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第16話 三十年ぶりの帰宅

 眩しい光だった。

 玲奈は思わず目を閉じた。

 身体が浮くような感覚。

 耳鳴り。

 足元が消えるような奇妙な感覚。

 そして次の瞬間。

 足の裏へ硬い感触が伝わった。

 玲奈はゆっくりと目を開く。

 最初に見えたのは空だった。

 どこまでも高く広がる青空。

 白い雲がゆっくりと流れている。

 風が吹いた。

 髪が揺れる。

 木々の葉擦れが聞こえた。

 遠くで蝉が鳴いている。

「……空」

 自然と声が漏れた。

 懐かしかった。

 あまりにも懐かしかった。

 地獄にも空はあった。

 だが違う。

 あれは作られた空だ。

 今、目の前に広がっているのは本物だった。

 本物の風。

 本物の太陽。

 本物の世界。

 玲奈はその場へ膝をつく。

 震える指で地面へ触れた。

 温かい。

 乾いた土の感触。

 指先へ伝わる現実。

 三十年ぶりだった。

「帰ってきた……」

 ぽたり。

 涙が落ちた。

 自分でも気付かないうちに泣いていた。

 止めようと思っても止まらない。

 ただ涙だけが零れていく。

 修二は何も言わなかった。

 ルルミアも。

 セラフィナも。

 誰も急かさない。

 それが当然だと思った。

 三十年。

 たった二文字だ。

 だが人ひとりの人生が変わるには十分すぎる時間だった。

 玲奈はゆっくり立ち上がる。

 涙を拭う。

 そして小さく言った。

「行こう」

 修二が頷いた。

「はい」

「お父さんとお母さんに会いたい」

 その言葉に、誰も異論はなかった。

 タクシーの窓から見える景色は知らないものばかりだった。

 高い建物。

 巨大な看板。

 見たことのない車。

 見たことのない店。

 見たことのない人々。

 まるで外国へ来たようだった。

 だが時折。

 懐かしい景色も見える。

 小さな公園。

 昔通った道。

 子供の頃に遊んだ場所。

 残っているものもあった。

 その度に玲奈は窓へ顔を近付けた。

 変わったもの。

 変わらないもの。

 その両方が胸を締め付ける。

「本当に三十年なんだね……」

 誰に言うでもなく呟く。

 修二は返事をしなかった。

 返せなかった。

 やがてタクシーは住宅街へ入る。

 玲奈の身体が強張った。

 見覚えがあった。

 角の電柱。

 小さな公園。

 昔あった駄菓子屋。

 駄菓子屋は別の建物になっていた。

 けれど場所は同じだった。

「ここ……」

 玲奈の声が震える。

「知ってる」

 タクシーが止まった。

 目の前には二階建ての家があった。

 外壁は新しくなっている。

 門も変わっている。

 だが間違いなかった。

 白峰家だった。

 玲奈は動けなかった。

 目の前にあるのに。

 あと数歩なのに。

 足が動かない。

 三十年。

 失われた時間の重さが急に現実になる。

 修二が静かに声を掛けた。

「先輩」

 玲奈は小さく息を吸う。

 そして歩き出した。

 一歩。

 また一歩。

 玄関へ近付く。

 胸が苦しかった。

 心臓が痛いほど鳴っている。

 インターホンの前で立ち止まる。

 震える指を伸ばした。

 ピンポーン。

 聞き慣れた音だった。

 玲奈は息を呑む。

 返事はない。

 留守だろうか。

 不安がよぎる。

 その時だった。

 家の奥から足音が聞こえた。

 ゆっくり。

 ゆっくり。

 近付いてくる。

 玲奈の鼓動が速くなる。

 そして。

 扉が開いた。

 白髪の女性が立っていた。

 玲奈は息を呑む。

 母だった。

 間違いなく母だった。

 顔立ちは変わっていない。

 優しい目も。

 少し下がった眉も。

 全部覚えていた。

 だが。

 三十年という歳月は確かにそこにあった。

 母は動かなかった。

 玲奈も動けなかった。

 ただ見つめ合う。

 何秒だったのか。

 何十秒だったのか。

 誰にも分からなかった。

 時間だけが止まっていた。

「……お母さん」

 玲奈が呟く。

 母の唇が震えた。

「玲奈……?」

 声も震えている。

「玲奈なの……?」

 玲奈は何度も頷いた。

 言葉が出ない。

 ようやく出た言葉は一つだけだった。

「ただいま」

 母は泣き崩れた。

「玲奈……!」

 次の瞬間には抱き締めていた。

 強く。

 壊れそうなくらい強く。

「玲奈……!」

「玲奈……!」

 三十年分の涙だった。

 玲奈も母を抱き締め返した。

「お母さん」

「ごめんね」

「ごめんね」

 それしか言えなかった。

 家の奥から慌ただしい足音が響く。

「どうした!」

 男の声だった。

 父だった。

 玄関へ現れた父は、その場で立ち尽くした。

 玲奈も父を見る。

 三十年前より少し背中が曲がっていた。

 顔には深い皺が刻まれている。

 そして。

 髪も随分少なくなっていた。

 父の目から涙が零れる。

「玲奈……」

 玲奈は泣きながら笑った。

「お父さん」

 父は何も言えなかった。

 ただ娘を見つめている。

 三十年間。

 探し続けた娘を。

 諦めきれなかった娘を。

 ようやくその目で見ていた。

 玲奈は一歩近付く。

 そして少しだけ首を傾げた。

「お父さん」

「なんや……」

「髪薄くなったね」

 一瞬。

 父はぽかんとした。

 次の瞬間。

 顔をくしゃくしゃにして笑う。

「誰のせいやと思っとるんや!」

 玄関へ笑い声が響いた。

 母は泣きながら笑っていた。

 玲奈も笑っていた。

 三十年という時間は戻らない。

 失われた時間も戻らない。

 それでも。

 今だけは。

 家族が揃っていた。

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