第4章 学園祭のテリトリー
10月の終わり、秋晴れの空がどこまでも高く澄みわたる日曜日。
都立の高校へと続く緩やかな坂道を、小6の藍は一歩一歩、まるで処刑台に向かうかのような重い足取りで登っていた。
――小学6年生の藍。そして、高校2年生の亜子。
(……なんで僕が、こんなところに……)
藍は自分で発したその呟きを、冷たい秋風にかき消された。
本当は、地元の友達とつるんでゲームでもしていれば気楽だったはずだ。それなのに、今日の朝、母親に半ば強制され、さらに自分の中の変なプライドと「行かなければならない」という奇妙な使命感に駆られて、こうして亜子の通う高校の学園祭にやってきてしまった。
校門をくぐるやいなや、色とりどのクラス看板や、香ばしいソースの匂い、どこか浮かれた高校生たちの圧倒的な活気が一気に押し寄せてくる。小学生の藍にとって、ここは完全に未知の、そして圧倒的な「大人たちの世界」だった。
(アウェイだ……ここは完全に、俺が来ちゃいけない場所だ……!)
藍は背負ったリュックの肩紐をギュッとつかみ、すれ違う高校生カップルやグループをできるだけ直視しないように俯き加減で歩く。
小学6年生とはいえ、周りの高校生たちの中に混ざれば、身長はまだ相手の肩あたりまでしかない。おまけに、今日の目的は「亜子のクラスの出し物に行くこと」だ。子ども扱いされたくない一心で、今日は精一杯大人びたポロシャツに、お気に入りの長ズボンという出で立ちで武装しているが、逆にそれが周囲から浮いているような気がして余計に緊張した。
「……迷子になるわけにはいかないぞ、しっかりしろ藍」
自分に気合を入れ直し、もらったパンフレットを頼りに目指す校舎の裏手――グラウンド側の模擬店エリアへと足を向ける。
目的の場所は、2年3組の「手作り焼きそば&フランクフルトの屋台」だった。
テントの柱に結ばれた「いらっしゃいませ!」の大きな赤文字の書き割りが見えてくると、藍の心臓はすでに胸を突き破るのではないかというほどの爆音で鳴り響き始めた。
テントの中を恐る恐る覗き込む。
と、そこにいたのは、学校指定のエプロンをキュッと結び、汗を拭いながら忙しそうに鉄板で麺を炒めている亜子の姿だった。
(……あ、いた……)
前髪をすっきりとピンでとめ、忙しそうにテキパキと動く亜子は、家で見せる「お姉ちゃん」の顔とも、時折見せる物憂げな顔とも違う。どこか眩しくて、遠い世界の人間のようだった。高校2年生の彼女の纏う空気は、あまりにも大人っぽく、12歳の藍を再び「子供」へと引き戻すような圧倒的な存在感を放っていた。
どう声をかけようか、と藍がテントの隅で立ち尽くしていた、その時。
「あ、もしかして……藍ちゃん!?」
背後から突然声をかけられ、藍はビクッと肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこには亜子のクラスメイトだという女子生徒が2人、お盆を持って立っていた。どちらもキラキラとした髪飾りをつけ、楽しそうに笑っている。
「え……?」
「うわ、本物だ! 亜子がいつも『うちの可愛い弟分の藍ちゃんなの』って写真見せてくれてさー! めっちゃ可愛いんだけど!」
「ほんとだ、実物のが何倍も可愛い! ねぇ、いくつになったの? 小6? まだランドセル背負ってそうな見た目でウケる!」
――「可愛い弟分」。
その三文字が、藍の脳内で雷のように轟いた。
(まただ……また「可愛い弟」だ……! 僕がどれだけ背伸びして、ブラックコーヒー飲んで、筋トレして、長ズボンで暑さに耐えてるかも知らないで……!)
藍は顔をカッと真っ赤にし、プライドと羞恥心が入り混じった表情で身構えた。
「子供扱いすんなよ! もうすぐ中学生だし、そんなガキじゃないし!」
藍が精一杯低く、怒気を孕んだ声で言い返すと、女子高生たちは「うわ、怒っちゃった! 可愛いー!」とキャッキャッと楽しそうに声を上げて笑った。その無邪気な反応が、藍の子供っぽさをより一層際立たせてしまい、悔し涙が出そうになる。
「ちょっと、2人ともうちの藍をいじめないの!」
そこに、鉄板の前からパタパタと小走りでやってきた亜子が割って入った。
亜子はエプロン姿のまま、困ったような、けれどひどく愛おしそうな笑顔を浮かべて藍の前に立つ。
「藍、来てくれたんだ。ありがとう、ずっと待ってたよ」
「……べっつに、待ち伏せしてたわけじゃないし。『顔出してきなさい』ってお母さんに言われたから、ついでに来てやっただけだし」
藍はこれ以上ないほど不貞腐れた態度をとり、そっぽを向いた。本当は、こうして自分の名前を覚えていてくれて、わざわざ駆け寄ってきてくれたことが嬉しくて仕方がなかったのに、素直になれない自分が猛烈に憎たらしい。
「はいはい、そういうことにしとこ。ねえ、お腹空いてない? 亜子特製の焼きそば、特別に大盛りにしてあげるからさ!」
「い、いらない……わけじゃないけど……」
素直になれない藍を見て、亜子はくすくすと嬉しそうに笑った。
その笑顔があまりにも眩しくて、藍は心臓の音がうるさくならないよう、必死に息を殺すしかなかった。
「じゃあ、ちょっと待っててね。すぐ焼くから!」
亜子が再び鉄板のほうへ戻っていく背中を見つめながら、藍はふぅっと深く長い溜息をついた。
(ダメだ……全然かなわない。あんなに背伸びして、必死に大人になろうとしてるのに、亜子ちゃんの前では、いつまで経っても僕はあの日のままの「子供」なんだ……)
胸の奥がキュッと締め付けられ、情けなさと悔しさが波のように押し寄せてくる。
けれど、せっかくここまで来たのだ。ここで逃げ出したら、それこそ本当の「ガキ」のままで終わってしまう。藍はぎっと奥歯を噛みしめ、自分を奮い立たせた。
しばらくして、「お待たせ! 焼きそば大盛りね!」と、亜子が山盛りの焼きそばを乗せたプラスチックの皿を嬉しそうに持ってきた。ソースの香ばしい匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。
「うまっ……これ、うまっ!」
藍が一口食べて思わず本音が漏れると、亜子は「でしょ? 私がキャベツの切り方こだわったんだから」と得意げに胸を張った。
やがて完食し、藍は財布を取り出そうとリュックのチャックに手をかけた。
ここからが、今日一番の「大人の見せ場」だ。
男なら、先輩の店で食べた分くらい、かっこよく奢るべきだ。いや、奢らなければならない。それが、この日のためにコツコツ貯めてきたお小遣いの使い道だった。
「いくらだ?」
藍は精一杯低い声を作り、財布を開きながら亜子を見据えた。
「え? いいよ、藍からはお金もらわないって決めてるから。お姉ちゃんからの奢り!」
「そういうわけにいかないんだよ!」
藍は少し大きな声を出し、周囲の視線を集めてしまったことに慌てながらも、財布から千円札を一枚取り出して亜子の手に無理やり握らせた。
「こういうのは、ちゃんと払うんだよ。……ほら、お釣りはいいから」
――「お釣りはいいよ」。
どこかのドラマや、大人の男がカッコよく言い放つ台詞をそのまま真似して、藍はこれ以上ないほど背伸びをしたドヤ顔を作ってみせた。
しかし、その直後。
亜子は手の中の千円札と、藍の必死すぎる顔を交互に見つめ、数秒間の沈黙のあと――。
「ぷっ……あははははっ!」
ついに我慢できなくなったように、声を上げて盛大に吹き出した。
「ちょっ、なんで笑うんだよ!」
助けてくれと言わばかりに顔を真っ赤にする藍に、亜子は涙を拭いながら笑った。
「だ、だって! 『お釣りはいいよ』って……! 藍、それ焼きそば一皿三百円だから! 千円出されてお釣りいらないって言われても、お釣りのが多いし! 第一、お財布から出てきたの、まだ端っこがちょっと折れてるお小遣いでしょ?」
周囲にいた亜子の友人たちも「なにそれ可愛い!」「男気見せようとして大失敗してるじゃん!」と一斉に笑い出した。
藍は顔から火が出るどころか、頭のてっぺんから蒸気が噴き出すくらいに真っ赤になった。
(くそっ……! 完璧に滑った……! 大人の真似してカッコつけるつもりが、完全に裏目に出た……!)
恥ずかしさのあまりその場で地面に埋まりたくなったが、藍は意地でも泣き言を言わず、唇を噛み締めてその場に踏みとどまった。
「……笑うなよ。いつか絶対、本当にかっこよく奢ってやるからな」
震える声でそう言い放つ藍を見て、亜子はふっと笑い声をぴたりと止め、どこか切なさと、愛おしさが入り混じった優しい瞳で藍を見つめた。
笑い声が少しずつ遠ざかり、亜子は藍の目の前まで一歩近づくと、そっとしゃがみこんで藍の目線に合わせた。
周囲の喧騒が、なぜかその瞬間だけ嘘のようにスッと消えていくような気がした。
「……藍」
「なんだよ……」
亜子は少し照れくさそうに笑いながら、自分の制服のポケットから綺麗に畳まれたハンカチを取り出した。それは、あの河原の土手で藍にあげたものとは違う、少し大人っぽいチェック柄のハンカチだった。亜子はそれで、藍の額ににじみ出た汗を優しく拭ってくれた。
「かっこつけようとしなくていいよ」
亜子の声は、からかうような響きではなく、驚くほどまっすぐで、温かかった。
「……子ども扱いすんなって、さっきも言ったろ」
「子ども扱いしてるわけじゃないの。……ただね、そんな風に背伸びして、私のことを見て、必死に大人になろうとしてくれる藍の気持ちが……すごく、嬉しかったの」
亜子の瞳が揺れていた。
そこにあったのは、「可愛い弟」を見る目ではない。一人の人間として、男として、自分に向き合っている藍を真っ直ぐに捉える、確かな熱だった。
「だからさ……無理して大人にならなくてもいいよ。藍は藍のままで、ちゃんと……私の隣にいてよ」
その言葉は、藍の胸の奥底に突き刺さった。
悔しさも、背伸びも、空回りしたかっこつけも、すべてがその一言で優しく包み込まれていくような気がした。
藍は、目の前で微笑む亜子を見つめ返した。
まだ身長は彼女の肩あたりまでしかないし、声だってまだ完全には低くなっていない。今日の失敗みたいに、子供だと思われて笑われることだって、きっとこれからもたくさんあるだろう。
それでも――。
(いつか絶対に、この人の隣に胸を張って並べる男になってやる)
藍の中で、再び熱い炎が激しく燃え上がった。
それは子供の単なる意地なんかじゃない。もっと強くて、もっと確かな、二人の未来へ向けた最初の誓いだった。
「……見ててくれよ、亜子ちゃん」
藍は恥ずかしさを隠すように少しだけそっぽを向いたけれど、その声はもう震えていなかった。
「俺が本当に大人になったら……そのときは、もう子供扱いなんて絶対にさせないからさ」
秋晴れの青空の下、高校の校庭に吹き抜けた風が、2人の髪を優しく揺らしていた。
学園祭の喧騒のなか、不器用で、苦くて、そして最高に甘酸っぱい思い出が、小学6年生の藍の胸に深く刻み込まれていった。




