第3話 記憶の捕食者
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「……なんだよ、これ」
柊が葵の手元からスマートフォンを奪い取り、画面を睨みつけた。
メッセージの差出人は未登録のアドレス。数字とアルファベットが不規則に並んだ暗号のような文字列だ。
「相沢ゆりの事故と、このメール……ただの嫌がらせじゃない」
葵は震える声を絞り出した。
前回の人生で、相沢ゆりは目立たないがおっとりとした性格で、卒業まで大きな事件を起こしたことなど一度もなかった。彼女がこのタイミングで重体になるなんて、あからさまに「運命が強制的に書き換えられた」としか思えない。
「蓮見くん……『世界を乱す者を許さない』って、どういうこと? 私たちが過去を変えたことを、監視してる誰かがいるの?」
「わからん。だが――」
柊は苦々しく吐き捨て、窓の外を見つめた。校庭では運動部のかけ声が響いている。一見すると、どこにでもある平和な高校の日常だ。しかしその裏で、不可視の運命の歯車が狂い始めている。
「案内人は言っていた。『何かを選べば、何かを失う』とな。だが、このメールを書いた奴は、歪み(バタフライエフェクト)を直そうとしているんじゃない。意図的に誰かの未来を奪って、自分の都合のいい過去に書き換えているんじゃないか?」
「え……?」
「相沢ゆりが倒れたことで、得をする誰かがいるってことだ」
二人が息をのんだそのとき、美術室の扉がガラリと開いた。
「あら、浅香さん。それに蓮見くんも……珍しい組み合わせね」
入ってきたのは、生徒会副会長の神条 玲奈だった。
整った容姿に完璧な成績、誰にでも礼儀正しい学年のマドンナ。前回の人生では、彼女は現役で東大に進学し、政治家の道へ進んだはずだった。
「神条さん……どうしたの?」
「ううん、生徒会の書類を城島先生に届けに来たの。……それより浅香さん、聞いた? 隣のクラスの相沢さんのこと」
神条は痛ましそうに胸に手を当て、深くため息をついた。
「本当にショックだわ。明日行われる予定だった『全国高校生スピーチコンテスト』の県代表、相沢さんだったのに……こんなことになるなんて」
「スピーチコンテスト……?」
葵が首を傾げると、神条は寂しげに微笑んだ。
「ええ。彼女が辞退することになったから、繰り上げで私が県代表として出場することになったの。彼女の分まで、精一杯頑張ってこようと思うわ」
そう言って、神条は書類を教卓に置くと、「お先にね」と穏やかに微笑んで美術室を去っていった。
ドアが閉まった瞬間、柊が低い声で呟いた。
「……あいつだ」
「え?」
「神条玲奈だ。あいつのあの目……間違いない。俺たちと同じ『あっち』の匂いがする」
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「神条さんが……やり直し(リターン)をしたってこと?」
「ああ。前回の人生を思い出してみろ」
柊は腕を組み、冷ややかな目で扉を見つめた。
「前回の人生で、スピーチコンテストの県代表だったのは相沢ゆりだ。あいつはそこで全国優勝して、アメリカ留学の権利を手に入れた。一方の神条玲奈は、予選敗退……それがきっかけで彼女の完璧な人生に最初のヒビが入ったはずだ」
葵の頭の中で、バラバラだったピースが急激に繋がり始める。
神条玲奈は、自分の人生の最初の敗北である「スピーチコンテスト」の分岐点に戻ってきた。
そして、勝ち目がないと分かっていたライバル・相沢ゆりを階段から突き落とす(あるいは事故に遭わせる)ことで物理的に排除し、繰り上げで代表の座を奪い取ったのだ。
「そんな……! 自分のやり直しのために、人の命を奪うなんて……!」
「自分にとって都合のいい未来を作るためなら、他人の人生なんてどうでもいいと思ってる奴もいるってことだ」
柊はポケットから自分のスマートフォンを取り出し、画面を操作した。
「あのメールの送り主が神条だとしたら、あいつは『ルール通りに正しくやり直そうとしている俺たち』が邪魔なんだよ。自分と同じように過去を変える奴が増えれば、街の因果関係が乱れて、自分の目論見が狂うからな」
「じゃあ……あの火事も?」
葵の背筋に、氷を押し当てられたような冷気が走った。
「私の家の工場が火事になったのも、バタフライエフェクトじゃなくて……神条さんが仕組んだことなの……?」
「……そこまではわからない。だが、あいつが俺たちの『弱み』を握ろうとしているのは確かだ」
柊は葵の肩を掴み、その目を強く見つめた。
「浅香、怯えるな。あいつが過去を歪めて奪い取るタイプなら、俺たちは自分の力で未来を叩き伏せるしかない。お前は公募展で大賞を取れ。俺はコンクールで優勝する。誰にも文句を言わせない結果を出して、運命の主導権を取り戻すんだ」
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その夜。
葵は、実家の焼け焦げた匂いがまだ残る自分の部屋で、一枚の大きなキャンバスに向かっていた。
イーゼルの前でパレットナイフを握る手が、微かに震える。
(怖い。過去を変えることが、こんなにも恐ろしいなんて思わなかった)
前回の人生では、流されるままに諦め、傷つかない道を選んだ。
だが、やり直した今、選択の重みはすべて自分一人にかかっている。一歩間違えれば、家族が崩壊し、誰かが傷つき、見知らぬ他人の未来まで奪ってしまう。
『一度変えた運命の針は、二度と元には戻せません』
案内人の声が脳裏をよぎる。
(でも……戻れなくていい)
葵は筆に濃密なウルトラマリンの絵の具を塗りたくり、キャンバスへ強く叩きつけた。
ズバッ、と鋭い青の線が走る。
(私はもう、逃げない。公務員になって安穏と生きて、病室で後悔しながら死んでいくあの人生には、二度と戻らない……!)
描くのは、燃え盛る赤い炎と、それを切り裂くような深い青の光。
破壊と再生、後悔と決意。
十七歳の自分が抱えるすべての感情を、叩きつけるように画面にぶつけていく。
真夜中の静寂の中、絵の具の匂いが部屋中に満ちていく。
それは、葵が自分の足で「新しい運命」を切り開くための、血の混じった咆哮だった。
その頃。
月明かりが差し込む神条家の豪華な書斎で、神条玲奈は優雅に紅茶を口に含んでいた。
彼女のパソコン画面には、葵の家の工場の写真と、蓮見柊の過去のコンクールデータが映し出されている。
「浅香葵……蓮見柊……」
玲奈は真っ赤な口紅を塗った唇を吊り上げ、美しくも冷酷な笑みを浮かべた。
「せっかくもう一度もらった人生なのに、バカみたいに泥臭く努力なんてして……哀れね。世界はね、奪った者の勝ちなのよ」
玲奈はキーボードを叩き、新たなコマンドを入力した。
「まずは……天才ピアニスト様の指から、もう一度奪ってあげようかしら」




