第1話 十七歳の画廊
プロローグ
音のない世界だった。
視界一面に広がる白のなかで、葵の前に置かれていたのは、一台の古い柱時計と、見たこともない二つの鍵だった。
「浅香葵さん」
声の主は、姿のない案内人だった。
「あなたの人生は三十四年で途絶えました。ですが、あなたには特別な権利があります。すべての記憶を消して新しい命に生まれ変わるか。それとも――人生の分岐点に戻り、やり直すか」
葵は息をのんだ。
胸の奥で、長年くすぶり続けていた灰が、パッと小さな火花を散らした。
「戻れるんですか……? あの中に」
頭に浮かんだのは、十七歳の夏。夕暮れの美術室。
描きかけのキャンバスをナイフで切り裂き、絵の具の匂いにまみれて泣いた、あの日のことだ。
「戻れます。ただし」案内人の声はどこか冷ややかだった。「一度変えた運命の針は、二度と元には戻せません。何かを選べば、何かを失う。それが世界の均衡です」
葵は迷わずに、黒い鍵を手にした。
「それでもいい。私、もう一度……選び直したい」
1
油絵の具の匂いがしていた。
独特の、少し鼻を刺すようなツンとした油とペグマタイトの残り香。
浅香葵は、ゆっくりと自分の両手を見つめた。
そこにあるのは、三十四歳で病室のベッドの上で痩せ衰えていた手ではない。関節が柔らかく、皮膚に張りがあり、人差し指の側面にうっすらと鉛筆の粉がこびりついた、十七歳の自分の手だった。
「――葵? どうしたの、ぼーっとして」
頭上から降ってきた声に、ハッと顔を上げた。
西日が差し込む放課後の美術室。目の前に立っていたのは、縁なし眼鏡をかけた美術部顧問の城島先生だった。手には、美大の特別推薦枠の推薦書が握られている。
(戻ってきた……本当に)
心臓が早鐘を打ち、喉の奥がカラカラに乾いた。
前回の人生。三十四歳でがんを患い、息を引き取る直前まで葵を苛み続けたのは、「あのとき、絵を捨てなければどうなっていたか」という後悔だった。
17歳のこの日、葵は実家の小さな町工場の経営が苦しいことを知り、「美大には行かず、確実に就職できる地元の市役所を目指す」と城島に告げたのだ。そして、未完成のキャンバスをナイフで切り裂いた。
だが、白い部屋で黒い鍵を選んだ今、葵の目の前には真っ白なキャンバスと、まだ書き直せる未来が転がっている。
「先生」
葵の声は小さく震えていたが、瞳には確固たる光が宿っていた。
「私……やっぱり、美大の推薦を受けたいです。東京へ行って、絵を描き続けたい」
城島は一瞬驚いたように目を見開いた。それから、眼鏡の奥の目をくしゃりと細め、心から嬉しそうに笑った。
「そうか! よかった……! 正直、君が諦めるんじゃないかとヒヤヒヤしていたんだ。君の色彩感覚は本物だ。絶対に突き抜けることができる」
「ありがとうございます……!」
深く頭を下げた瞬間、視界を覆っていたグレーのモヤが晴れ、世界が一気に鮮やかな色を取り戻した気がした。
過去を変えたのだ。自分は今、後悔のない新しい人生への第一歩を踏み出したのだと、葵の胸は高鳴っていた。
――しかし。
その歓喜を切り裂くように、校舎の奥から激しい音が響き渡った。
2
ドン――、パラララララ……!
それは、狂おしいほど切なく、荒々しいピアノの音色だった。
曲はショパンの『革命のエチュード』。だが、学校の音楽室で弾かれるような丁寧な演奏ではない。鍵盤を叩き割らんばかりの情念と、どこか自暴自棄な痛みが音の粒子となって廊下に溢れ出していた。
(あのピアノ……蓮見くん?)
葵は息をのんだ。
蓮見柊。
同級生で、校内どころかコンクールでも有名な天才ピアニスト。
前回の人生で、彼はまさにこの日の夕方、学校からの帰り道で乗用車にはねられ、右手の神経を損傷したはずだった。ピアニストの夢を絶たれた彼は学校を去り、噂では後に荒んだ生活を送り、若くして表舞台から消えたと聞いていた。
なのに、なぜ今、彼がここでピアノを弾いているのか?
葵は弾かれたように美術室を飛び出した。
夕暮れの校舎の廊下を、ローファーの音を響かせて走る。音楽室のドアが開け放たれ、夕日を浴びた長いカーテンが風に揺れていた。
グランドピアノに向かって背中を丸め、鬼気迫る表情で鍵盤に指を走らせている少年がいた。
汗が夕日を浴びてキラキラと飛散する。
音の波が弾け飛び、最後の重厚な和音が校舎に響き渡って、静寂が訪れた。
肩を激しく上下させながら、少年――柊は鍵盤の上に手を置いたまま動かない。その右手には、包帯も傷跡もなかった。事故など起きていないのだ。
「……蓮見、くん?」
葵が声をかけると、柊の背中が一瞬ピクりと跳ねた。
彼はゆっくりと振り返り、額にかかった髪を乱雑にはらい上げた。
その瞳を見た瞬間、葵は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
それは十七歳の高校生の目ではなかった。何年も暗闇を這いずり回り、世界を呪い、傷つき疲れた「大人」の目だった。
「……浅香?」
柊は葵を見つめ、視線を彼女の手に落とした。油絵の具で汚れた、十七歳の指先。
彼は自嘲気味に口元を歪め、低く掠れた声で呟いた。
「お前も……『あっち』から戻ってきた口か?」
3
音楽室を包む風が、急に冷たく感じられた。
「どうして……蓮見くんも?」
「どうしてって、決まってるだろ」
柊はピアノの椅子から立ち上がり、自分の右手をまじまじと見つめた。
「あの白い部屋で、鍵を受け取ったからだ。『右手が壊れる前のあの日』に戻してくれってな」
柊は今日、いつも使っていた通学路を避け、事故が起きるはずだった交差点を大きく迂回して学校に戻ってきたのだという。事故を回避し、彼の右手は守られた。
「運命なんて、簡単に変えられるんだな」
柊は吐き捨てるように言い、ピアノの蓋をバタンと閉めた。
「これで俺はピアニストになれる。お前だって、絵を続けるんだろ? 成功体験のお買い上げだ。おめでたい話じゃないか」
「蓮見くん……」
だが、柊の表情は少しも晴れやかではなかった。それどころか、どこか怯えているようにも見えた。
「……でもな、浅香。気をつけろよ」
「え?」
「案内人が言ってただろ。『何かを選べば、何かを失う。それが世界の均衡だ』って」
柊はポケットに手を突っ込み、葵の横をすり抜けて廊下へ出ようとした。その足が、入口でピタリと止まる。
「俺が事故に遭わなかったあの交差点……俺を避けようとしたトラックが、どこに突っ込んだと思う?」
葵の心臓がビクッと跳ねた。
「……民家の塀だ。怪我人は出なかったらしいが……風が吹き過ぎたあとの落ち葉の位置が変わるみたいに、俺たちが過去を変えた歪みは、確実にこの街のどこかに溜まっていってる」
柊は振り返らずに、階段の方へと歩き去っていった。
一人残された音楽室で、葵は自分の胸に手を当てた。美大への道を選んだ胸の高鳴りは、いつの間にか不穏な胸騒ぎへと変わっていた。
そのとき、葵のスマートフォンが震えた。
画面を見ると、母親からの着信だった。前回の人生では、この時間に電話がかかってくることなどなかったはずだ。
嫌な予感を抱きながら、葵は通話ボタンを押した。
『――葵? 今、どこにいるの?』
電話の奥で、母の声が震えていた。背景から、パトカーのサイレンの音が聞こえる。
『お父さんの工場の機械が……急に火を噴いてね。工場が……工場が火事になっちゃったのよ……!』
ポロリと、葵の手からスマートフォンがこぼれ落ち、床に乾いた音を立てた。
(私が……美大に行くって決めたから?)
前回の人生で、葵が「公務員になる」と言ったとき、父は安堵して工場の夜間操業をやめ、早期点検に入っていたはずだった。だが、葵が夢を追うと言ったことで、父は学費を稼ごうと、無理な夜間稼働を始めてしまったのだ。
運命の針は、すでに回り始めていた。
何かを得るために過去を変えた代償が、容赦なく葵の身に降りかかろうとしていた。




