第4話 刺客の旋律
10
全日本コンクール予選の当日の朝。
会場となる市民ホールの控室は、緊迫した空気に包まれていた。
蓮見柊は、鏡の前で黒いスーツのネクタイを締め直していた。
長丁場の練習で指先には吸い付くような感覚があり、仕上がりは前回の人生を含めても過去最高だった。右手の神経は何の不調もない。完璧だった。
(これで予選を突破し、特待生枠をもぎ取る……)
そう胸に誓った瞬間、控室のドアがノックもなく開いた。
入ってきたのは、見覚えのないガタイのいい男二人組だった。作業着を着ており、ホールの設備点検業者を装っているようだが、その目は明らかな害意を孕んでいた。
「蓮見柊だな?」
男の一人が低く言い、懐から金属製のパイプを取り出した。
「神条様からの伝言だ。『一度壊れたおもちゃは、元に戻すのが世のため』だとよ」
(神条……! 予選に出させない気か!)
男が容赦なくパイプを振り下ろす。
ターゲットは――柊の右手。
ガンッ!
激しい金属音が狭い控室に響き渡った。
柊は間一髪で体を捻り、間近にあったパイプ椅子を盾にして打撃を防いだ。
「ちっ、すばしっこいガキだ」
男たちが一斉に襲いかかってくる。狭い部屋で逃げ場はない。右手だけを守ろうと体を丸めた柊の視界に、入り口から飛び込んできた人影が映った。
「蓮見くん!!」
公募展の搬入を終えて駆けつけた葵だった。
葵は手にしていた重い木製のスケッチブック用画板を、迷わず男の背中に叩きつけた。
バゴォン!
「ぐああっ!?」
男が怯んだ隙を見逃さず、柊は足を滑り込ませて男の膝裏を蹴りつけ、床に倒し込んだ。もう一人の男が葵に向かって手を伸ばそうとするが、ホールに響き渡った大声に足を止めた。
「警察を呼びました! 警備員さんもこちらです!」
葵が廊下に向かって叫んだ嘘に動揺した男たちは、顔を見合わせると、倒れた仲間を引きずり起こして非常階段へと逃走していった。
「ハァ……ハァ……っ!」
静まり返った控室で、膝をつく柊。
葵は駆け寄り、彼の両手を確かめるように握りしめた。
「蓮見くん! 大丈夫!? 手は……手は無事!?」
「ああ……かすり傷ひとつない」
柊の指は、どこも傷ついていなかった。
葵は安堵のあまり、その場に崩れ落ちそうになった。
「よかった……本当によかった……!」
柊は、自分の手を守るために必死で駆けつけ、画板を振り回した葵の姿を見つめた。
前回の人生で、自分は事故のあと一人で絶望し、世界を呪いながら孤独に腐っていった。だが今、目の前には自分のために運命と戦ってくれる仲間がいる。
「浅香……ありがとう」
柊は握り返された葵の手の温もりを感じながら、立ち上がった。その瞳から迷いが消え、揺るぎない覚悟の炎が宿っていた。
「舞台に行ってくる。あいつがどれだけ卑劣な手を使おうが、俺の音は奪えないってことを証明してくる」
11
ホールに重厚なグランドピアノの音が響き渡った。
柊が弾いたのは、リストの『超絶技巧練習曲 第4番「マゼッパ」』。
猛スピードで疾走する馬に縛り付けられた男が、死の恐怖を乗り越えて最後には勝利をつかみ取るという激しい楽曲だ。
観客席の最後列で見ていた葵は、鳥肌が立つのを抑えられなかった。
鍵盤の上を跳ねる柊の指先は、まるで命そのものが躍動しているかのようだった。過去の絶望、事故の恐怖、神条への怒り、そして未来への執着――そのすべてが昇華され、圧倒的な音の奔流となってホール全体を支配していく。
演奏が終わった瞬間、一瞬の静寂のあと、割れんばかりの拍手と歓呼が巻き起こった。
審査員席の大人たちが身を乗り出し、興奮気味にメモを取っている。
柊の完全なる勝利だった。特待生の権利も、奨学金も、もう誰にも奪えない。
(すごい……蓮見くん……!)
葵は涙を拭い、自らの胸に手を当てた。
(次は、私の番だ)
数日後。
『全国高校二科展』の審査結果が発表された。
葵が描いた巨大なキャンバス――燃え盛る赤い炎と、それを切り裂く深いウルトラマリンの光を描いた作品『Turning point』は、満場一致で最高賞である「文部科学大臣賞(大賞)」に選出された。
学費全額免除の特待生資格と、賞金。
これにより、実家の工場を再建するための資金の目途が立ち、葵自身も美大へ進学する道が完全に開かれたのだった。
12
受賞式の帰り道。
夕暮れの駅前広場で、葵と柊は待ち伏せていた人物と対峙した。
綺麗なトレンチコートを着て、優雅に日傘を差した神条玲奈だった。
「おめでとう、浅香さん、蓮見くん」
玲奈は完璧な微笑みを浮かべていたが、その目の奥は氷のように冷たかった。
「男を使って襲わせるなんて、最低ね神条さん」
葵が毅然とした態度で言い放つと、玲奈はクスリと可笑しそうに笑った。
「証拠はあるのかしら? 私はただ、あなたたちが本当に『運命を変える資格』があるのか試しただけよ。……でも、まさか暴力すら跳ね除けて結果を出すなんてね。少し見直したわ」
「お前の思い通りにはならない」
柊が冷たく言い放つ。
「俺たちは、奪うことでしかやり直せないお前とは違う。自分の力で未来を掴む」
「フフ、青くさいこと言っちゃって」
玲奈は日傘をゆっくりと閉じ、二人との距離を詰めた。
「あなたたちはまだ分かっていないのよ。『やり直し(リターン)』の本当の恐怖を」
「……どういう意味だ?」
「案内人は言わなかった? 『何かを選べば、何かを失う』って。あなたたちが手に入れたその素晴らしい成果の代償が、どこに向かっていると思う?」
玲奈はスマートフォンを取り出し、あるニュース画面を二人の前に突きつけた。
画面に躍っていたのは、衝撃的な見出しだった。
『――本日未明、市内の美術大学にて大規模な火災が発生。油絵科の保管庫が全焼』
「え……?」
葵の血の気が引いた。そこは、葵が来年進学するはずだった美大のキャンバス保管庫であり、城島先生が昔描いた貴重な作品群が収められていた場所だった。
「あなたたちが自分の未来を守れば守るほど、その歪みは『あなたたちの本当に大切なもの』へとしわ寄せが行くのよ」
玲奈は耳元で囁くように微笑んだ。
「さあ、選択しなさい。自分の夢を選ぶか、それとも誰かの大切なものを守るために、再び諦めるか……。これが、過去をやり直した者に与えられる、終わりのない地獄よ」
嘲笑を残して立ち去る玲奈の背中を、夕闇が飲み込んでいく。
葵と柊は、再び突きつけられた「選択」の重圧の前に、強く手を握りしめ合うのだった。




