第13話 カフェ・アビス
部室に沈黙が落ちた。
修二は嫌な予感がした。
「……何枚だ?」
『三十七枚』
「多いだろ!」
『少ない方や!』
鬼塚部長が即答した。
『昔は七十四枚やったんやぞ! 半分になっとる! 地獄も働き方改革しとるんや!』
「方向性がおかしい!」
『文句言うなら行かせへんぞ!』
「すみませんでした」
修二は即座に謝った。
ルルミアはすでに涙目で鞄から書類を取り出している。なぜ常備しているのかは分からないが、どうやら地獄営業には紙の申請書がまだかなり残っているらしい。
それから一時間ほど、部室は完全に役所の窓口と化した。
異界通行申請書。
人間同行許可願。
未成年異界立入同意確認書。
異界内飲食自己責任同意書。
地獄観光区限定行動誓約書。
悪魔従業員接触時注意事項確認書。
時間軸固定装備貸与確認書。
時間軸固定装備脱衣禁止誓約書。
接触同期時事故免責同意書。
迷子発生時位置情報利用同意書。
書いても書いても終わらない。
修二は何度も同じ住所と名前を書きながら、途中で魂が抜けそうになった。
「なんで俺の名前、七回も書くんだよ……」
「部署が違うんですぅ……」
「同じ地獄だろ」
「縦割りなんですぅ……」
「嫌なリアリティ出すな」
ルルミアも半泣きで書類を確認している。
セラフィナだけは、文字の乱れを指摘しながら淡々と処理していた。
「ルルミアさん、ここは契約者名ではなく同行者名です」
「あっ、すみませんですぅ!」
「こちらは印鑑欄です。サインではありません」
「地獄も早く完全電子化してほしいですぅ……」
「書類文化は根深いですね♪」
「天使界はどうなんだよ」
修二が聞くと、セラフィナはにこやかに答えた。
「弊社は電子決裁です♪」
「地獄負けてるぞ」
「うぅ……」
ルルミアがなぜか落ち込む。
ようやく最後の書類に押印を終えた時、部室の外はすっかり暗くなり始めていた。
冬の日暮れは早い。
窓の向こうの校庭は青黒く沈み、遠くで部活動を終えた生徒たちの声が小さく聞こえるだけだった。
ルルミアのスマホが震えた。
画面を見るなり、彼女の表情が少し明るくなる。
「許可、下りましたぁ!」
修二は机に突っ伏したまま顔を上げた。
「やっとか」
「はい。臨時異界通行許可、承認済みですぅ」
その直後、部室の床に小さな黒い影が落ちた。
影は音もなく広がり、やがて布の形を取る。
黒いマントだった。
薄く、軽そうで、それでいて内側には見慣れない銀色の文様が走っている。
「これが……」
「人間界時間軸固定マントですぅ」
ルルミアの声が少し硬くなる。
「修二さん専用です」
修二はマントを拾い上げた。
冷たいかと思ったが、布は不思議なほど手になじんだ。
ただの布ではない。
そう思わせる奇妙な重みがある。
「これ、絶対脱ぐなってやつだよな」
「はい」
ルルミアは真剣な顔で頷いた。
「絶対です」
修二はマントを肩に掛けた。
黒い布が肩へ落ちた瞬間、わずかな違和感が身体を走った。
音が遠くなる。
空気が少しだけ重くなる。
時計の針が、自分の身体の奥へ一本通されたような感覚。
うまく言葉にはできない。
だが、何かが固定された。
そんな気がした。
「これで地獄へ行けるんだな」
「行けます」
ルルミアは頷いた。
しかしその顔には、喜びだけではなく緊張も浮かんでいた。
地獄は彼女にとって職場だ。
それでも、人間である修二を連れて行くとなれば話は別なのだろう。
「修二さん」
「ん?」
「本当に行きますか?」
ルルミアの声はいつもより小さかった。
「地獄観光区は安全な方ですけど、それでも人間界とは違います。もし何かあったら……」
「行く」
修二は短く答えた。
迷いはなかった。
いや、正確にはある。
怖くないわけがない。
地獄へ行くなど、普通に考えれば正気ではない。
だが、このまま放っておく方がもっと嫌だった。
三十年前に消えたオカ研の先輩。
白峰玲奈。
会ったこともない相手だ。
それでも、同じ部室にいた人間だ。
同じようにオカルトを好きになり、同じようにこの古い部室を居場所にした人間だ。
その人がまだ帰れるかもしれないのなら、確かめに行く理由としては十分だった。
「オカ研の部長が、オカ研の先輩を放っておくわけにはいかないだろ」
修二がそう言うと、ルルミアは少し目を丸くした。
そして、小さく笑った。
「修二さん、そういうところありますよね」
「どういうところだよ」
「面倒くさそうにしてるのに、結局ちゃんと助けようとするところですぅ」
「うるせぇ」
修二は目を逸らした。
セラフィナが穏やかに微笑む。
「では参りましょうか」
「お前、妙に楽しそうだな」
「地獄側の不適切契約案件を直接確認できる機会は貴重ですので♪」
「監査目線やめろ」
ルルミアは部室の中央へ歩いていった。
以前、修二が悪魔を召喚した場所。
そして三十年前、白峰玲奈が魔導書を試したかもしれない場所。
そこへ立つと、ルルミアはスマホを両手で持ち、画面に表示された許可コードを確認した。
「地獄営業第二部契約課所属、ルルミア」
いつもの頼りない声ではなく、少しだけ仕事の声だった。
「臨時異界通行許可番号、HG二一九八四」
部室の空気が震えた。
冷えた床板の隙間から、赤黒い光がゆっくり滲み出す。
修二は息を呑んだ。
魔法陣が浮かび上がる。
あの日、ルルミアを召喚した時のように。
だが、今回はあの時よりもずっと静かだった。
暴れるような光ではない。
どこか事務的で、整然としている。
まるで改札が開くように。
空間そのものが、別の場所へ接続されていく。
「これが正式ゲートか」
「はい」
ルルミアは頷く。
「マントの固定も確認できています。このまま入れば、地獄時間の影響は受けないはずです」
「はず?」
「たぶん」
「そこは断言しろ」
「善処しますぅ」
「一番信用できない返事だな」
修二は苦笑した。
だが、もう後戻りする気はなかった。
セラフィナが一歩前へ出る。
「私が最後尾につきます。黒崎様はルルミアさんから離れないように」
「分かった」
ルルミアが手を差し出した。
「修二さん、こちらへ」
修二は一瞬迷った。
そして、その手を取る。
小さな手だった。
悪魔の手。
だが、思ったより温かかった。
次の瞬間、魔法陣の光が強くなる。
床が消えたような感覚。
身体がふわりと浮く。
冷たい部室の空気が遠ざかり、代わりに熱を帯びた風が頬を撫でた。
修二は目を閉じた。
耳元で、遠くの雑踏のような音が聞こえる。
人の声。
足音。
機械音。
ベル。
そして、どこかで笑う誰かの声。
やがて足元に固い感触が戻った。
「着きましたぁ」
ルルミアの声がした。
修二はゆっくり目を開けた。
そこに広がっていたのは、修二が想像していた地獄とはまるで違う光景だった。
燃え盛る炎もない。
悲鳴も聞こえない。
血の池も針山も、少なくとも視界にはない。
代わりにあったのは、整備された石畳の通りだった。
道の両側には店が並び、赤黒い街灯が規則正しく灯っている。
空は夕焼けのように暗い橙色で、雲の形だけが妙に不気味だったが、それ以外は驚くほど普通の街に見えた。
通りを行き交う者たちの姿は、人間とは少し違っている。
角の生えた男。
尻尾のある女性。
背中に小さな翼を持つ子ども。
だが彼らは、恐ろしい怪物というより、仕事帰りの会社員や買い物客のように見えた。
信号があり、横断歩道があり、遠くには駅のような建物まで見える。
そして道路脇には、どこかで見たようなコンビニエンスストアの看板があった。
「……本当に地獄か、ここ」
修二は思わず呟いた。
ルルミアは困ったように笑った。
「観光区ですからねぇ。人間向けに整備されてるんです」
「人間向け地獄ってなんだよ」
「昔は地獄巡りツアーがそれなりに人気だったらしいですぅ。今はかなり規制されてますけど」
セラフィナが周囲を見回しながら言う。
「表向きは安全そうですね。ただし、ここが地獄であることに変わりはありません。黒崎様、単独行動は控えてください」
「分かってる」
修二は頷いた。
物珍しさはある。
だが、浮かれる気にはなれなかった。
この場所に、白峰玲奈がいる。
三十年前から、帰る方法も知らずに。
「カフェ・アビスはこっちですぅ」
ルルミアが歩き出した。
修二とセラフィナはその後に続く。
地獄観光区の街並みは奇妙だった。
人間界と似ている。
だが、細部が少しずつ違う。
喫茶店のメニュー看板には『焦げプリン』『血の池ラテ』『硫黄シフォン』と書かれている。
土産物屋には『地獄限定・鬼まんじゅう』『亡者も泣いた激辛せんべい』などが並んでいる。
広場の中央には観光案内板があり、そこには『血の池温泉跡地』『旧針山体験館』『懺悔の鐘』などの文字が見えた。
どれも悪趣味なのに、妙に観光地らしい。
「昔のオカ研部長なら、喜びそうだな」
修二は思わず呟いた。
ルルミアが少し笑う。
「玲奈先輩、最初はすごく楽しそうだったって聞きました」
「やっぱりか」
「本物の地獄を見られたって、メモを取りまくってたそうですぅ。鬼さんに質問したり、観光パンフレット全部集めたり」
「筋金入りだな」
「でも、帰りの料金を見て固まったって」
「そこで現実に戻されたわけか」
笑えるようで笑えない。
好奇心で地獄へ行った少女。
しかし帰り道には高額な請求書。
財布にはおそらく数千円。
魂払いは重すぎる。
そして提示されたのが、住み込みの喫茶店バイト。
まるで悪質な旅行トラブルだ。
ただし、場所が地獄というだけで。
「着きました」
ルルミアが足を止めた。
そこは通りの角にある、こぢんまりとした喫茶店だった。
木製の扉。
少し古びた看板。
窓からは温かそうな明かりが漏れている。
看板には、丸みのある文字でこう書かれていた。
『カフェ・アビス』
修二はその店を見上げた。
ここにいる。
白峰玲奈が。
写真の中で笑っていた、三十年前の少女が。
「入りますか?」
ルルミアが尋ねる。
修二は小さく息を吐いた。
緊張していることに、自分でも気づいた。
知らない相手だ。
けれど、知らないだけでは済まない気がした。
「行こう」
修二は言った。
ルルミアが扉を開ける。
からん、と小さなベルが鳴った。
店内は意外にも落ち着いた雰囲気だった。
木目調の床とテーブル。
暖色の照明。
壁には古い観光ポスターが貼られている。
客席には、角の生えた老人や、背中に羽を持つ若い女性、煙のような体をした何かが座っていたが、誰も騒いではいない。
むしろ、静かな喫茶店だった。
コーヒーの香りがする。
そのことが、修二には妙に不思議だった。
地獄にも、コーヒーの香りはあるのか。
「いらっしゃいませ」
店の奥から声がした。
少女の声だった。
修二の身体が、無意識に強張る。
カウンターの奥から、一人の少女が出てきた。
エプロン姿。
丸い眼鏡。
肩までの髪は内側へ柔らかく巻いている。
頬には薄いそばかすがあり、どこか垢抜けない印象だった。
派手さはない。
むしろ、目立たない。
少し内気で、どんくさそうで、クラスの隅で本を読んでいそうな少女。
しかし修二は、その顔を知っていた。
昨日、写真で見た。
三十年前の集合写真。
オカ研部長。
白峰玲奈。
写真の中では勝気そうに笑っていた少女が、今は少し控えめな店員としてそこに立っていた。
だが顔は同じだった。
三十年前から、一日も年を取っていない。
「あれ?」
少女はルルミアを見ると、少し驚いたように目を丸くした。
「ルルちゃん?」
「玲奈先輩……」
ルルミアの声が震える。
少女――白峰玲奈は、不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの? 今日は研修じゃないの?」
その言葉に、修二は胸を締めつけられた。
玲奈にとっては、ルルミアと最後に会ってからほとんど時間が経っていないのだろう。
いや、そもそも三十年という時間を知らない。
彼女はまだ、自分が少し変わった場所でバイトをしているだけだと思っている。
返済が終われば帰れると思っている。
「そちらのお二人は?」
玲奈は修二とセラフィナを見た。
人懐っこいというより、少しおどおどした笑みだった。
「観光客?」
そして、仕事を思い出したように小さく頭を下げる。
「おすすめは焦げプリンです。見た目はちょっとあれだけど、味は普通に美味しいですよ」
修二は返事ができなかった。
目の前の少女は、普通に働いていた。
普通に笑っていた。
まるでひと月前まで学校にいて、今は少し変わった場所で職業体験をしているだけのように。
その普通さが、かえって残酷だった。
「……白峰先輩」
修二の口から、自然と名前がこぼれた。
玲奈はきょとんとした顔をした。
「え?」
丸い眼鏡の奥で、大きな瞳が揺れる。
「なんで私の名前、知ってるの?」
その声には警戒よりも、不思議そうな響きがあった。
修二は答えられなかった。
何と言えばいい。
三十年前にあなたは行方不明になった。
地上ではもう三十年経っている。
あなたの両親は年を取った。
あなたの学校生活は終わってしまった。
そんなことを、いきなり言えるわけがない。
玲奈はまだ、何も知らない顔でこちらを見ている。
その笑顔は、三十年前の写真と同じだった。
少なくとも修二には、そう見えた。
まるで彼女だけが、あの日から取り残されたままのように。




