第17話 失われた時間
白峰家の居間は、どこか懐かしい匂いがした。
玲奈は座布団へ腰を下ろしながら、ゆっくりと室内を見回す。
家具は変わっていた。
壁紙も変わっている。
テレビは見たこともないほど大きくなっていた。
だが、不思議だった。
知らない部屋のはずなのに、どこか安心する。
ここが自分の家だからだろう。
三十年経っても。
それだけは変わらなかった。
「お茶どうぞ」
母が湯呑みを差し出した。
「ありがとう」
玲奈は受け取る。
両手で包み込むと、じんわりと温かさが伝わってきた。
その温もりが、なぜか胸に沁みた。
「そういえば」
玲奈はテーブルを見て小さく笑った。
「この傷、まだある」
父が覗き込む。
「傷?」
「これ」
玲奈はテーブルの端を指差した。
「中学生の時、彫刻刀で削ったやつ」
父が額を押さえる。
「ああ……」
「覚えてる?」
「覚えてるも何も」
「めちゃくちゃ怒られたもん」
「当たり前や」
父は呆れたように言った。
「高かったんやぞ、そのテーブル」
母が吹き出す。
玲奈も笑った。
たったそれだけの会話だった。
だが、失われた三十年を少しだけ埋めてくれるような会話だった。
しばらくして。
玲奈の視線が仏壇の方へ向く。
そこには自分の写真が飾られていた。
制服姿。
十七歳のまま。
花が供えられている。
線香も置かれていた。
玲奈の表情が曇る。
「……ごめん」
小さく呟く。
母が首を振った。
「謝らないで」
「でも……」
「あなたは悪くない」
母は静かだった。
泣いていない。
だが、その言葉には三十年分の想いが込められていた。
父も頷く。
「警察にも行った」
「テレビにも出た」
「新聞にも載った」
「ビラも配った」
玲奈は黙って聞いている。
「目撃情報があるたびに飛んでいった」
父は苦笑した。
「北海道や」
「九州や」
「沖縄まで行ったこともある」
玲奈は言葉を失った。
母が続ける。
「見つからなかったけどね」
その一言が重かった。
三十年。
父と母もまた、失われた時間を生きていたのだ。
玲奈は俯いた。
涙が落ちそうになる。
その時だった。
「あのぉ……」
ルルミアが小さく手を挙げた。
修二は嫌な予感しかしなかった。
さっきから落ち着きなく鞄を触っていた理由が分かる。
来る。
絶対に来る。
「なんでしょう?」
母が振り向く。
ルルミアはにこりと笑った。
「大変感動的なところ申し訳ないんですけどぉ」
鞄をごそごそ漁る。
そして一冊のパンフレットを取り出した。
修二は頭を抱えた。
始まった。
「ところでですぅ」
ルルミアは営業スマイル全開だった。
「若返りに興味ありませんか?」
居間が静まり返る。
父が固まった。
母も固まった。
玲奈はぽかんとしている。
セラフィナだけが微笑んでいた。
「……若返り?」
母が聞き返す。
「はいですぅ!」
ルルミアは勢いよく頷いた。
「本当に若返るの?」
「若返りますぅ!」
母が少し身を乗り出した。
ルルミアの目が輝く。
食いついた。
営業マンの本能がそう告げていた。
「どれくらい?」
「きっちり三十歳ですぅ!」
母が固まる。
「三十歳……?」
「三十歳ですぅ!」
ルルミアは胸を張った。
「お母さんは七十二歳ですからぁ」
「四十二歳になりますぅ!」
母の目が見開かれる。
「四十二……」
それは玲奈がいなくなった頃の年齢だった。
「あなた!」
母が父を見る。
「聞いた!?」
「聞いた」
「私たちの頃に戻るのよ!?」
「聞いた」
父も少し動揺していた。
「お父さんもですぅ!」
ルルミアは畳み掛ける。
「七十六歳から四十六歳になりますぅ!」
父が黙る。
「皺も消えますぅ!」
父が黙る。
「髪も戻りますぅ!」
父が固まった。
「……本当に?」
修二は思った。
落ちた。
母はすでにパンフレットを覗き込んでいる。
「このシワもなくなるの?」
「なくなりますぅ!」
「白髪も?」
「黒くなりますぅ!」
「腰痛は?」
「改善しますぅ!」
母の目は完全に輝いていた。
ついさっきまで泣いていた人とは思えない。
玲奈が苦笑する。
「お母さん……」
「だって気になるじゃない」
母は真剣だった。
父もパンフレットを見ている。
修二も覗いてみた。
そして値段を見た。
「高っ……」
思わず声が漏れる。
玲奈も目を丸くした。
「そんなにするの?」
「最新技術ですぅ!」
ルルミアは誇らしげだった。
しばらくして。
父と母が顔を見合わせる。
二人とも黙っている。
ルルミアは内心焦り始めた。
いけると思ったのだ。
ここまで反応が良ければ契約間違いなしだと思ったのだ。
だが返事がない。
嫌な予感がする。
そして。
母が静かに首を振った。
「今日はいいわ」
ルルミアが固まる。
「えっ」
「今日は?」
父も頷いた。
「今日はええ」
「あ……でも!」
ルルミアは慌てた。
「分割払いもありますので!」
「初回特典もありますし!」
「紹介割引も!」
珍しく必死だった。
しかし母は微笑む。
「違うのよ」
玲奈の手をそっと握った。
「若返りたくないわけじゃないの」
父も静かに頷く。
「むしろ興味はある」
「あるんかい」
修二が思わず呟く。
だが父は真面目だった。
「でもな」
父は玲奈を見る。
「今日は、この姿でおりたいんや」
玲奈は父を見つめた。
父は照れ臭そうに笑った。
「三十年待ったんや」
「この顔で」
「この身体で」
「この三十年を生きてきた」
母が続ける。
「だから今日は」
「このままでいたいの」
玲奈の目が潤む。
母は優しく笑った。
「この姿で娘と話をしたいの」
居間が静かになった。
ルルミアも黙る。
セラフィナは微笑んでいた。
修二も何も言わない。
玲奈は涙を堪えながら笑った。
「お母さん」
「なに?」
「ありがとう」
母は何も言わなかった。
ただ玲奈の手を握り返した。
ルルミアはしばらくして、そっとパンフレットを鞄へ戻す。
「……また今度ですぅ」
珍しく素直だった。
その日の夜は遅くまで続いた。
三十年間の話。
学校の話。
友達の話。
思い出話。
失われた時間を埋めるように。
家族は語り続けた。
そして帰る時間になった。
修二たちが玄関へ向かう。
「今日はありがとうございました」
修二が頭を下げる。
父も母も深々と頭を下げた。
玲奈も笑顔で見送っている。
その時だった。
「なぁ」
父が小声でルルミアを呼び止めた。
「はい?」
ルルミアが振り返る。
父は周囲をちらりと見回した。
そして。
「……分割って何回までいける?」
ルルミアの目が光った。
「ありますぅ♪」
営業悪魔は、まだ諦めていなかった。




