがとうございました。
この章はプロローグとループしたようになりましたが、
藍と亜子の年の差カップルの物語、
如何でしたか?
世の中には、カップルや夫婦の数だけ恋愛物語があるのでしょうね。
もちろん、失恋や片思いを入れたらもっと沢山あるのでしょう。
何だか現代社会は社会の歯車的に扱われているようなところもあるので、楽しみを見つけて生きてください。
次回からは、
きみの笑顔が見たいから
を投稿します。
続いて恋愛ものです。




