第2話 灰色のあおり
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「葵! 大丈夫か!?」
黒煙が夕空を汚す工業団地の一角で、葵は息を切らせて立ち尽くしていた。
炎は消防隊の放水によって鎮火しつつあったが、実家の「浅香製作所」の建屋は無残に黒く焦げていた。集まった野次馬の雑音の中で、煤で顔を汚した父・勝男が、母の肩を抱きながら呆然と立ち尽くしている。
「父さん……! 母さん……!」
葵が駆け寄ると、勝男は無理に力のない笑顔を作ってみせた。
「なんだ、学校から走ってきたのか。……心配かけるな。幸い、誰も怪我はしなかったよ。ただ、工場の中の旋盤機と納品前の部品が、全部やられちまった」
勝男の手が、微かに震えていた。
「……私のせいだ」
葵の呟きは、消防車のサイレンにかき消された。
前回の人生。葵が「美大を諦めて公務員になる」と告げた日、父は肩の荷が下りたように笑い、無理な受注を断って工場の点検に入っていたのだ。
だが今、葵が「東京の美大に行きたい」と言った。学費と一人暮らしの費用。それを工面するために、父は今夜から無理な夜間稼働スケジュールを組み、老朽化した機械に負荷をかけすぎて火を出した。
――何かを選べば、何かを失う。
案内人の言葉が、脳内で冷たくリフレインする。
(私が夢を諦めなかったせいで、父さんの会社が潰れる……? これが、私の選んだ「正しい未来」なの?)
罪悪感で押しつぶされそうになりながら、葵は焦げ臭い風の中で膝を折った。
5
翌日の放課後。
葵は絵の具のバケツを洗う手をとめ、ぼんやりと水槽の水面を見つめていた。
美大への推薦辞退を、今日にも城島先生に申し出ようかと悩んでいた。自分が夢を追うことで家族が破滅するなら、やり直した意味などない。
そのとき、美術室の扉が静かに開いた。
立っていたのは、リュックを肩にかけた蓮見柊だった。
「……やっぱりここにいたか」
柊は葵の前に歩み寄ると、ポケットからくしゃくしゃになった千円札を数枚と、缶コーヒーを机に置いた。
「昨日の火事……お前の家の工場だったんだな」
「……蓮見くんには関係ないよ」
「関係大ありなんだよ」
柊の強い口調に、葵は顔を上げた。
柊は苛立ったように自分の前髪をかき上げ、窓の外を睨みつけた。
「俺が事故を避けた。お前が美大を目指した。その瞬間に、この街の『過去の因果関係』が組み替わったんだ。お前の親父さんが火事を起こした時間、本来なら事故を起こすはずだったトラックの運転手が、消防車とすれ違ってブレーキを踏んだ」
葵は息をのんだ。
「……全部、つながってるの?」
「そうだ。俺たちが自分の都合で未来を変えるたびに、誰かの未来がずれていく。……だがな、浅香。だからって『やっぱり美大はやめます』なんて逃げるなよ」
柊は葵の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その目は、諦めと怒りを交ぜ合わせたような、鋭い光を放っていた。
「俺は、手が動く。右手が壊れて絶望したあの17年間を二度と味わいたくないから、死んでもピアノを奪わせない。お前だって、あの白い部屋で『もう一度絵を描きたい』って願ったんだろ? 自分で選んだ分岐点だ。代償から逃げて過去に戻ろうとするな」
「でも……父さんたちの工場が……お金だって……」
「金なら、作ればいい」
柊は短く吐き捨て、自分のリュックから一冊の楽譜を取り出した。
「今週末、全日本コンクールの予選がある。優勝賞金と特待生制度がついているやつだ。俺はそこで圧倒的に勝つ。スカウトも来るはずだ。……お前も出ろ」
「え?」
「来月、若手画家の登竜門と言われてる『全国高校二科展』の公募がある。そこで大賞を取れば、美術大学の奨学金が出る。学費全額免除だ」
柊は葵の目の前に拳を突き出した。
「運命を変えて生じた歪みは、自分たちの力で叩き潰す。過去を知ってる俺たちなら、どこに罠があるか分かってるはずだ。……やるか、浅香?」
6
柊の言葉は、崖っぷちにいた葵の背中を強力に押し上げた。
(そうだ……逃げちゃダメだ。過去をやり直すってことは、楽な道を選ぶことじゃない。運命の歪みごと、自分の手で引き受けるってことなんだ)
「……やる。私、絵を描く。大賞を取って、奨学金を勝ち取る!」
葵が力強く答えると、柊はフッと口元を緩めた。
「交渉成立だな」
二人が互いの決意を確かめ合った、そのときだった。
美術室のテレビモニター――普段はNHKのニュースが流れている画面が、突如としてノイズを発した。
『――続いてのニュースです。本日午後3時頃、市内在住の高校生・相沢ゆりさんが、階段から転落し意識不明の重体……』
ニュースキャスターが読み上げる名前に、葵も柊も凍りついた。
相沢ゆり。
葵たちの隣のクラスの女子生徒であり、前回の人生では何事もなく普通に高校を卒業し、地元の銀行に就職していたはずの少女だった。
「相沢……? なんであいつが……」
柊が呟いたのと同時に、葵の携帯端末に一通のメールが届いた。
差出人は不明。件名もなく、本文にはたった一行だけが書かれていた。
『運命を変えたのは、あなたたちだけではありません。世界を乱す者を許さない』
画面を見つめる葵の指先が、冷たく震えた。
この街には、葵と柊以外にも「過去を変えた者」が存在する。
そしてその誰かが、二人とは違う目的で、過去の分岐点を操作し始めていた。




