第二十五章:唾と契約書
蛯名からの電話で、ARTEMIS RECORDSからの再契約の申し出を聞いた時、小鳥は、電話の向こうでただ静かに、獰猛に笑っていた。
後日、バンドはいつものマクドナルドで作戦会議を開いた。
「本当に、行くのか? もう関わらない方がいいと思うけど……」
冬馬が不安げに言うと、小鳥はポテトを齧りながら言い放った。
「これは戦争だ。俺たちが、俺たちのやり方で、連中に分からせてやるんだよ。音楽を、舐めるなってな」
蛯名は、その言葉を聞いて、ただ「お前の好きにしろ」とだけ言った。彼は、もう小鳥を止めない。
***
再び、あの無機質なレコード会社の会議室へ。
だが、今回は全てのパワーバランスが逆転していた。ふてぶてしくソファに深く腰掛ける小鳥、その両脇を固めるように立つ冬馬と鈴、そして、その後ろに腕を組んで控える蛯名。彼らの放つオーラは、もはや無名の新人バンドのものではなかった。
A&Rの木村とプロデューサーの中田が、前回とは比べ物にならないほど下手に出て、彼らを迎える。そして、奥の扉から、このレーベルのトップである社長が現れた。
社長は、深々と頭を下げて過去の非礼を詫びると、新しい契約書をテーブルに滑らせた。
「君たちの才能を、我々は正しく評価できていなかった。我々の完全な過ちだ。もう一度、チャンスをくれないだろうか」
契約書には、「インディーズ」ではなく「メジャーデビュー」の文字。巨額の契約金、完全なクリエイティブコントロールの保証、大規模なプロモーション活動。全てが、以前とは桁違いの、破格の条件だった。
小鳥は、その契約書を一瞥もせず、ゆっくりと立ち上がった。
そして、深々と頭を下げる社長の元へと、静かに歩み寄る。
社長が、期待を込めて顔を上げた、その瞬間。
ペッ、と。
生々しい音が、静まり返った会議室に響き渡った。
小鳥は、社長のその顔面に、真正面から唾を吐きかけたのだ。
「ひっ……!」と木村が悲鳴を上げる。中田は激昂して立ち上がった。社長は、何が起こったのか理解できないというように、呆然とその場に固まっている。
会議室がパニックに陥る中、小鳥は、冷たく、静かに言い放った。
「お前らの『商品』になるつもりはねえ」
そして、今にも掴みかかってきそうな中田の方を振り返ると、その耳元で、悪魔のように囁いた。
「俺たちの音楽は、お前らみたいな豚にはもったいねえよ。『分かりやすいフック』、見つかったか?」
冬馬と鈴、そして蛯名も、静かに立ち上がる。
唖然とするレコード会社の人間たちを尻目に、SoundCrowdの四人は、騒然とする会議室を後にした。
***
ビルの外に出ると、真夏の太陽が、彼らを照りつけていた。
誰からともなく、笑い声が漏れた。
最初は、くすくすという小さな笑いだった。だが、やがてそれは、全員に伝染していく。
金も、メジャーデビューという後ろ盾も、全てを自分たちの手で蹴り飛ばした。
だが、彼らは、何物にも縛られない、本当の「自由」を手に入れたのだ。
腹を抱えて笑い転げる四人の姿は、これから始まる、本当の伝説の幕開けにふさわしい、最高の凱旋だった。




