第12話 鬼塚部長はハンコを押さない
翌日、放課後。
冬の日差しは弱く、旧校舎の窓から差し込む光もどこか頼りない。
オカルト研究部の部室には静かな空気が流れていた。
机の上には昨日見つかった資料が並べられている。
平成六年度オカルト研究部活動記録。
古びた集合写真。
そして黄ばんだ新聞の切り抜き。
修二はその記事を見つめていた。
そこには擦れた活字で、はっきりとこう書かれている。
――女子高生、謎の失踪。
――旧校舎で最後に目撃か。
記事の日付は一九九四年七月二十二日。
今から三十年前。
修二は記事を静かに机へ戻した。
正直に言えば、白峰玲奈という名前を知っていたわけではない。
修二の世代にとって、それは学校に残る都市伝説の一つだった。
旧校舎で消えたオカ研部長。
夜になると部室から誰かの声が聞こえる。
床には消えない魔法陣の跡が残っている。
そんな、どこの学校にもありそうな怪談話。
興味はあった。
だが本気で信じていたわけではない。
昨日までは。
しかし今は違う。
新聞記事は実在していた。
活動記録も残っていた。
集合写真も見つかった。
そして何より。
ルルミアがその名前を知っていた。
地獄で。
修二は写真へ視線を落とした。
中央で笑っている少女。
白峰玲奈。
三十年前のオカルト研究部部長。
学校では失踪事件として扱われた少女。
だが真実は違う。
彼女は消えたのではない。
地獄へ行ったのだ。
そして現在も帰還できていない。
本人の感覚では、まだひと月ほど前に家を出たつもりのまま。
その事実を思うと、妙なやるせなさが胸に残った。
もし自分だったらどうだろう。
ひと月のつもりで出掛けた先で三十年が過ぎていたら。
家族はどうなっているのか。
友人はどうしているのか。
自分の居場所は残っているのか。
考えただけで恐ろしくなる。
だが白峰玲奈は、その現実をまだ知らない。
「……本当にやるのか」
修二は机に置かれた写真を見つめながら呟いた。
写真の中の白峰玲奈は笑っている。長い時間が経った今でも、その笑顔だけは薄れずに残っていた。
本人は、まだひと月程度しか経っていないと思っている可能性が高い。
だが地上では三十年が過ぎた。
両親は年を取り、同級生たちは大人になり、学校も時代も変わってしまった。
その事実を考えると、修二の胸の奥は重く沈んだ。
「やるしかないですぅ」
ルルミアは緊張した様子でスマホを握りしめていた。
いつものように羽をぱたぱた動かしているが、その動きはどこか落ち着かない。
画面には、地獄営業第二部の連絡先が表示されている。
相手は鬼塚部長。
ルルミアの上司である。
「でも、鬼塚部長、絶対怒りますぅ……」
「いつも怒ってるだろ」
「今日のは種類が違うんですぅ」
ルルミアは涙目になりながら小さく首を振った。
「それに地獄営業第二部は、地獄の一日ごとに、人間界の一年分に相当する契約を毎日処理してますからぁ……」
「ひと月前の案件なんて、もう倉庫の奥に埋まってる可能性もありますぅ」
「だから、鬼塚部長は昨日の書類ですら探したくない人なんですぅ……」
「それを今さら引っ張り出して、人間まで連れて行きたいなんて言ったら……」
「言ったら?」
「たぶん、ものすごく怒られますぅ」
「だろうな」
修二は否定しなかった。
昨日の時点で、すでに鬼塚部長の怒号は部室の窓ガラスを震わせていた。
今日も似たようなことになるのは目に見えている。
一方、セラフィナは落ち着いていた。
机の端に立ち、古い活動記録の写しを整えながら、静かに言う。
「怒られるだけで済むなら安いものです」
「天使の言葉じゃないな、それ」
「三十年前の不適切契約が原因で人間が帰還不能状態にあるのなら、天使界としても看過できません。地獄側が協力しない場合は、正式な監査請求も視野に入ります」
「監査って言葉、強いな」
「便利ですよ♪」
「天使が悪い顔すんな」
セラフィナはにこやかに微笑んだ。
その微笑みはいつも通り美しい。
だが、修二は少しだけ思った。
この天使、敵に回すとかなり面倒くさい。
「では、ルルミアさん」
セラフィナが促す。
「通話を」
「うぅ……」
その時だった。
ルルミアのスマホが震えた。
「あっ」
画面を見た瞬間、ルルミアの顔が引きつる。
「鬼塚部長ですぅ……」
「折り返しか」
昨日。
白峰玲奈の件を報告した直後、鬼塚部長は盛大に怒鳴り散らした。
その後、
『調べるから待っとれ!』
と言い残して一方的に電話を切ったのだ。
そして今。
調査結果が返ってきた。
「出ろ」
「嫌ですぅ……」
「出ろ」
「はいぃ……」
震える指で通話ボタンを押す。
『ルルミアァァァ!!』
「ひぃっ!?」
ルルミアが飛び上がる。
修二は反射的に耳を押さえた。
セラフィナだけは、平然とした顔で立っている。
『昨日の話やけどなァ! お前、何を考えとんねん! ひと月前の契約案件やぞ!? 地獄営業第二部の倉庫何階層あると思っとるんや! 資料探すだけで何時間かかると思っとる!』
『三日前の案件ならともかくやな! ひと月前の案件を今さら持って来るなァ!』
『まぁ、なんとか見つけたけどな』
「す、すみませんですぅ……!」
『しかも人間同行!? 未成年!? 学校の部活!? なんやその地獄観光ごっこは!』
「ご、ごっこじゃないですぅ! 玲奈先輩を――」
『白峰玲奈やろ』
『こっちでも仮照会かけたわ』
『契約番号も確認済みや』
修二は思わず顔を上げた。
本当に調べたのか。
あれだけ文句を言いながらも、鬼塚部長はすでに契約記録の確認を終えていたらしい。
『地獄観光契約、平成六年相当期、人間界日本、契約者白峰玲奈。返済区分、労働返済。現在、カフェ・アビス勤務』
ルルミアの表情が固まった。
修二も息を呑む。
確定した。
白峰玲奈は本当に地獄にいる。
しかも、まだ働いている。
『ただなァ』
鬼塚部長の声が低くなる。
『この案件、面倒くさいぞ』
「面倒くさい、ですか?」
『当たり前や』
『ひと月前の案件やぞ』
『その間に人間界三十年分の契約が積み上がっとるんや』
『契約番号探すだけでも一苦労やったわ』
修二は思わず顔をしかめた。
地獄の時間感覚は、やはり普通ではないらしい。
『しかも帰還手数料の後払いな』
『あれ、正式な制度やない』
「え?」
『当時の担当悪魔が独断で認めた特例扱いや』
『成績欲しさに契約を通したんやろな』
『契約書のどこまで説明したんかも怪しい』
ルルミアが青ざめる。
「そ、それって……」
『下手したら説明不足や』
『もっと下手したら、かなり危ない案件や』
「後払い……」
修二は思わず呟いた。
なんとなく事情が見えてきた。
白峰玲奈は地獄へ行った。
だが、帰る段階で高額な料金を請求された。
払えない。
だから働くことになった。
冗談のような話だ。
だが、本人にとっては冗談ではない。
『ほんで問題は時間流差や』
鬼塚部長は続ける。
『契約書には人間界との時間差について書かれとる』
『せやけど説明した記録が残っとらん』
「説明した記録?」
『重要事項の説明確認や』
『今なら署名も録音も取る』
『けど、その案件は確認記録が残っとらん』
修二は眉をひそめた。
「それ、かなりまずいんじゃないか?」
『まずいから言うとるんや!』
鬼塚部長が吠えた。
『今の規定やったら一発アウトや!』
『契約前説明不足!』
『重要事項未告知!』
『場合によっては不当拘束扱いや!』
ルルミアが青ざめる。
「じゃ、じゃあ玲奈先輩は……」
『ただし、当時の規定でどこまで遡及できるかは別問題や。地獄法務部に投げたら、戻ってくるまで三日はかかる』
「三日……」
修二は一瞬黙った。
地獄の三日。
地上では三年。
考えたくもなかった。
セラフィナが静かに口を開く。
「鬼塚部長」
『なんや、天使』
「天使界としては、本人確認および意思確認を優先すべきだと考えます。契約解除や帰還手続きの判断は、その後でも構いません」
『簡単に言うなや』
「簡単ではありません。だからこそ、今すぐ確認する必要があります」
セラフィナの声は穏やかだった。
だが、その穏やかさには妙な圧があった。
「もし地獄側が現状確認すら拒否する場合、天使界監査局へ正式に照会します。三十年前の未帰還者案件として」
電話の向こうが静かになった。
数秒。
鬼塚部長の深いため息が聞こえた。
『……お前ら天使はほんま、そういうとこ嫌いや』
「ありがとうございます♪」
『褒めてへんわ!』
怒鳴り声が戻った。
だが、先ほどより勢いは弱い。
『しゃあない。本人確認だけや。あくまで確認。勝手に連れ帰るなよ』
「連れ帰れないのか?」
修二が聞いた。
『契約が残っとる以上、手続きがいる。お前ら人間界でも、賃貸契約やらローンやら勝手に破棄できへんやろ』
「地獄観光をローン扱いするな」
『似たようなもんや!』
鬼塚部長は言い切った。
『とにかく、まず本人確認。次に意思確認。本人が帰還を希望するなら、そこで初めて契約解除申請や。分かったな』
「分かった」
『お前に言うとらん! ルルミアに言うとるんや!』
「は、はいぃ!」
ルルミアが背筋を伸ばす。
見えない相手に頭を下げている。
『それと人間同行やから、臨時異界通行許可が必要や。行動範囲は地獄観光区およびカフェ・アビス周辺。滞在可能時間は地獄時間で三時間まで』
「三時間……」
「人間界ではどれくらいですか?」
セラフィナが確認する。
『本来なら一か月半ほどや』
「長すぎるだろ!?」
修二が思わず声を上げた。
『せやから保護装備を使うんや』
「保護装備?」
『人間界時間軸固定マントや』
鬼塚部長は言った。
『必要なんは人間だけや。悪魔と天使にはいらん』
「じゃあ、俺だけか」
『そうや』
『地上で装着した瞬間の時間軸を保持する。着とる間は地獄時間の影響を受けへん』
「そんな便利なものがあるのか」
『便利やない。高い』
鬼塚部長は即答した。
『それに扱いを間違えたら終わりや』
その声だけが、急に真面目になる。
『ええか。マントは地上で装着しろ』
『地獄に入ってから着ても意味がない』
『地上の時間軸を保持した状態で、地獄へ入る必要がある』
修二は息を呑んだ。
ただの移動用装備ではない。
時間そのものに関わる装備なのだと、ようやく理解した。
『それと、絶対脱ぐな』
鬼塚部長は念を押すように言った。
『地獄で一度でも脱いだら、その時点で地獄時間へ固定される』
『以後は地獄の時間流に従うことになる』
「それって……」
『白峰玲奈は、その状態や』
部室の空気が静まった。
『昔の契約やからな。当時は今みたいな保護装備も整ってへんかった』
『説明不足やった可能性も高い』
ルルミアが小さく呟く。
「じゃ、じゃあ玲奈先輩を連れて帰るには……」
『本当なら白峰玲奈用のマントが必要や』
「用意できるんですか?」
『できへん』
即答だった。
「できないのかよ!」
『予算が下りんかった』
「地獄、ケチすぎるだろ」
『うるさいわ! 人間一人分だけでも通っただけありがたいと思え!』
鬼塚部長の声が、また少し荒くなった。
『白峰玲奈を連れ帰る時は、接触同期を使え』
「接触同期?」
『マントの固定領域は、着用者が密着している対象にも短時間だけ共有できる』
修二は眉をひそめた。
嫌な予感がした。
『つまり、白峰玲奈を連れて帰る時は、お前がそいつを離さず抱えておけ』
「抱えて……」
『手ぇ繋ぐ程度やと危ない。途中で離れたら終わりや』
『帰還するまで、絶対に離すな』
修二は黙った。
ルルミアも、セラフィナも、同じように言葉を失っていた。
『分かったか』
「……分かった」
『ほんまに分かっとるんやろな』
鬼塚部長の声はまだ疑わしげだった。
『地獄でマントを脱ぐな』
『白峰玲奈を連れて帰る時は、接触を切るな』
『特にルルミア。お前は絶対に横で余計なことするなよ』
「な、なんで私だけ名指しなんですかぁ!」
『お前やからや!』
鬼塚部長の怒号が響いた。
修二は耳を押さえながら、小さく息を吐いた。
地獄へ行く。
ただそれだけでも十分おかしい。
そのうえ、時間軸を守るマントまで着ることになった。
そして、白峰玲奈を連れ帰る時には、自分が抱き寄せて離さない必要がある。
冗談みたいな話だった。
だが、鬼塚部長の声は冗談ではなかった。
白峰玲奈は、まだ自分が三十年も消えていることを知らない。
そして、そのままでは帰ることさえできない。
『許可は出したる』
鬼塚部長が言った。
『ただし、申請書を書け』
部室に沈黙が落ちた。
修二は嫌な予感がした。
「……何枚だ?」
『三十七枚』
修二は、深く息を吐いた。
地獄へ行く前から、地獄は始まっていた。




