第5話 運命の請求書
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「そんな……城島先生の絵が……」
ニュース画面を凝視したまま、葵の声が震えた。
火災が発生したのは、葵が進学を目指す東京の美大。全焼したのは、城島先生が青年時代に命を削って描き上げ、大学の保管庫に寄贈していた初期の代表作群だった。先生にとってそれは、画家としての魂の根幹であり、大切な青春そのものだった。
「浅香、落ち着け」
柊は冷たく固まった葵の手を強く握り返した。
「神条の言うことを真に受けるな。あいつは俺たちの心を折ろうとしているんだ」
「でも……! 私が大賞を取って奨学金を手に入れた瞬間に、先生の絵が燃えたのよ!? 父さんの工場だけじゃない。私が『自分の夢』を選んで進むたびに、周りの大切な人が傷ついていく……!」
葵の瞳から涙がこぼれ落ち、駅前のアスファルトに黒い点を作った。
前回の人生で、城島先生は「君には才能がある。僕のようにならず、自由に描きなさい」と笑っていた。その先生の過去を、未来を守るために、自分が間接的に焼き尽くしてしまったのか。
「……諦めたら、それこそ神条の思うツボだ」
柊は遠ざかる神条の背中を睨みつけ、低く尖った声で言った。
「歪みが生まれるなら、その歪みの先回りをして防げばいい。過去を知っているのはあいつだけじゃない。俺たちだって、この先何が起きるかの『記憶』を持ってるんだ」
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数日後。高校の美術室。
城島先生はいつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべ、葵の「二科展大賞」の賞状を額に入れて壁に飾っていた。
「すごいじゃないか、葵。これで東京の美大への道も、奨学金も決定だ。誇りに思いなさい」
「先生……あの、大学の保管庫のニュース……」
葵が恐る恐る尋ねると、城島は一瞬だけ切なげに目を細めたが、すぐに頭を振った。
「ああ、聞いたかい。……まあ、過ぎたことさ。絵は燃えてしまったが、僕が描いたという事実まで消えたわけじゃない。それより、君の未来の方がずっと大事だ」
(先生……)
自分の前では気丈に振る舞う城島の優しさが、今の葵にはナイフのように胸に刺さった。
その日の放課後、葵と柊は屋上に集まっていた。
「神条玲奈の動きを探った」
柊がノートを開きながら切り出した。
「あいつはスピーチコンテストの代表権を奪ったあと、すでに次の『選択』に動いている。政治家であるあいつの父親の裏金疑惑……前回の人生では来年発覚して神条家は落ちぶれたはずだ。あいつはそれを揉み消すために、告発予定者だった市議会議員の弱みを握ろうとしている」
「自分の未来のために、また誰かを陥れる気……?」
「ああ。だが問題はそこじゃない」
柊はノートのページをめくった。そこには、複雑に絡み合った人間関係の図が描かれていた。
「神条が自分の父親の失脚を防ぐために運命を変えると、そのしわ寄せで別の事故や事件が強制的に発生する。まるで倒れかけたドミノを、無理やり別の方向に倒すみたいにな」
「そのしわ寄せが……また私たちの周りに来るってこと?」
「そうだ。現に、相沢ゆりの事故、お前の家の火事、そして城島先生の絵の焼失……すべてが数日置きに連鎖している。このままだと、次はもっと決定的な何かが壊れる」
その時、二人のスマートフォンが同時に震えた。
画面を開くと、校内の掲示板アプリから緊急の通知が入っていた。
『【訃報】本校教員・城島 達也 先生が、本日未明、自宅付近の交差点にてひき逃げ事故に遭い――』
「――っ!?」
葵の息が止まった。スマホが手から滑り落ち、屋上のコンクリートに音を立てて転がった。
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「先生……! 城島先生!!」
葵は全速力で屋上を飛び出し、階段を駆け下りた。
「待て、浅香! まだ死んだわけじゃない! 病院だ!」
後ろから柊が追いかけてくる。
病院の集中治療室の前で、葵と柊は絶望的な報せを聞かされた。
命は取り留めたものの、右腕の複雑骨折と頭部の強打により、城島先生は二度と絵筆を握ることができない身体になったという。
(絵だけじゃない……先生の腕まで……!)
病院の廊下のベンチで、葵は両手で顔を覆って泣きじゃくった。
「私のせいだ……私が美大に行こうとしたから……私が過去を変えたから……っ!」
「違う! 浅香、自分を責めるな!」
「違わないよ!!」葵は激しく叫んだ。
「私が元の人生のまま、公務員になっていれば……父さんの工場も燃えなかった! 先生の絵も燃えなかったし、先生が事故に遭うこともなかった! 私が『夢を追いたい』なんて言ったから、みんなの人生が狂っちゃったんだよ!!」
痛切な叫びが、白い病院の廊下に響き渡った。
その時、壁の陰からカツカツとヒールの音が近づいてきた。
姿を現したのは、黒いワンピースを身にまとった神条玲奈だった。その表情には、冷酷な勝利の笑みが浮かんでいた。
「言ったでしょう? 『何かを選べば、何かを失う』……それが世界の均衡だって」
「神条……!」
柊が玲奈を睨みつけ、前に立ちふさがる。
「あなたがやったの? 城島先生の事故も、あなたが仕組んだことなの!?」葵が涙で濡れた目で詰問する。
玲奈は優雅に首を振った。
「いいえ? 私はただ、自分の父親を救うために『過去のデータ』をひとつ消しただけよ。そうしたら、世界が勝手に帳尻を合わせたの。あなたの大切な恩師の身体を使ってね」
玲奈は葵の前にしゃがみ込み、その顎を指ですくい上げた。
「ねえ、浅香さん。これでもまだ、絵を描き続けるつもり? あなたがキャンバスに筆を走らせるたびに、誰かの骨が折れ、誰かの人生が燃えるのよ? ……いっそ、その手を切って、もう二度と絵を描かないと誓えば、世界は元に戻るかもしれないわね?」
「くっ……!」
葵の心が、パキリと音を立てて折れかけた。
自分の夢と、大切な人の幸福。
やり直した人生で突きつけられたのは、前回の人生よりも遥かに残酷な「分岐点」だった。
「……おい、神条」
沈黙を守っていた蓮見柊が、低く、地獄の底から響くような声で呟いた。
「お前は大きな勘違いをしている」
「……なにかしら?」
玲奈が振り返ると、柊は冷たい笑みを浮かべていた。その瞳には、かつて事故で右手を失い、絶望の底を這いずり回った男の「執念」が狂気のように宿っていた。
「帳尻合わせで誰かが傷つくなら……その歪みを全部、お前の未来に叩きつけてやる」
「なっ……!?」
「浅香、立て」
柊は葵の腕を強く引き上げた。
「お前の絵は、誰かを傷つけるためのものじゃない。運命をぶん殴るためのものだ。神条……お前が奪ったすべての分岐点、俺たちが全部暴いて、元のどん底に叩き落としてやる」
二人の「記憶保持者」と、冷血な「略奪者」。
過去をやり直した者たちの、生き残りをかけた本当の戦いが始まろうとしていた。




