第2章 背伸びの処方箋
小学6年生になった藍の部屋の机の上には、かつての幼さが残る証拠が、不釣り合いなほど無造作に散らばっていた。
漢字ドリルや社会のワークブックの脇に積み上げられた『ポケットモンスター』のカード、いわゆるポケカの束。最新弾のパックが出るたびにお小遣いを貯めて買い、クラスの友人と熱心にレアカードのトレードに明け暮れている、藍にとっての大切な宝物だ。
「……はぁ、暑い……」
半袖シャツの袖をパタパタとさせながら、藍は自分の部屋のベッドにバタリと倒れ込んだ。
季節はすっかり初夏へと移り変わり、外を歩くだけで汗ばむようなじっとりとした暑さが肌をまとわりつく。世の中の同級生たちが涼しげな半袖短パンや体操服で元気に駆け回っているというのに、藍は頑なに、この夏に耐えられるかどうかの限界に挑むような格好をしていた。
そう、藍が持っている「たった2枚の夏物の長ズボン」を、今日も今日とて穿き通しているのだ。
(暑い……そりゃあ暑いさ。自分の部屋にいるっていうのに、足元からじっとり汗が蒸してくる。でも、ここで半袖の短パンになんてなるもんか……!)
藍は天井の木目を睨みつけながら、心の中で必死に自分を奮い立たせる。
小学6年生になったとはいえ、高校2年生になった亜子から見れば、藍はいつまでも「弟の藍ちゃん」という可愛い枠組みから外れない。
身長だってまだ亜子の鼻先あたりまでしか届かないし、声変わりもまだ中途半端だ。だからこそ、せめて外見だけでも「子どもっぽさ」を徹底的に排除したかった。小学生特有の、膝小僧を剥き出しにした短パン姿なんて論外だった。長ズボンこそが、自分が「もう子どもじゃない」と証明するための、ささやかな、しかし決して譲ることのできない唯一の防壁なのだ。
(この夏を乗り切るために、母親に頼み込んで買ってもらったこの長ズボンを、僕は死守するんだ……!)
コン、コン。
静かな自室に響いた軽いノックの音に、藍はピクリと背筋を跳ねさせた。
「藍、入るよー」
返事を待つこともなく、ガチャリとドアが開く。そこにいたのは、高校2年生の亜子だった。
藍は反射的にベッドから飛び起き、机のほうへと慌てて振り返る。そこには、さっきまで広げておいたレアリティの高いポケモンカードの束が、無防備に裸のまま転がっている。
「わっ、ちょっと待って! 勝手に入らないでよ!」
「え? なに慌てて隠してるのよ、そんなに焦ってさあ」
亜子は呆れたような、しかしどこか面白がるような笑みを浮かべながら、藍の部屋へと足を踏み入れた。手に持っていたトレーには、氷がカランと音を立てる冷えた麦茶のグラスが乗せられている。
藍は青ざめながら、山積みになったポケカの束の上に、よりによって国語の教科書をガサッと乱暴に被せた。
(やばい……! これが見つかったら、完全に「なんだ、まだまだ子どもじゃん」って笑われる……!)
「別に、何も隠してないし……! ノックくらいしてよ、プライバシーとかないわけ?」
「はいはい、ノックしたし聞こえなかったのは藍でしょ。……って、なになに?」
亜子はトレイを机の隅に置き、藍の全身を観察するように、フッと目を細めてジロジロと見つめた。
藍はその視線に耐えかねて、思わず足を後ろに引く。
「……なにさ」
「いや、不思議だなーって思ってさ。今日、めちゃくちゃ暑くない? 予報だと30度近くあるよ?」
「べつに、普通だし……」
「普通じゃないでしょ。なにその格好。ねえ藍、もしかしてそのズボン……この前お母さんが買ってきた、あの長ズボン?」
亜子がクスクスと笑いながら指差したのは、藍が穿いているベージュの長ズボンだった。
「そうだよ、悪いかよ!」
「悪くはないけどさあ。周りの小学生の子たち、みんな半袖短パンですごい身軽に走り回ってるのに、藍だけなんだか妙にキメキメじゃない? しかも、そのズボン、持ってるのそれ一枚と洗いがえだけだからって、毎日それ穿いてない?」
図星を突かれた藍は、顔が一気にカッと熱くなるのを感じた。
(くっ……! 亜子ちゃんには、僕のこういう必死な企みが全部お見通しなのか……?)
「うるさいな! 男には、季節関係なく長ズボンを穿かなきゃいけない時があるの!」
「なにそれ、カッコつけてるつもり? あはは、藍ちゃん、もしかして大人ぶってるの?」
亜子は面白そうに目を細め、からかうように藍の顔をのぞき込んだ。
その近すぎる距離感に、藍は心臓がうるさいほど跳ね上がるのを必死に抑え込む。
「子ども扱いすんなって言ってるだろ……! 僕だって、もうすぐ中学生になるんだし……じゃなくて、もう6年生だし、子どもじゃないっての!」
「はいはい、そうだねー。じゃあ、熱中症にならないように気をつけてよね」
亜子はトレイから麦茶のグラスを持ち上げ、藍のほうへと差し出した。
「ほら、冷たいお茶持ってきたから、飲みなさい」
「……いらない。喉乾いてないし」
「えー? せっかくお姉ちゃんが入れてあげたのに。ほら、飲まないと叱るよ?」
亜子はそう言いながら、藍の頭をポンと軽く叩いた。
その優しさは相変わらず心地よくて温かいはずなのに、今の藍にとってはそれが猛烈に悔しかった。子ども扱いされている、という事実が、むず痒い敗北感となって胸を突き刺す。
「子どもじゃないってば……!」
藍がムスッとしてそっぽを向くと、亜子はふっと優しい笑みを浮かべ、そのまま部屋を出ていこうとした。
「じゃあ、お茶はそこに置いとくからね。無理しないでよ、藍ちゃん」
パタンとドアが閉まった瞬間、藍は全身の力が抜けたように机に突っ伏した。
(くそっ……! 全然大人に見られてない……!)
教科書の隙間からちらりと覗くポケカのイラストが、まるで自分の子供っぽさを嘲笑っているように見えて、藍は慌ててそれを引き出しの奥底へ乱暴に押し込んだ。
子どもっぽい趣味は、いつか本当に卒業しなければならない。亜子に「ただの可愛い弟」ではなく、「一人の男」として意識されるためには、もっと別の、もっと大人のアプローチが必要だ。そうしなければ、あの日の河原で誓った約束がずっと果たせないままになってしまう。
数日後。藍の「背伸びの処方箋」は、ついに新たなステージへと突入していた。
放課後、夕暮れが少しずつ街を染め始める時間帯。
最寄りの駅前にある、ちょっと古びた自動販売機の前に、藍の姿があった。
まわりに同級生の姿がないことを念入りに確認し、藍はポケットからジャラジャラと小銭を取り出した。
(……買うんだ。今日こそ、あれを飲むんだ)
選んだボタンは、普段なら絶対に選ぶことのない、缶のパッケージに苦そうなコーヒー豆のイラストがこれでもかと描かれたもの。
ゴトン、と重い音を立てて取り出し口に落ちてきたのは、キンキンに冷えた缶のブラックコーヒーだった。
「……っ冷た」
指先で引き抜いた缶の表面には、じっとりと冷たい水滴がびっしりとついている。
藍はプルタブに指をかけ、ごくりと唾を飲み込んでから、グッと力を込めた。
プシュッ!
心地よい炭酸の抜けるような音とは違う、空気が一気に解放されるような乾いた音が響く。
藍は決死の覚悟を決め、その缶をそっと口元へと近づけた。小学生の敏感な舌にとって、それは未知の領域だった。周りの大人たちはみんな、こんな苦い液体を朝から平然と飲んでいる。これが飲めるようになれば、自分も少しは大人に近づけるはずだ。
ゴクリ。
「っ……げっ、苦っっっ……!!」
藍は反射的に缶を口から離し、その場で盛大にむせた。
喉の奥がヒリヒリと痛み、舌の根っこには形容しがたい強烈な苦味が居座っている。ブラックコーヒーとは、こんなにも人間が飲むものとは思えないほど容赦ない代物だったのか。砂糖もミルクも入っていない、ただひたすらに大人の味が、藍の口腔を容赦なく支配する。
「うそだろ……みんな、こんなの美味しく飲んでるのかよ……」
目から涙を浮かべながらも、藍は負けじと再び缶を口につけた。
苦い。とにかく苦い。だけど、この苦さを最後まで飲み干さなければ、いつまでも亜子の前で「子ども」のままだ。
『ロミオの青い空』の中で、ロミオがアルフレドに追いつくために、慣れない文字や絵本の勉強に必死で食らいついたように。藍にとってのこのブラックコーヒーもまた、憧れの背中に追いつくための、痛みを伴う修行だった。
その帰り道。
夕暮れの住宅街を歩く藍のポケットには、すっかり空になったブラックコーヒーの缶が固く握りしめられていた。舌の痺れはまだ取れないけれど、心の中には不思議と熱い達成感が満ちていた。
(見てろよ、亜子ちゃん。俺は絶対にお前を子ども扱いさせないような男になってみせるから)
季節は少しずつ夏本番へと向かい、藍の不器用で真っ直ぐな挑戦は、まだ始まったばかりの小さな一歩を踏み出していた。




