プロローグ 珈琲の香りと過ぎ去った季節
おばさん、この子の名前何ていうの?
幼い亜子は蒼井のおばさんが愛おしそうに抱いている赤ん坊を見ていった。
藍よ。
おばさんがそういうと赤ん坊の藍は亜子を見て微笑んだ。
ーー23年後
午後の柔らかな陽光が、大通りに面した静かな喫茶店の大きなガラス窓を通り抜け、アンティーク調の木製テーブルの上に穏やかなまだらの影を落としていた。
店内に流れるのは、主張しすぎない控えめなボサノヴァのBGMと、カップとソーサーが触れ合うかすかな磁器の音。カウンターの向こう側からは、じっくりと豆を挽くグラインダーの心地よい駆動音と、立ち上るローストされた珈琲の芳醇な香りが漂っている。
その特等席とも言える窓際のボックス席で、28歳の亜子はテーブルに浅く突っ伏すようにして、静かにまぶたを閉じていた。
平日の昼下がり、企画書の締め切りに追われ続けた怒涛の一週間がようやく終わり、張り詰めていた糸がプツリと切れたかのように、彼女の意識は深い眠りの底へと落ちていり。肩の力がすっかり抜け、規則正しい浅い寝息がほんの小さなリズムを刻んでいる。
――その対面の席に、23歳の藍がいた。
背筋をすっと伸ばして座る藍の姿には、かつてのあどけなさは微塵もない。仕立ての良いネイビージャケットの袖口から覗く手首には落ち着いたデザインの腕時計が巻かれ、その肩幅はしっかりと広く、スーツの上からでも分かるほど胸板には確かな厚みが宿っていた。
藍は、目の前で無防備に眠る亜子の寝顔を、じっと見つめている。
見つめるその瞳には、子供の頃には決して持てなかった、深い包容力と、隠しきれないほどの熱を帯びた愛おしさが混ざり合っていた。
「……相変わらずだな、亜子ちゃんは」
藍は声に出さず、ただ喉の奥で小さく呟いた。
仕事の打ち合わせの最中であっても、資料の読み込みに熱中しすぎると、いつの間にかこうして机に突っ伏して眠ってしまう癖は、昔から少しも変わっていない。
学生時代、実家のリビングのローテーブルでテスト勉強をしている最中に、教科書を枕にして眠りこけていた亜子の姿が、目の前の彼女と重なる。
藍はふっと小さく息を吐き、自分の体温で少し温もったマグカップから視線を外すと、席を立って亜子のそばへと歩み寄った。
そして、自分が羽織っていたジャケットをそっと外し、亜子の華奢な肩へと優しくかけ直す。
「ん……っ……」
気配に気づいたのか、亜子がうっすらとまぶたを震わせ、苦笑い混わりに小さく身じろぎした。
「あ、ごめん……起こしちゃった?」
藍が低く落ち着いた声でそう声をかけると、亜子はぼんやりとした目でゆっくりと頭を持ち上げた。
亜子の長いまつげがパチパチと瞬き、まだ夢の世界から現実に戻りきっていないトロンとした瞳が藍を捉える。その無防備すぎる表情に、藍の胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚に襲われた。
「……藍くん? あれ、私……寝てた?」
「うん。すごく気持ちよさそうにね。疲れてたんだろ、今週は企画書の山だったし」
「うそ……何分くらい?」
「20分くらいかな。いいんだよ、別に急ぐ用事もないし」
藍は微笑みながら、テーブルの端に置かれていた亜子の冷めかけたアイスティーのグラスをそっと遠ざけ、代わりにあたたかい白湯の入ったグラスを彼女の手の届く位置へ滑らせた。その手際の良さと、まるで長年連れ添ったパートナーのような自然な気遣いは、どこをとっても「頼れる大人の男」そのものだった。
亜子は差し出されたグラスに両手を包み込みながら、ぼんやりとした頭で目の前の藍を見つめる。
シャツの首元から覗く喉仏、しっかりと鍛え上げられた胸元、そして何より、自分を見つめる藍の瞳の圧倒的な「高さ」と「深さ」。
(――いつの間に、こんなに大きくなったんだろう)
亜子の胸のなかで、ふとそんな言葉が熱を持たずに浮かび上がっては消えた。
脳裏によぎるのは、ほんの数年前までの記憶。いや、もっと幼い、ランドセルを背負っていた頃の、あの小さくて不器用だった藍の姿だ。
いつだって「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と後ろをついてきて、なにかにつけて突っ張っては、子供扱いされると顔を真っ赤にして怒っていた男の子。
視界の端で、西日が窓際のカーテンを揺らし、店内の真鍮のペンダントライトが微かに光を放つ。
その風景は、かつて2人が過ごした放課後のリビングや、夕暮れの河原の景色と重なり合って、藍の脳裏に鮮やかなフラッシュバックを引き起こしていく。
「……ねえ、藍くん」
「ん?」
「さっきね、ちょっと変な夢を見たんだ」
「夢?」
「うん。すっごく昔の……藍くんがまだ、私の腰くらいまでしか背がなくてさ、やたらと背伸びしてた頃の夢」
亜子は小さくふふっと笑い、白湯の湯気を指先で見つめながら、遠い目を向けた。
その言葉を聞いた瞬間、藍の心臓がトクンと大きく跳ねた。
奇しくも、藍自身もまったく同じ過去の記憶に浸っていたからだ。
「……背伸び、ね」
「そう。あの頃の藍くんは可愛かったなあ。何をするにも『僕だってもう子供じゃない』って顔してさ。私のこと、子ども扱いいつもしないでって、いつもムスッとしてた」
亜子のその言葉は、からかうような響きを含みながらも、どこか切なさと愛おしさに満ちていた。
藍は苦笑いを浮かべ、カップの縁を指でなぞりながら、窓の外を流れる車をぼんやりと眺める。
(あの頃の俺は、本当に必死だったんだよ)
藍は心の中でそう呟く。
子供扱いされるのが悔しくて、亜子にとっての「ただの弟」でいることが耐えられなくて。
早く大人になりたくて、早く隣に並べる男になりたくて、無様なくらい足掻いていたあの季節。
あの日の藍にとって、亜子は眩しすぎる存在であり、同時に、心の底から守りたいと誓った最初の「憧れ」だった。
『ロミオの青い空』の物語の中で、ロミオがアルフレドに追いつこうと
黒い兄弟の仲間にからかわれても、ひたすら絵本をたどたどしく読んだように。
『ロミオの青い空』は年が離れた2人の共通の話題になるアニメだった。
藍もまた、目の前にいる亜子という存在の背中を追いかけ、がむしゃらに階段を駆け上がってきたのだ。
「……ねえ、藍」
亜子が不意に、子供の頃によく呼ばれていた呼び方を落とした。
その声のトーンに、藍の背筋がわずかにピクリと反応する。
「ん?」
「今の藍くんはさ……もうすっかり、あの頃の夢なんかよりずっと大きくて、頼もしいお兄さん……じゃなくて、なんだか、逆にお姉ちゃんが守ってもらいたい気分になっちゃうな」
照れくさそうに、けれど真剣な瞳でそう告げた亜子の頬が、夕暮れの光の中でうっすらと赤く染まる。
藍はその言葉を受け止めると、ゆっくりと視線を上げ、真っ直ぐに亜子の目を見据えた。
かつては上から見下ろされ、頭を優しく撫でられていた自分が、今こうして彼女を包み込むように見つめている。
物理的な距離だけでなく、心の距離も、そして関係性の形も――あの長い「背伸びの期間」を経て、ようやくここまでたどり着いたのだという確かな手応えが、藍の胸を満たしていく。
「お姉ちゃんに守ってもらう必要なんかないよ、亜子ちゃん」
藍は声のトーンを少しだけ落とし、大人の男としての落ち着いた響きを込めて静かに言った。
その表情に浮かんだのは、かつての生意気な少年でも、ただの弟でもない、一人の男性としての確固たる決意だった。
「これからは、僕がずっと、亜子ちゃんの隣で――ううん、亜子ちゃんの手を取って歩いていくから」
その言葉に、亜子は息を呑んだ。
胸の奥で鐘が鳴るような衝撃と共に、かつての小さな弟が、いつの間にか自分の心を完全に奪っていく「運命の相手」になっていたという事実が、甘やかな熱となって全身を駆け巡る。
喫茶店の窓の外では、少しずつ夜の帳が下り始め、街のイルミネーションが温かな光を灯し始めていた。
これは、不器用な少年が長い時間をかけて大人になり、ずっと焦がれていた背中に追いつき、そして結ばれるまでの――あまりにも愛おしく、切なく、そして温かい物語の、はじまりのプロローグ。
大人の男女の5歳くらいの年の差はあまり違和感がないですよね。
この物語は、それが小6男子が高2の女子高生に恋をしたら……という背伸びドタバタを描きました。
この手の年の差のプロ作家の作品は、
小説では、おいしいコーヒーの入れ方シリーズ(村山由佳著)
コミックでは、オトナになる方法(山田南平著)
などがありますが。
私なりに作ってみました。




