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バタフライ エフェクト  作者: 旭


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最終話 反撃のアンサンブル

16

病院の静まり返った廊下で、神条玲奈の嘲笑が消えた。

柊が放った一言に、玲奈は一瞬だけ表情を強張らせたが、すぐに鼻で笑ってみせた。

「威勢がいいことね、蓮見くん。でも、どうやって運命を覆すつもり? 世界の歪みはもう止められないわ」

「止めないさ。歪みの『向かい先』を変えるだけだ」

柊はスマートフォンを取り出し、画面を玲奈に向けた。

そこには、神条家の政治資金パーティの出席者リストと、ある市議会議員の移動ルートが映し出されていた。

「お前は父親の裏金疑惑を揉み消すために、告発予定の議員の告発状(データ)を事前に破棄させた。だが、その議員は念のために手書きの原本を別の場所に保管していた。前回の人生で、お前の父親が逮捕された本当の理由は、その原本が検察に渡ったからだ」

玲奈の顔から余裕が消えた。

「お前は『相沢ゆりの事故』や『城島先生の事故』という犠牲を生み出してまで過去を書き換えた気になっていたが、肝心の決定打を消せていない。お前がどんなに他人の未来を奪おうが、隠した罪は消えないんだよ」

「……黙りなさい」

「お前の父親は、予定通り来週のパーティで告発される。お前が奪った相沢ゆりのスピーチコンテストの代表権も、不正発覚で白紙に戻るはずだ」

「黙りなさいと言っているでしょう!!」

玲奈の金切り声が廊下に響いた。完璧だったマドモアゼルの仮面が完全に剥がれ落ち、そこにあったのは恐怖に怯える一人の少女の素顔だった。

「私だって……私だって、生き残りたかったのよ!」

玲奈の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「前回の人生で……父親が逮捕されたあと、神条家は破産したわ。私は大学を中退させられ、借金取りに追われ、最後は孤独の中で死んだのよ! あの白い部屋で『もう一度やり直せる』って言われた時、私がどれだけ必死だったか……! 誰かを踏み台にしなければ、私が殺されるのよ!!」

痛切な叫びだった。

玲奈もまた、前回の人生で容赦なく奪われ、絶望の底で命を落とした「被害者」の一人だったのだ。

17

その夜。

葵が自室で未完成のキャンバスに向かっていると、突然、周囲の音が消え去った。

秒針の音も、遠くの車の騒音も途絶え、部屋の色彩がすべて「白」へと染まっていく。

「浅香葵さん」

あの日、白い部屋で聞いた、姿なき案内人の声が脳内に直接響いた。

「過去を変えたことによる運命の歪みが、許容量を超えつつあります。このままでは、この街全体が因果の崩壊に巻き込まれるでしょう」

「案内人さん……!」

葵は筆を握りしめ、声のする方へと叫んだ。

「どうすればいいんですか!? 誰も傷つけずに、自分の人生を生きる方法はないんですか!?」

「運命とは、一本の線ではなく網目です。一箇所を手繰り寄せれば、別の場所が引きつれる。それを防ぐ方法はただ一つ」

案内人の声は、どこまでも平坦で冷ややかだった。

「全員が『元の人生』を受け入れ、分岐点に戻ることです。

あなたたちがやり直しを放棄し、最初の人生の結末へと帰れば、世界の歪みはすべてリセットされます。城島先生の腕も治り、火事も起きず、相沢さんも事故に遭わない」

葵の胸が、ぎゅっと締め付けられた。

元に戻る。

それは、美大への道を諦め、公務員になり、34歳で病死するあの人生を受け入れるということだ。

柊は再び右手を失い、ピアニストの夢を絶たれて荒んだ人生を送る。

玲奈は父親の失脚によって破滅する。

(誰かの幸福のために、自分がまた犠牲になればいいの……?)

「……いいえ」

葵ははっきりと首を振った。

「私は……もう逃げないって決めたんです。自分の後悔から逃げるために過去に戻ったんじゃない。今の自分が自分らしく生きるために、選択したんです」

「ですが、代償は容赦なく支払われますよ」

「代償なら、私たちが二人で背負います」

葵の背後に、ドアを開けて入ってきた柊が立った。

空間の白を破るように、二人の意志が力強く立ち上がる。

「誰かの未来を奪って逃げるんじゃない。運命の歪みが襲ってくるなら、俺たちの音楽と絵で、その歪みごと新しい未来に塗り替えてやる」

案内人はしばし沈黙したあと、小さな息を吐くような気配を見せた。

「……面白い。ならば証明してみせなさい。過去に囚われた者たちが、運命の針を超えていけるのかを」

18

一ヶ月後。

東京の大手ギャラリーで、『全国高校二科展』と『全日本ピアノコンクール優勝者発表会』が合同で開催されていた。

会場の中央に展示されていたのは、葵の巨大な油彩画『Turning point』。

そこには、燃え盛る赤と深い青の旋律の中に、傷つきながらも立ち上がる人々の姿が描かれていた。

その絵は、単なる美しさではなく、痛みを引き受けて前へ進む者の「生のリズム」を放っていた。

そして、その絵の前で、グランドピアノに向かう蓮見柊がいた。

コンクールで優勝を果たした柊が選んだアンコール曲は、自らが作曲したオリジナルの新曲――『歪みの果てに』。

ポロン……

指先が鍵盤を打つ。

一音一音が重厚に響き、ギャラリー全体を包み込んでいく。

前回の人生で失われた右手が、奇跡のような旋律を紡ぎ出す。

その音色は、過去の不運を呪うものではなく、傷ついた自分自身を救済するための、圧倒的な「生の証明」だった。

観客席の片隅には、車椅子に乗った城島先生の姿があった。

ギプスで固定された右腕を抱えながら、城島は涙を浮かべて葵の絵と柊の演奏を見つめていた。

「葵……素晴らしいよ。絵から音聞こえてくるようだ。僕の腕はもう動かないが……君たちが描く未来を見られるなら、僕はなんだって受け入れられる」

絵の道は絶たれたが、城島は葵の師として、彼女の才能を世界へ送り出すという新たな「人生の分岐点」を見出していた。

会場の遠くには、警察の事情聴取を終えた神条玲奈の姿もあった。

父親の不正は暴かれ、彼女は再び過酷な現実へと突き落とされた。しかし、その瞳にはかつての冷酷さはなく、葵と柊の圧倒的な演奏と絵の前に、ただ呆然と立ち尽くしていた。

「……私の負けね」

玲奈は小さく呟き、唇を噛みしめた。

他人の未来を奪って得た偽りの成功ではなく、泥をすすりながらも自力で掴み取った二人の「運命」の前に、彼女の復讐心は霧散していた。


エピローグ

演奏が終わり、地鳴りのような拍手がギャラリーを揺らした。

葵と柊は、溢れんばかりの光の中で視線を交わした。

過去をやり直したことで、多くの傷を残した。失ったものも、完全に元通りにはならなかった。

だが、彼らはもう「もしもあの時……」と過去を振り返ることはない。

人は誰しも、毎日が選択の連続であり、今立っているこの場所こそが、常に新しい「分岐点(ターニングポイント)」なのだから。

「浅香」

控室へ向かう廊下で、柊が葵を呼び止めた。

「次の分岐点……どこへ行く?」

葵は画板を強く抱きしめ、爽やかな笑みを浮かべた。

「決まってるでしょ。もっと遠く……私たちがまだ見たこともない、未来の向こう側へ!」

夕暮れの街に、二人の笑い声が響き渡る。

運命の針は、二度と戻らない。

けれど彼らは今日も、自らの手で選んだ新しい明日へと、歩み続けていく。


完

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