第1章 春風とよれよれのハンカチ
ポカポカと温かな春の陽気が包み込む週末の昼下がり。
桜の名所として知られる河原の土手には、満開の一歩手前となった淡いピンクのつぼみが、春風に揺られて誇らしげに咲き誇っていた。
色とりどりのレジャーシートが敷き詰められたお花見の席で、母親同士が楽しげに世間話を弾ませている。
その少し離れた場所で、11歳の藍は手元に重箱をじっと見つめていた。高校一年生になった亜子と、小学五年生の藍。五つの年の差は、この頃の子供にとっては途方もなく大きな隔たりだった。
(……なんで、亜子ちゃんがここにいるんだろう)
藍の心の中は、驚きと、どこか気まずい緊張感でいっぱいに満ちていた。
制服のローファーを脱ぎ、白いスニーカーを履いた亜子は最近、友達と過ごすほうが忙しいらしく、家族行事であるこのお花見にはここ数年ずっと顔を出していなかったはずだ。それなのに今年は、母親に半ば強引に連れ出されるようにして、こうして同じ空間にいる。
しかも、その表情はいつもの明るい笑顔とは程遠く、どこか陰りを含んでいた。
「ほら、藍ちゃん。これ、お食べ」
ため息をつきかけていた藍の前に、小さなタッパーが差し出された。顔を上げると、そこには憂鬱そうな目を伏せた16歳の亜子の姿があった。
「……これ、なに?」
「唐揚げ。藍、好きでしょ? ……ちょっと揚げすぎちゃったかもしれないけど」
亜子の声のトーンはどこか上の空で、力のない笑みを浮かべている。
藍は差し出された唐揚げを一つ箸で摘み、口へと運んだ。外はカリッと、中はジューシーに揚げられたそれは、間違いなく藍の大好物の味だった。いつもなら「うまっ!」と満面の笑みで飛びつくところだ。
「……うん、おいしい。めちゃくちゃ、うまいよ」
藍がそう言ってモグモグと頬張ると、亜子は少しだけホッとしたような、けれどすぐにまた切なさに満ちた表情を落とし込んだ。
「よかった……。喜んでもらえて、お姉ちゃん嬉しいな」
そう言いながら、亜子は膝を抱え、遠くを流れる川面へと視線を泳がせた。
その横顔を見て、藍は胸の奥がキュッと締め付けられるような違和感を覚えた。大好きな唐揚げを作ってくれたのは嬉しい。けれど、今の亜子がこのお花見にやってきたのは――、そしてこんなに浮かない顔をしているのは、きっと家で一人でいると、あの野村くんのことばかり考えてしまうからだ。失恋の痛みを紛らわすために、わざわざ母親と一緒にここへ逃げてきたのだ。
(……野村くんめ。あんなに可愛い亜子ちゃんを泣かせて、ふらふら遊び歩いてるなんて、絶対に許せない……!)
藍は唐揚げを飲み込むと、握りしめた箸の力を強めた。
目の前で美味しそうに食べてくれる小学生の弟の姿に、亜子はわずかに救われたような顔をするけれど、その瞳の奥にある痛みが消えることはない。
「ねえ、亜子ちゃん……。そんなにつらいなら、無理して笑わなくてもいいのに」
藍が思わず子どもらしくない、まっすぐすぎる言葉を口走ると、亜子は驚いたようにまぶたをパチクリとさせた。
そして時が経ち、おひさまの光が傾き始めた夕方。
母親たちから少し離れた河原の土手に、二人は並んで腰を下ろしていた。川面を渡る風は水面を揺らし、キラキラと乱反射する光が、土手に座る二人の影をぼんやりと引き延ばしている。
「……ねえ、藍。聞いてる?」
膝を抱えて座る亜子の声は、どこか湿っていた。
春物の白いトップスと紺色のスカート。亜子はスカートの裾をぎゅっと両手で握りしめ、ぼんやりと濁った川の流れを見つめている。その長い黒髪が春風に揺れるたび、彼女の纏う切なさが藍の胸をチクリと刺した。
11歳の藍は、少し離れた土手の斜面に腰を下ろし、自分のスニーカーのつま先で地面の小石をトントンと蹴りながら、不器用な返事をした。
「……聞いてるよ。野村くんがどうしたって?」
藍のその声には、精一杯大人っぽく振る舞おうとするあまり、どこかトゲと焦りが混じっていた。
本当は、亜子のそんな悲しそうな顔を見ているだけで胸の奥が締め付けられそうだった。大好きな亜子ちゃんが、男――中学の頃からカッコいいと噂されていた野村という先輩のせいで泣いている。それが、子ども心にたまらなく悔しくて、許せなかった。
「野村くんさ、部活の後輩の女の子と、一緒に帰ってるとこ見ちゃったんだよね……。私との約束、今日すっぽかされたの、そのせいだったのかなって……」
亜子はポツリポツリと、堰を切ったように言葉をこぼした。
中学生や高校生の恋愛なんて、小学生の藍からすれば遥か遠い異世界の出来事のようだったけれど、そこにいる亜子が傷ついているという事実だけは、藍にとって世界をひっくり返すほど重大なことだった。
「そんな奴……別にとっ捕まえて文句言ってやりたいよ。約束破るなんて最低じゃん」
藍が子どもなりに精一杯の怒気を孕んだ声でそう吐き捨てると、亜子は力なく、けれどどこか嬉しそうにふっと微かに笑った。
「ふふっ……藍は子どもなんだから、そんなこと言わないの。男の人って、たまにすごく残酷なんだからね」
「子ども扱いすんなよ! 俺だって、もうすぐ六年生だし、そんなガキじゃないって!」
藍はガバッと立ち上がり、ふくらんだ頬をさらに膨らませて亜子を睨みつけた。
「子ども扱い」――その四文字は、当時の藍にとって最大の禁句であり、コンプレックスの塊だった。身長だって亜子の肩あたりまでしかないし、声変わりもまだしていない。だけど、心の中では誰よりも亜子を心配しているし、守りたいと思っている。なのに、亜子にとってはいつまで経っても「可愛い近所の弟」のままで、それがもどかしくて仕方なかった。
「はいはい、ごめんね。藍は頼もしい男の子だもんね」
亜子はそう言いながら、藍の頭にそっと手を伸ばし、ポンポンと軽く撫でた。
その優しさは、失恋で傷ついた自分の心を癒やすためのものであり、藍を慰めようというお姉ちゃんとしての慈愛に満ちたものだった。だが、今の藍にとっては、その「優しく頭を撫でられること」こそが、自分がいつまでも「対等な男」になれていない証拠のように感じられて、たまらなく悔しかった。
藍はふいっと顔を背け、差し出されようとするその手をパッと払いのけるように一歩下がった。
「……子ども扱いしないでってば」
藍のその低い、しかし震える声を聞いて、亜子はきょとんと目を丸くした。
いつもなら「なになに、すねちゃって可愛いなぁ」と笑うはずの亜子の表情が、少しだけ真剣なものに変わる。
「藍……?」
亜子が手を引っ込め、少し戸惑ったように藍の顔を覗き込んだ。
その瞬間、風が強く吹き抜け、二人の間にどこか気まずい沈黙が流れる。藍の胸の奥で、ドクン、ドクンと激しい心音が高鳴っていた。怒っているのか、悲しいのか、それとも別の感情なのか、当時の藍にはまだその名前が分からなかった。ただ、目の前で泣き腫らした赤い目をしている亜子を見ていると、胸の奥底から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
(僕がもっと大きければ。もっと強ければ、野村なんて奴に負けないくらいカッコいい男だったら……亜子ちゃんだって、僕の前であんな奴のために泣いたりしないのに)
悔しさが涙に変わりそうになり、藍はぎっと奥歯を噛みしめた。
そんな藍のただならぬ様子に気づいたのか、亜子はそっと自分のポケットから小さなハンカチを取り出した。それは、白地に控えめな青い小鳥の刺繍が入った、少し大人びたハンカチだった。
「……ごめんね、藍。私のせいで、なんだか変な空気になっちゃって」
亜子は自分の目を軽く押さえてから、そのハンカチをそっと藍のほうへ差し出した。いや、正確には、泣き疲れて鼻をすする自分の顔を拭こうとしたついでに、「ほら、藍も怒らないの」と差し出そうとしたのだ。
だが、藍はその差し出されたハンカチを見つめ、違う行動に出た。
「……いらない。僕、泣いてないし」
そう言いながら、藍は自分のポケットを探った。けれど、そのにあったのは昨日から使い古した、しわくちゃのポケットティッシュが一袋だけ。それを見た瞬間、藍はさらにみじめな気持ちになり、唇をぎゅっと噛み締めた。
「……あ、そうだ」
亜子は藍のそんな不器用なプライドと、子どもなりの焦りを察したのか、ふっと柔らかく微笑み、自分の持っていたハンカチを藍の手に無理やり握らせた。
「これ、あげる。ポケットティッシュじゃなくて、こういうの持ってると、ちょっとだけ大人っぽく見えるでしょ?」
「……え?」
不器用な手で包み込まれ、亜子の体温と、かすかに香るシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐった。
藍は顔が一気に真っ赤になるのを感じた。心臓がうるさいほどに跳ね上がり、呼吸の仕方を忘れたように体が固まる。
「お姉ちゃんからの、秘密のプレゼント。……藍なら、きっといつか、すごくカッコいい男の子になるよ。私、知ってるんだから」
亜子は悪戯っぽくウインクをしてみせると、立ち上がり、紺色のスカートの砂をパタパタと払った。
「さ、そろそろ夕方だし、お母さんに怒られちゃうから帰ろ? 藍」
亜子は藍の頭をポンポンと軽くたたく。
「……子ども扱いすんなって!」
藍は真っ赤な顔のまま怒鳴り声を上げ、亜子より先にスタスタと土手を駆け上がっていった。
だけど、その握りしめたポケットの中では、亜子から受け取った青い小鳥のハンカチを、千切れるほど強く、強く握りしめていたのだ。
帰り道の夕暮れ、空のグラデーションがあかね色から深い群青色へと変わっていく。
藍はその冷たい空気を大きく吸い込みながら、心の中で固く誓っていた。
(いつか絶対に、亜子ちゃんを泣かせる奴を許さない男になってやる。そして、頭を撫でられるだけのガキじゃなくて……亜子ちゃんの隣を、対等に歩ける男になってやるんだ)
その日から、藍の果てしない「背伸びの歴史」が始まった。
ただの子どもだった藍の心に、小さな、けれど決して消えることのない炎が灯った瞬間だった。




