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バタフライ エフェクト  作者: 旭


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第5話 運命の請求書

13

「そんな……城島先生の絵が……」

ニュース画面を凝視したまま、葵の声が震えた。

火災が発生したのは、葵が進学を目指す東京の美大。全焼したのは、城島先生が青年時代に命を削って描き上げ、大学の保管庫に寄贈していた初期の代表作群だった。先生にとってそれは、画家としての魂の根幹であり、大切な青春そのものだった。

「浅香、落ち着け」

柊は冷たく固まった葵の手を強く握り返した。

「神条の言うことを真に受けるな。あいつは俺たちの心を折ろうとしているんだ」

「でも……! 私が大賞を取って奨学金を手に入れた瞬間に、先生の絵が燃えたのよ!? 父さんの工場だけじゃない。私が『自分の夢』を選んで進むたびに、周りの大切な人が傷ついていく……!」

葵の瞳から涙がこぼれ落ち、駅前のアスファルトに黒い点を作った。

前回の人生で、城島先生は「君には才能がある。僕のようにならず、自由に描きなさい」と笑っていた。その先生の過去を、未来を守るために、自分が間接的に焼き尽くしてしまったのか。

「……諦めたら、それこそ神条の思うツボだ」

柊は遠ざかる神条の背中を睨みつけ、低く尖った声で言った。

「歪みが生まれるなら、その歪みの先回りをして防げばいい。過去を知っているのはあいつだけじゃない。俺たちだって、この先何が起きるかの『記憶』を持ってるんだ」

14 

数日後。高校の美術室。

城島先生はいつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべ、葵の「二科展大賞」の賞状を額に入れて壁に飾っていた。

「すごいじゃないか、葵。これで東京の美大への道も、奨学金も決定だ。誇りに思いなさい」

「先生……あの、大学の保管庫のニュース……」

葵が恐る恐る尋ねると、城島は一瞬だけ切なげに目を細めたが、すぐに頭を振った。

「ああ、聞いたかい。……まあ、過ぎたことさ。絵は燃えてしまったが、僕が描いたという事実まで消えたわけじゃない。それより、君の未来の方がずっと大事だ」

(先生……)

自分の前では気丈に振る舞う城島の優しさが、今の葵にはナイフのように胸に刺さった。

その日の放課後、葵と柊は屋上に集まっていた。

「神条玲奈の動きを探った」

柊がノートを開きながら切り出した。

「あいつはスピーチコンテストの代表権を奪ったあと、すでに次の『選択』に動いている。政治家であるあいつの父親の裏金疑惑……前回の人生では来年発覚して神条家は落ちぶれたはずだ。あいつはそれを揉み消すために、告発予定者だった市議会議員の弱みを握ろうとしている」

「自分の未来のために、また誰かを陥れる気……?」

「ああ。だが問題はそこじゃない」

柊はノートのページをめくった。そこには、複雑に絡み合った人間関係の図が描かれていた。

「神条が自分の父親の失脚を防ぐために運命を変えると、そのしわ寄せで別の事故や事件が強制的に発生する。まるで倒れかけたドミノを、無理やり別の方向に倒すみたいにな」

「そのしわ寄せが……また私たちの周りに来るってこと?」

「そうだ。現に、相沢ゆりの事故、お前の家の火事、そして城島先生の絵の焼失……すべてが数日置きに連鎖している。このままだと、次はもっと決定的な何かが壊れる」

その時、二人のスマートフォンが同時に震えた。

画面を開くと、校内の掲示板アプリから緊急の通知が入っていた。

『【訃報】本校教員・城島 達也 先生が、本日未明、自宅付近の交差点にてひき逃げ事故に遭い――』

「――っ!?」

葵の息が止まった。スマホが手から滑り落ち、屋上のコンクリートに音を立てて転がった。

15

「先生……! 城島先生!!」

葵は全速力で屋上を飛び出し、階段を駆け下りた。

「待て、浅香! まだ死んだわけじゃない! 病院だ!」

後ろから柊が追いかけてくる。

病院の集中治療室の前で、葵と柊は絶望的な報せを聞かされた。

命は取り留めたものの、右腕の複雑骨折と頭部の強打により、城島先生は二度と絵筆を握ることができない身体になったという。

(絵だけじゃない……先生の腕まで……!)

病院の廊下のベンチで、葵は両手で顔を覆って泣きじゃくった。

「私のせいだ……私が美大に行こうとしたから……私が過去を変えたから……っ!」

「違う! 浅香、自分を責めるな!」

「違わないよ!!」葵は激しく叫んだ。

「私が元の人生のまま、公務員になっていれば……父さんの工場も燃えなかった! 先生の絵も燃えなかったし、先生が事故に遭うこともなかった! 私が『夢を追いたい』なんて言ったから、みんなの人生が狂っちゃったんだよ!!」

痛切な叫びが、白い病院の廊下に響き渡った。

その時、壁の陰からカツカツとヒールの音が近づいてきた。

姿を現したのは、黒いワンピースを身にまとった神条玲奈だった。その表情には、冷酷な勝利の笑みが浮かんでいた。

「言ったでしょう? 『何かを選べば、何かを失う』……それが世界の均衡だって」

「神条……!」

柊が玲奈を睨みつけ、前に立ちふさがる。

「あなたがやったの? 城島先生の事故も、あなたが仕組んだことなの!?」葵が涙で濡れた目で詰問する。

玲奈は優雅に首を振った。

「いいえ? 私はただ、自分の父親を救うために『過去のデータ』をひとつ消しただけよ。そうしたら、世界が勝手に帳尻を合わせたの。あなたの大切な恩師の身体を使ってね」

玲奈は葵の前にしゃがみ込み、その顎を指ですくい上げた。

「ねえ、浅香さん。これでもまだ、絵を描き続けるつもり? あなたがキャンバスに筆を走らせるたびに、誰かの骨が折れ、誰かの人生が燃えるのよ? ……いっそ、その手を切って、もう二度と絵を描かないと誓えば、世界は元に戻るかもしれないわね?」

「くっ……!」

葵の心が、パキリと音を立てて折れかけた。

自分の夢と、大切な人の幸福。

やり直した人生で突きつけられたのは、前回の人生よりも遥かに残酷な「分岐点」だった。

「……おい、神条」

沈黙を守っていた蓮見柊が、低く、地獄の底から響くような声で呟いた。

「お前は大きな勘違いをしている」

「……なにかしら?」

玲奈が振り返ると、柊は冷たい笑みを浮かべていた。その瞳には、かつて事故で右手を失い、絶望の底を這いずり回った男の「執念」が狂気のように宿っていた。

「帳尻合わせで誰かが傷つくなら……その歪みを全部、お前の未来に叩きつけてやる」

「なっ……!?」

「浅香、立て」

柊は葵の腕を強く引き上げた。

「お前の絵は、誰かを傷つけるためのものじゃない。運命をぶん殴るためのものだ。神条……お前が奪ったすべての分岐点、俺たちが全部暴いて、元のどん底に叩き落としてやる」

二人の「記憶保持者」と、冷血な「略奪者」。

過去をやり直した者たちの、生き残りをかけた本当の戦いが始まろうとしていた。

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