第11話 消えた先輩の手掛かり
旧校舎の冬は、遠慮がなかった。
廊下の隙間風は、まるで建物そのものが冷気を吸って吐いているように、足元からじわじわと体温を奪っていく。窓ガラスは白く曇り、古い木枠は風が吹くたびに小さく軋んだ。
オカルト研究部の部室は、今日も薄暗い。
古びた机。黄ばんだ怪奇雑誌。壁に貼られた色あせたUFO写真。いつの時代のものか分からない心霊スポットの地図。
どれも修二にとっては見慣れた風景だった。
ただし、最近はそこへ二つ、明らかに場違いな存在が加わっていた。
「あと二人ですぅ!」
黒板の前で、ルルミアが妙に張り切った声を上げた。
黒板には、大きく『現在三人』と書かれている。
その横には、なぜか悪魔の角らしき落書きまで添えられていた。
「だからなんでそんな嬉しそうなんだよ」
修二は椅子にもたれながら、制服の袖へ手を引っ込めた。
寒い。
旧校舎の暖房は効いているのかいないのか分からない程度で、部室にいるだけで指先が冷えてくる。
「だってぇ」
ルルミアは胸を張った。
「修二さん、私、セラフィナさん。三人ですよぉ。前は一人だったんですよぉ?」
「それはそうだけどな」
「つまり大幅増員ですぅ!」
「増えた内訳が悪魔と天使って時点で、学校の部活としてはかなりおかしいけどな」
「戸籍はありますぅ!」
ルルミアが得意げに言う。
「そこを自信満々に言われるのが一番怖いんだよ」
修二は頭を抱えた。
ルルミア。
地獄営業第二部契約課の見習い悪魔。
そして現在、なぜかオカルト研究部所属。
さらに同じ部室の窓際では、白銀の髪を揺らしながら、セラフィナが静かに古い怪奇雑誌をめくっていた。
天使界ソリューションズ株式会社、第一救済事業部主任天使。
こちらも現在、なぜかオカルト研究部所属。
少し前まで、この部室には修二しかいなかった。
廃部寸前の、誰も見向きもしない部活。
それが今では、悪魔と天使がいる。
状況だけ見れば、これ以上ないほどオカルト研究部らしい。
ただし、修二が望んでいた形かどうかは別問題だった。
「でも、まだ二人足りないんだよな」
修二は黒板の『現在三人』を見ながら呟いた。
オカ研を正式な部として残すには、最低五人。
ルルミアとセラフィナが加わったことで、ようやく三人になった。
あと二人。
数字だけなら届きそうに見える。
だが実際には、その二人が遠い。
「大丈夫ですぅ!」
ルルミアは自信満々に言った。
「部員集めは私に任せてください!」
「お前、営業成績ゼロだっただろ」
「今は一件ありますぅ!」
「俺だけな」
「大きな一歩ですぅ!」
否定はできなかった。
ルルミアにとって、修二との契約は初めての本契約だった。
オカ研存続支援。
それが契約内容だ。
つまりルルミアは、修二の願いを叶えるために部員集めをする立場にある。
もっとも、その方法に不安しかないのだが。
「まずはですねぇ」
ルルミアは部室をぐるりと見回した。
「部室をもっと魅力的にするべきだと思うんです」
「魅力的?」
「はい。人間は第一印象が大事ですぅ。営業でも、訪問先の玄関でだいたい勝負が決まるって鬼塚部長が言ってました」
「地獄の営業ノウハウ持ち込むな」
「つまり、この部室も整理整頓して、入りやすい雰囲気にするべきです!」
ルルミアはびしっと部室の隅を指差した。
「まずはあのへんから片付けますぅ!」
指差した先には、古い棚があった。
雑誌、ファイル、紙袋、壊れたラジカセ、用途不明の木箱。
長年誰も触っていないせいで、どこまでが備品で、どこからがゴミなのか分からなくなっている。
「やめとけ」
修二は即座に言った。
「え?」
「絶対何か壊すだろ」
「壊しませんぅ!」
「噛んだぞ」
「壊しません!」
ルルミアはむっと頬を膨らませた。
「修二さん、私だって成長してるんですぅ。いつまでもドジっ子だと思わないでください」
「自分で言うな」
「今日はちゃんと片付けます!」
そう言ってルルミアは棚へ向かった。
セラフィナは雑誌から顔を上げる。
「止めなくてよろしいのですか?」
「止めてもやるだろ」
「それはそうですね♪」
「楽しそうに言うな」
修二は諦めて立ち上がった。
どうせ放っておけば余計ひどいことになる。
なら最初から見張っていた方がましだ。
ルルミアは棚の下段に置かれた古いダンボール箱へ手をかけていた。
箱はかなり傷んでいる。
表面は茶色く変色し、角は潰れ、テープも半分剥がれていた。
「これ、何ですかねぇ」
「さあな。俺もちゃんと見たことない」
「開けてみますぅ」
「待て。下から持て。底が抜けそうだ」
「大丈夫ですぅ!」
その瞬間。
べりっ、という嫌な音がした。
「あ」
箱の底が抜けた。
中身が一気に床へ落ちる。
古い紙束、写真、ファイル、ノート、雑誌の切り抜き。
ばさばさと音を立てて、部室の床へ散らばった。
「ほら見ろ!」
「ご、ごめんなさいですぅ!」
「成長はどこ行った」
「いまのは箱が悪いですぅ!」
「箱のせいにするな」
修二はため息をつきながらしゃがみ込んだ。
床へ散らばった資料を拾い集める。
紙は乾ききっていて、指で触るだけで端が少し崩れそうだった。
古いインクの匂い。
埃。
そして、どこか懐かしい紙の匂い。
それは最近のプリントやコピー用紙とは違う、長い時間を吸い込んだ資料の匂いだった。
「これは……」
セラフィナが一枚のファイルを拾い上げた。
表紙には手書きでこう書かれていた。
『平成六年度 オカルト研究部活動記録』
修二は思わず手を止めた。
「平成六年……」
「今から三十年ほど前ですね」
セラフィナが静かに言う。
平成六年。
つまり一九九四年。
修二の頭に、ある記憶が引っかかった。
あの古い魔導書。
その端に書かれていたメモ。
『一九九四年 七月二十一日 試行』
そして学校に残る噂。
三十年ほど前、旧校舎で消えたオカ研の先輩。
「……まさかな」
修二は小さく呟いた。
「どうしました?」
「いや」
修二は首を振る。
まだ結びつけるには早い。
ただの古い活動記録かもしれない。
そう思いながらも、胸の奥が妙にざわついた。
ルルミアは落とした資料を一枚ずつ拾いながら、目を輝かせていた。
「すごいですぅ。昔のオカ研、ちゃんと活動してたんですねぇ」
「今も一応してるだろ」
「カップ焼きそば食べたり、悪魔契約の説明したりですか?」
「それはお前のせいだ」
修二はファイルを開いた。
中には手書きの活動記録が綴じられていた。
『第一回 UFO観測会』
『校庭における念写実験』
『夏季合宿候補地選定』
『心霊スポット現地調査報告』
『スプーン曲げ再現実験』
どれも今では笑われそうな内容だった。
だが記録はかなり丁寧だった。
日時、参加者、場所、結果、考察。
ふざけているようで、どこか真面目だ。
昔のオカ研は、本当にこういうことへ本気で取り組んでいたのだろう。
「……すげぇな」
修二は思わず呟いた。
「どうしました?」
「いや。昔の先輩たち、思ったよりちゃんとやってたんだなって」
自分はどうだろう。
オカ研の部長と言いながら、ただ古い部室に居座っていただけではないか。
都市伝説動画を見て、怪奇雑誌をめくって、廃部の話にため息をつくだけ。
昔の先輩たちの記録は、どこか眩しかった。
その時、ルルミアが一枚の写真を拾い上げた。
「あ、写真ですぅ」
修二は顔を上げる。
ルルミアが持っていたのは、古い集合写真だった。
部室の前だろうか。
旧校舎の壁を背景に、十数人の生徒が並んでいる。
男子も女子もいる。
誰もが楽しそうに笑っていた。
今のオカ研からは想像もできないほど賑やかだった。
「部員、多いな」
「十五人くらいいますね」
セラフィナが写真を覗き込む。
「この頃は本当に人気があったようですね」
「黄金時代か」
修二は写真を受け取った。
その中で、自然と目を引く人物がいた。
中央に立つ女子生徒。
長い黒髪。
少し勝気そうな目。
口元には、自信に満ちた笑みが浮かんでいる。
胸には小さな部長バッジのようなものが見えた。
他の部員たちよりも、どこか堂々としている。
「この人が部長かな」
修二は写真を裏返した。
古い筆跡で文字が書かれている。
『平成六年度 オカルト研究部』
『部長 白峰玲奈』
「白峰玲奈……」
その名前を口にした瞬間だった。
ルルミアの表情が変わった。
「……え?」
かすかな声。
修二は顔を上げる。
「どうした?」
ルルミアは写真を見つめていた。
さっきまでの浮かれた表情が消えている。
大きな瞳が、写真の中央の少女に釘付けになっていた。
「おい。ルルミア?」
「…………」
「知ってるのか?」
ルルミアはすぐには答えなかった。
指先がわずかに震えている。
やがて、彼女は小さく息を呑んだ。
「その人……」
「ん?」
「白峰玲奈さん、ですか?」
「写真の裏にはそう書いてある」
修二は写真をもう一度見る。
白峰玲奈。
三十年前のオカ研部長。
そして、おそらく。
消えた先輩。
「知ってるのか?」
修二がもう一度尋ねる。
ルルミアは迷うように視線を落とした。
いつものようにすぐ慌てたり、誤魔化したりしない。
その沈黙が、逆に不気味だった。
やがて、ルルミアは小さく頷いた。
「知ってますぅ」
部室が静かになった。
外から吹く風が、窓をかすかに鳴らす。
「どこで」
修二の声は、自分でも思ったより低かった。
ルルミアは写真から目を離さない。
そして、言った。
「地獄で」
修二は一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
「……は?」
「地獄ですぅ」
「地獄?」
「はい」
「この人が?」
「はい」
修二は写真を見た。
三十年前の女子高生。
制服姿で笑う、オカ研の部長。
その人物を、目の前の悪魔は地獄で知っていると言った。
「待て。どういうことだよ」
修二は思わず身を乗り出した。
「この人は、三十年前に行方不明になったって噂の先輩だろ。学校の怪談みたいな話で……」
「怪談じゃなかったのかもしれませんね」
セラフィナが静かに言った。
その表情から、いつもの営業スマイルは消えていた。
「黒崎様が見つけた魔導書。そこに残されていた日付は一九九四年七月二十一日でしたね」
「ああ」
「この活動記録も平成六年度。時期は一致します」
修二の背筋に冷たいものが走った。
一九九四年七月二十一日。
試行。
あの時は、ただ古い誰かのメモだと思っていた。
だが、もしその“試行”が本当に行われていたとしたら。
そして、その結果として白峰玲奈が消えたのだとしたら。
「まさか……」
修二は呟いた。
「この人、本当に悪魔を召喚したのか?」
ルルミアは困ったように眉を下げる。
「たぶん、ただの召喚じゃないですぅ」
「どういう意味だ」
「地獄観光契約、だと思います」
「地獄観光?」
修二は眉をひそめた。
「観光って、あの観光か?」
「はい。昔はあったらしいんですぅ。地獄巡りプランとか、血の池温泉見学コースとか、亡者労働現場見学ツアーとか」
「悪趣味すぎるだろ」
「今は規制が厳しくて、ほとんど廃止されてますぅ」
「そりゃそうだろ」
ルルミアは写真を見つめたまま続ける。
「昔はですねぇ、地獄観光も今ほど厳しくなかったんですぅ」
「“本物の地獄を見てみたい!”ってだけで契約できちゃうこともあったみたいで……」
「今だったら絶対無理ですぅ」
修二は頭を抱えた。
いかにも昔のオカ研部長がやりそうだった。
UFO。
超能力。
心霊現象。
そして、本物の地獄。
もし目の前にその機会があれば、飛びつく人間がいてもおかしくない。
「でも、誰か見てなかったのか?」
修二は写真を見る。
「これだけ部員がいたなら、一人くらい部長が地獄に行くところを見ててもおかしくないだろ」
セラフィナが、拾い上げた活動記録をめくった。
「記録を見る限り、その日は夏休み中ですね。活動予定は午後で終了。参加者の解散時刻も書かれています」
「じゃあ、そのあとか」
「おそらく」
セラフィナは静かに続ける。
「白峰玲奈さんは、部員たちを帰したあと、一人で試したのでしょう」
「一人で?」
「成功するとは思っていなかったのかもしれません。あるいは、成功したら皆を驚かせるつもりだったのかもしれませんね」
修二は写真の中の玲奈を見る。
勝気そうな笑顔。
いかにもやりそうだった。
後輩たちには内緒で、こっそり魔導書を試す。
本当に何か起きたら、翌日得意げに話すつもりだったのかもしれない。
『昨日、本物の悪魔を見たのよ』
そんなふうに。
「でも、本当に成功してしまった」
セラフィナの声は静かだった。
「そして、誰も見ていない場所で地獄へ行った」
だから。
誰も知らなかった。
魔法陣に吸い込まれたのでもない。
悪魔にさらわれた場面を見た者もいない。
部員たちからすれば、部長はある日突然、来なくなっただけ。
家にも帰らない。
学校にも来ない。
連絡もない。
やがて警察沙汰になり、行方不明扱いになった。
そして時間が経つにつれ、その事実は噂へ変わる。
旧校舎で消えたオカ研部長。
部室に残された奇妙な円。
夜中に聞こえる、帰りたいという声。
学校の怪談。
そうやって三十年残った。
「……笑えねぇな」
修二は呟いた。
都市伝説や怪談は好きだった。
けれどそれが、本当に誰かの人生だったのなら。
途端に笑い話ではなくなる。
「じゃあ白峰先輩は、自分から地獄へ行ったのか?」
「たぶん」
「なんで帰ってこなかったんだよ」
修二が言うと、ルルミアはさらに気まずそうな顔をした。
「たぶん、料金ですぅ」
「料金?」
「地獄観光は、基本料金と転移費と異界保険と帰還手数料が別で……」
「旅行会社かよ」
「あと当時は燃料調整費もあったらしくてぇ」
「地獄の燃料調整費ってなんだよ」
「詳しくは分からないですけどぉ……」
ルルミアは小さく肩をすくめた。
「たぶん、かなり高額だったと思います」
修二は写真の中の玲奈を見る。
高校生だ。
当然、大金など持っているはずがない。
「でも、金がないからって帰れないのか?」
「当時は魂払いもできました」
セラフィナが淡々と言った。
「ただし、地獄観光程度で魂を対価にするのは、さすがに釣り合いません。現在なら確実に不適切契約として無効になります」
「昔は?」
「かなり怪しいですね」
セラフィナの声は少し硬かった。
「人間界でも昔は契約や労働の扱いが雑だったでしょう。地獄も例外ではありません」
修二は以前ルルミアから聞いた話を思い出した。
昭和の頃、地上もコンプラが緩かった。
地獄も、それに影響されていた。
今なら笑い話のように聞こえるが、その結果として一人の女子高生が帰れなくなったのだとしたら、笑えない。
「……それで?」
修二はルルミアへ向き直る。
「白峰先輩は、どうなったんだ」
ルルミアは少しだけ目を伏せた。
「働いてますぅ」
「働いてる?」
「地獄の喫茶店で」
「喫茶店?」
「はい。カフェ・アビスっていう、地獄観光区にある喫茶店です」
「地獄に喫茶店あるのかよ」
「ありますぅ。結構人気です。焦げたプリンとか、血の池ラテとか」
「飲みたくねぇ」
「見た目だけですぅ。味は普通に甘いです」
「そこは普通なのかよ」
いつもなら突っ込んで終わるところだった。
だが今は、修二の中で別の疑問が膨らんでいた。
「働いてるって、何のために」
「返済ですぅ」
ルルミアは答えた。
「地獄観光料金を払えなかったから、住み込み賄い付きの喫茶店バイトで返してるんだと思います」
修二は言葉を失った。
あまりにも馬鹿馬鹿しい。
だが、馬鹿馬鹿しいからこそ、この世界では妙にありえそうだった。
「……ちなみに、いくらなんだ?」
「総額だと七百八十万円近いらしいですぅ」
「高校生相手の請求額じゃねぇだろ……」
「聞いた話だと、月に十万円くらい返済してるらしいです」
「月十万?」
「完済まで七十八ヶ月くらいって」
「六年半じゃねぇか」
修二は思わず声を上げた。
高校生が、地獄で六年半バイト。
それだけでも十分ひどい。
だが、次の瞬間。
セラフィナが静かに言った。
「問題は、そこではありません」
「え?」
「時間流差です」
修二の動きが止まった。
「地獄と人間界では、時間の流れが異なります」
セラフィナは写真を見下ろす。
「地獄の一日が、人間界のおよそ一年」
その言葉が、冷たい部室に落ちた。
「……待て」
修二は声を絞り出した。
「じゃあ、白峰先輩は」
「本人の感覚では、まだ地獄に行ってからひと月程度かもしれません」
セラフィナが言った。
「少なくとも、地上で三十年が経過しているとは思っていない可能性が高いですね」
「ふざけんなよ……」
修二は思わず呟いた。
怒りなのか、困惑なのか、自分でも分からなかった。
三十年。
白峰玲奈にとっては、たったひと月。
だが地上では、三十年だ。
家族は探したはずだ。
警察も動いたかもしれない。
学校では騒ぎになっただろう。
友人たちは泣いただろう。
両親は、諦めきれないまま年を取ったかもしれない。
それなのに本人は、地獄の喫茶店で働きながら、まだ帰れると思っている。
あと六年半働けば返済できる。
そんなふうに考えているのかもしれない。
「もし」
修二はゆっくり言った。
「そのまま六年半働いたら、地上ではどうなる」
セラフィナは静かに答えた。
「およそ二千三百七十年です」
部室が静まり返った。
誰も言葉を発しない。
二千三百七十年。
それは人間の人生どころではない。
白峰玲奈の知る人間は、一人残らず死んでいる。
両親も。
友人も。
教師も。
この学校さえ存在している保証はない。
「……連れ戻せるのか」
修二は写真を見つめたまま言った。
ルルミアが顔を上げる。
「え?」
「白峰先輩を、地上へ連れ戻せるのかって聞いてる」
ルルミアはすぐには答えなかった。
小さな羽が不安そうに揺れる。
「たぶん……できます」
「本当に?」
「でも、簡単じゃないですぅ。返済契約が残っているなら、地獄側の許可が必要ですし、契約解除か、代理返済か、帰還手続きか……いろいろ必要になると思います」
「役所かよ」
「地獄は意外と書類社会ですぅ」
「知ってるよ、もう」
修二は深く息を吐いた。
冷たい空気が肺に入る。
頭の中では、いくつもの考えが渦巻いていた。
自分には関係ない。
そう言うこともできる。
三十年前の先輩だ。
会ったこともない。
家族でも友人でもない。
ただ、同じ部室にいたというだけの相手だ。
だが。
写真の中の白峰玲奈は、確かにこの部室で笑っていた。
今の修二と同じように、この古い部屋を居場所にしていた。
そして、同じオカ研の部長だった。
「……行くぞ」
修二は言った。
ルルミアが目を丸くする。
「どこへですか?」
「地獄」
「ええっ!?」
ルルミアが声を裏返した。
「だ、だめですぅ! 地獄観光は今、規制が厳しいですし、申請も必要ですし、修二さんは人間ですし、そもそも未成年ですしぃ!」
「じゃあ申請しろ」
「そんな簡単に言わないでくださいよぉ!」
「お前、悪魔だろ」
「見習いですぅ!」
「こういう時だけ見習いに戻るな」
セラフィナが静かに雑誌を閉じた。
「黒崎様の判断は、危険ではあります」
「止めるのか?」
「本来なら止めるべきでしょう」
セラフィナは修二を見た。
いつもの微笑みはない。
「ですが、三十年前の不適切契約が原因で人間が帰還不能状態にあるなら、天使界としても看過できません」
「つまり?」
「同行します」
「来るのかよ」
「監視対象を地獄へ単独で行かせるわけにはいきませんので♪」
「急にいつもの顔に戻るな」
修二は苦笑した。
ルルミアはまだ慌てている。
「で、でもでも、地獄へ行くには転移ゲートを開く必要があって、鬼塚部長の許可も必要で、あと旅費精算の申請も……」
「旅費精算ってなんだよ」
「地獄営業の移動費は自腹だと大変なんですぅ!」
「生々しいな」
「しかも人間同伴となると、異界移動保険も必要でぇ」
「また保険か」
「昔それで白峰先輩が大変なことになったんですぅ!」
「なおさらちゃんとしろ!」
修二の声が部室に響いた。
ルルミアはびくっと肩を震わせる。
そして、しゅんとした顔で俯いた。
「……はい」
修二は少し言い過ぎたかと思った。
だがルルミアは、写真を見ながら小さく言った。
「玲奈先輩には、地獄で少しお世話になりました」
「やっぱり知り合いなんだな」
「はい」
ルルミアは頷いた。
「新人研修でカフェ・アビスへ行った時、私、お皿を何枚も割ってしまって。店長にも怒られて、もう駄目だって泣いてたら……玲奈先輩が、こっそりプリンをくれたんです」
「地獄でプリンか」
「焦げてましたけど、美味しかったですぅ」
ルルミアは少しだけ笑った。
けれど、その笑みはすぐに消える。
「でも私、その時は知りませんでした。玲奈先輩が人間で、地上へ帰れなくなっていたなんて」
部室に沈黙が落ちる。
窓の外で、冷たい風が吹いた。
修二はもう一度、写真を見た。
白峰玲奈。
三十年前のオカ研部長。
地獄の喫茶店で働く、行方不明の先輩。
「じゃあ、迎えに行くしかないだろ」
修二は言った。
「オカ研の先輩なんだから」
ルルミアは目を見開いた。
それから、ゆっくり頷く。
「……はい」
セラフィナも静かに立ち上がった。
「では、まずは地獄側の現状確認ですね」
「どうやるんだ?」
「ルルミアさんが鬼塚部長へ連絡します」
「えっ、私ですかぁ!?」
「あなたの部署案件でしょう」
「怒られますぅ!」
「いつものことだろ」
「修二さんまでひどいですぅ!」
ルルミアは涙目になりながらスマホを取り出した。
画面には、鬼塚部長の名前。
通話ボタンを押す指が震えている。
「うぅ……絶対怒鳴られますぅ……」
「頑張れ、営業」
「ひ、人ごとだと思ってぇ……」
ルルミアは深呼吸した。
そして、通話ボタンを押す。
数秒後。
『ルルミアァァァ!!』
スマホから怒号が炸裂した。
部室の窓ガラスがびりびりと震える。
「ひぃっ!?」
ルルミアが悲鳴を上げる。
修二は耳を押さえた。
セラフィナは涼しい顔で立っている。
古い部室。
冬の冷たい空気。
床に散らばった三十年前の資料。
そして、写真の中で笑う一人の女子生徒。
修二はその写真を机の上へそっと置いた。
白峰玲奈は、三十年前と変わらない笑顔でこちらを見ていた。
まるで、まだ自分が行方不明になったことすら知らないように。
その笑顔を見ながら、修二は小さく息を吐いた。
退屈だった日常は、もうどこにもなかった。
悪魔と契約したせいで、学校生活はめちゃくちゃになった。
天使に監視され、クラスでは変な目で見られ、オカ研は相変わらず廃部寸前。
それでも。
この部室には今、確かにやるべきことがあった。
三十年前に消えた先輩を、迎えに行く。
ただそれだけのことが、なぜか修二には、ひどくオカルト研究部らしく思えた。




