第3章 細い腕のスクラム
セミの鳴き声がアスファルトを焦がすような真夏の昼下がり。
藍は自室のフローリングの床に両手をつき、歯を食いしばりながら腕立て伏せをしていた。
「……っは、はぁ……! くっ……!」
細い腕がぷるぷると情けなく震え、肘が内側に折れ曲がりそうになる。十回を数えたあたりから、すでに筋肉は限界を訴えていた。けれど、藍はそこで止めるわけにはいかなかった。
(これじゃダメだ……こんな細い腕じゃ、いつまで経っても亜子ちゃんを守れない……!)
脳裏によぎるのは、数ヶ月前に野村という男のせいで泣いていた亜子の姿だ。あのとき、自分は悔し涙を流すことしかできなかった。何もできない無力な子供として、ただ頭を撫でられることしかできなかった。
それがたまらなく悔しくて、藍は夏休みに入ってからこっそりと筋トレを始めていたのだ。
「藍、お茶持ってきたよー」
ガチャリ、とノックもそこそこに聞き慣れたドアが開く。
「うわっ!」と慌てて上半身を起こした藍は、床に崩れ落ちるようにへたり込んだ。そこにいたのは、高校2年生になった亜子だった。相変わらず家族のようにズカズカと部屋に入ってくる。
「なにやってるの、そんなところで。……って、もしかして筋トレ?」
亜子は呆れたような、しかしどこか面白がるような笑みを浮かべながら、手元のグラスを机の端に置いた。
藍は慌てて汗を拭いながら、不機嫌そうに顔を背けた。
「……別に、特になんてことないし。勝手に入ってくるなよな」
「いいじゃない、家族みたいなもんなんだから。それより藍、またそんな汗かいて……。熱中症になるよ?」
「子供扱いすんなって! 僕だって、もうすぐ……」
そこまで言いかけて、藍はふと口を噤んだ。
――そういえば、もうすぐ亜子は17歳になる。
亜子の誕生日は初秋の、9月の初めだ。
今はまだ7月中旬。だから、今の段階ではまだ「4歳差」のままでいられる。なんだかよく分からないけれど、その「わずかな時間差」が、今の藍にとっては妙に大きな意味を持っているような気がしていた。自分が少しでも早く大人に近づかなければならないというタイムリミットが、すぐそこに迫っている気がして焦るのだ。
「……もうすぐ、なに?」
亜子が小首をかしげて、藍の顔をのぞき込んできた。その近すぎる距離に、藍はドキリと心臓を跳ねさせる。
「なんでもない! それより、なんだよそのお茶」
「冷たい麦茶。ほら、ちゃんと飲みなさい。せっかくお母さんが『藍に届けてあげて』って言うから持ってきてあげたんだから」
亜子はそう言うと、藍の隣にちょこんと腰を下ろした。
赤ちゃんの頃からずっとこうして世話を焼かれてきた。亜子にとって藍は、いつまでも「手のかかる可愛い弟」なのだろう。その事実に気づくたび、胸の奥がキュッと締め付けられるように痛む。
「……子どもじゃないって、いつも言ってるだろ。もうすぐ、お前と同じ高校だって……」
行くつもりだから……
と言いかけて藍は黙った。
「はいはい。藍はすごい男の子だもんねー」
亜子はふふっと笑いながら、また藍の頭にそっと手を伸ばしてきた。
いつもならその手を振り払うところだ。けれど、今日の藍はなぜかその温もりをそのまま受け入れてしまった。亜子の手のひらは少しひんやりとしていて、外の暑さを忘れさせてくれるほど心地よかったからだ。
「……なあ、亜子」
「んー?」
藍は、じっと自分の膝を見つめたまま、ずっと心の奥にしまっていた疑問をぽつりと口にした。
「……野村くんってさ、そんなにカッコいいかよ」
その名前が出た瞬間、亜子の表情がわずかに曇った。
楽しげだった空気が、ふっと微かに沈殿する。亜子は視線を窓の外の青空へと泳がせ、小さくため息をついた。
「……どうして急にそんなこと聞くの?」
「なんとなくだよ。あんな風に、亜子ちゃんを泣かせるような奴のどこが良いんだって思ってさ」
藍の言葉は子ども特有の直球だったけれど、そこには紛れもない本気の怒りと、切なさが混じっていた。
亜子は驚いたように目を見張ったあと、どこか切なげな、苦笑いのような表情を浮かべた。
「……そうだね。カッコいいところなんて、今思えば一つもなかったかもしれない。ただ、当時は……周りがみんな付き合ってるからとか、そういう雰囲気に流されてただけなんだろうね」
亜子は膝を抱え込み、自分の両腕に顔をうずめるようにした。
「私ね、子ども扱いされるのが嫌だったの。早く大人になりたくて、高校生になったらもっと世界が広がるって思ってた。でも、いざ恋人を作ってみたら、ただ振り回されて傷つくだけで……。私、全然大人になれてなかったんだなって、あのとき思ったんだ」
その亜子の背中は、いつもの明るいお姉ちゃんとは違って、ひどく小さく、頼りなく見えた。
藍の胸の奥で、ドクンと激しい衝動が波打つ。
(違う……亜子ちゃんは小さくない。僕が守らなきゃいけないんだ)
藍は無意識のうちに、さっきまで筋トレでぷるぷる震えていた自分の右手をぎゅっと握りしめた。
まだ細くて、頼りないかもしれない。亜子を片手で軽々とお姫様抱っこできるような大人の男には、まだ到底なれていないかもしれない。
だけど――。
「……亜子ちゃん」
藍が低い、けれどまっすぐな声で呼ぶと、亜子は顔を上げた。
「ん?」
「もう、泣くなよ」
藍は真っ直ぐに亜子の瞳を見つめ返した。照れくささなんて、この瞬間はどこかへ吹き飛んでいた。
「……え?」
「野村くんみたいな奴のせいで、もう二度と泣くなよ。僕が……僕が大人になったら、絶対そんな奴より何倍もカッコいい男になって、亜子ちゃんを絶対に泣かせないからさ」
それは、小5のときにお花見の土手で誓った約束の、さらに強い決意だった。
11歳の夏、まだ4歳差の距離を縮められずにいる子供のセリフだったかもしれない。だけど、その言葉には、藍のなけなしのプライドと、不器用な恋心と、どうしようもないほどの真剣さが詰まっていた。
亜子はしばらくきょとんと目を丸くし、藍の真剣な顔を見つめていた。
そして次の瞬間――。
「ぷっ……あははっ! なにそれ、急に大人びちゃってさあ!」
亜子はこらえきれなくなったように、お腹を抱えて吹き出した。
「もう、藍ったら本当に可愛いんだから! まるで絵本の騎士様みたい!」
「っ、からかうなよ! 本気で言ってんだよ!」
藍は顔を真っ赤にし、恥ずかしさのあまり耳まで熱くなった。
「子ども扱いすんなって言ってるだろ!」
「はいはい、ごめんごめん。でもね……」
亜子は笑いながらも、ふと表情を柔らかくし、藍の頭を今度は優しく、包み込むように撫でた。今度は払いのけなかった。
「嬉しかったよ、藍。ありがとうね。私の小さな騎士様」
「……だから、騎士様言うな」
照れくさそうにそっぽを向く藍の頬は、夏の暑さのせいだけではなく、真っ赤に染まっていた。
窓の外では、ミンミンとセミの声が青空高く響き渡っている。
亜子の17歳の誕生日まであと少し。4歳差という終わりの見えない溝の中で、藍の心に灯った小さな炎は、確実に熱を帯びて大きく成長し始めていた。




