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第15話 失われた三十年

 店内は静まり返っていた。

 誰も言葉を発しない。

 玲奈だけが、スマホを耳へ当てたまま立ち尽くしている。

『もう、三十年よ……』

 母の声が頭の中で繰り返される。

 三十年。

 三十年。

 三十年。

 理解できなかった。

「……冗談だよね」

 玲奈は笑った。

 乾いた笑みだった。

「そんなの、ありえないじゃん」

 電話の向こうから泣き声が聞こえる。

『玲奈……』

「だって」

「三十年だよ?」

「そんなに経つわけないよ」

 誰も口を挟まない。

 修二はただ黙っていた。

 何を言っても届かない気がした。

『玲奈』

 今度は父の声だった。

 低く、落ち着いた声。

 けれど記憶よりも少し掠れていた。

『聞こえるか』

「……お父さん」

『そうや』

 玲奈は唇を噛む。

 聞き慣れた声だった。

 なのに違和感がある。

『お前、小学校の時な』

『公園で捨て犬拾ったやろ』

 玲奈の肩が震えた。

『勝手に連れて帰ってな』

『母さんに怒られて』

『泣きながら犬を抱いとった』

「……」

『ポチ』

 父が言う。

『犬の名前や』

 玲奈は目を閉じた。

 家族しか知らない話だった。

『玲奈』

『会いたい』

 短い言葉だった。

 それだけで十分だった。

 玲奈の目から涙が零れる。

『一度でええ』

『会いたい』

 玲奈は返事ができなかった。

 喉が詰まっていた。

 ようやく絞り出した声は、小さかった。

「……私も」

「会いたい」

 電話の向こうで母が泣いていた。

 父も黙っていた。

 長い沈黙だった。

 だが不思議と嫌な沈黙ではなかった。

 三十年という時間を埋めるには、言葉が足りなかっただけだ。

 やがて通話が終わる。

 玲奈はゆっくりスマホを下ろした。

 視線が床へ落ちる。

「……本当なんだ」

 誰も否定しなかった。

「本当に」

「三十年経ったんだ」

 修二は静かに頷く。

「はい」

 玲奈は椅子へ腰を下ろした。

 しばらく動かなかった。

 笑うことも。

 泣くことも。

 できなかった。

 ただ時間だけが流れていく。

 その沈黙を破ったのはルルミアだった。

「ごめんなさいですぅ!」

 勢いよく頭を下げる。

 そのまま床へ額を押し付けた。

「ルルちゃん!?」

 玲奈が慌てる。

「ごめんなさいですぅ!」

「な、何が?」

「説明不足だった可能性がありますぅ!」

 玲奈は意味が分からず瞬きをした。

 セラフィナが静かに補足する。

「可能性ではありません」

「かなり高い確率です」

「天使ぃ……」

 ルルミアが涙目になる。

「当時の契約記録を確認しました」

 セラフィナは続けた。

「時間流差に関する説明記録が残っていません」

「現在の基準では問題になります」

 玲奈はぽかんとしていた。

「つまり?」

「地獄側にも責任があるということです」

 その時だった。

 ルルミアのスマホが鳴る。

「あっ」

 画面を見た瞬間、顔が引きつった。

「鬼塚部長ですぅ」

 通話を繋ぐ。

『聞こえるか』

 いつもの声だった。

 だが今日は少しだけ真面目だった。

『白峰玲奈』

「はい」

『契約記録は確認した』

 玲奈は黙って聞いている。

『正直に言う』

『当時の担当悪魔がやらかした可能性が高い』

 ルルミアが目を逸らした。

『説明不足』

『重要事項未告知』

『帰還費用後払い』

『今なら全部問題や』

 玲奈は何も言わない。

『すまん』

 鬼塚部長が言った。

『地獄側にも責任がある』

 玲奈は目を見開いた。

 鬼塚部長が謝る姿など想像したこともなかった。

 しばらく沈黙が続く。

 やがて玲奈が口を開いた。

「……でも」

「私、まだ支払い終わってない」

 鬼塚部長が黙る。

「あと七十七か月あるの」

「だから帰っちゃ駄目なんじゃ……」

「それについては心配無用ですぅ!」

 ルルミアが勢いよく顔を上げた。

 玲奈が驚く。

「現在、この案件は法務部へ回されていますぅ」

「監査部も動いていますぅ」

「天使界監査局まで出てきていますぅ」

「かなり大事になっていますぅ」

『大事どころやない』

 鬼塚部長が言う。

『契約そのものが有効かどうか再審査中や』

「再審査?」

『せや』

『せやから今は請求停止や』

 玲奈は首を傾げた。

『簡単に言えば借金は保留中や』

「保留……」

『もっと簡単に言えば』

『下手したら契約そのものが無効になる』

「えっ……?」

 玲奈は目を見開く。

『少なくとも今すぐ払えとは誰も言わん』

『安心して帰れ』

 その言葉を聞いた瞬間。

 玲奈の目から再び涙が溢れた。

「帰れるんだ……」

 小さな声だった。

「お父さんと」

「お母さんに」

「会えるんだ……」

『帰れる』

 鬼塚部長は言った。

『帰還申請は通した』

 玲奈は何度も頷いた。

 泣きながら。

 何度も。

 何度も。

 数十分後。

 一行は帰還ゲート前へ来ていた。

 青白い光が揺れている。

 修二の肩には人間界時間軸固定マント。

 玲奈は緊張した顔で立っていた。

『説明したな』

 鬼塚部長の声が響く。

『マントは一着や』

「はい」

『白峰玲奈の分は無い』

「はい」

『予算が無い』

 修二は思わず天井を見た。

 玲奈も呆れた顔になる。

『せやから接触同期を使う』

「接触同期?」

『修二』

「はい」

『お前がマントで白峰玲奈を包め』

 沈黙。

「……はい」

 玲奈も理解したらしい。

「……え?」

『抱きしめたまま帰れ』

「待ってください」

 修二が言う。

「待ってください」

 今度は玲奈だった。

 二人は思わず顔を見合わせた。

『他に方法は無い』

 鬼塚部長は断言した。

『我慢せえ』

 玲奈は観念したように息を吐いた。

 そして修二を見る。

「……よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 修二はマントを広げた。

 玲奈を包み込む。

 玲奈の身体が少し震えている。

 怖いのだろう。

 三十年後の世界へ帰るのだから。

 修二は何も言わなかった。

 ただ肩を支える。

 帰還ゲートが輝きを増した。

 青白い光が二人を飲み込んでいく。

「お父さん……」

 玲奈が呟く。

「お母さん……」

 光が弾けた。

 二人の姿が消える。

 三十年ぶりの帰宅が、始まろうとしていた。

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