第二十二章:アンダーワールドの洗礼
ライブハウス『The Underworld』の楽屋は、カオスだった。
床には空き瓶が転がり、壁には、ここを通り過ぎていった無数の伝説的なバンドたちのステッカーが、地層のように貼り重ねられている。ビールの匂いと、独特の甘いタバコの匂い。その中で、いくつかの地元バンドのメンバーたちが、大声で談笑しながら出番を待っていた。
その隅で、SoundCrowdの四人は、誰一人として口を開かず、静かに自分の世界に集中していた。その異様な静けさは、周りの喧騒から、まるでそこだけが切り取られたかのように、異彩を放っていた。
やがて、屈強なPAスタッフが、楽屋のドアを乱暴に開けて叫んだ。
「Next up, SoundCloud! ……or whatever. Get ready!」
(次はサウンドクラウド! ……だか知らねえが。準備しろ!)
少しだけ、名前を間違えられた。
その、いかにもな洗礼に、小鳥がふっと、獰猛に笑った。
蛯名が、三人の顔を順番に見る。もう、言葉は必要なかった。
ステージへと続く、薄暗い通路を歩く。
フロアから聞こえてくるのは、自分たちのことを全く知らない、音楽にうるさいロンドンの若者たちの、ざわめきだけだった。
ステージに上がり、楽器を構える。
フロアは、すでに多くの客で埋まっていた。誰もが、腕を組んで、値踏みするような目で、ステージの上の見慣れないアジア人たちを見ている。
完全に、アウェー。
その、凍りつくような緊張感の中、小鳥は静かに目を閉じた。
次の瞬間。
蛯名のスティックが振り下ろされ、空間が爆発した。
一曲目は、『星の輝きのベロシティ』。
蛯名の言う通り、MCなどない。挨拶もない。いきなり叩きつけられた、BPM200超えのブラストビートと、ツインギターの轟音。
フロアのざわめきが、一瞬で沈黙に変わった。
バーカウンターで談笑していた客が、驚いてステージを振り返る。
「なんだ、こいつら……?」
誰もが、その、あまりにも暴力的な音の塊に、度肝を抜かれていた。
間髪入れずに、二曲目『硝子壁のノイズ』へ。
鈴のV-Bassが作り出すSEから始まり、静と動が目まぐるしく入れ替わる、壮大なアンセム。ブリッジで小鳥がデスボイスを轟かせ、冬馬とギターソロバトルを繰り広げると、フロアの前方で、ついに何人かの客が拳を突き上げ始めた。
skepticism(懐疑)は、驚愕へ。そして、興奮へと変わっていく。
残り時間は、あとわずか。
「……ラスト」
小鳥が、マイクで短く呟いた。
激しい曲で畳み掛けると誰もが思った、その時。
響き渡ったのは、冬馬の弾く、あまりにも悲しく美しいアルペジオだった。
三曲目、『砕けた鏡のセレナーデ』。
フロアが、再び静寂に包まれる。
攻撃的なシャウトを叩きつけていたボーカルが、今度は、全てを洗い流すような、透き通るクリーンボイスで、痛切なバラードを歌い上げる。
その、あまりにも極端な振れ幅。
英語で歌われるその歌詞の意味は、彼らにとって、まだ知らない日本のバンドの内面を歌った物語。
だが、そのメロディと、小鳥の歌声に込められた本物の「痛み」は、言語の壁を越えて、ロンドンの観客の胸を、直接締め付けた。
アウトロの、一本のクリーンなギターの音が、静かに消えていく。
曲が終わっても、フロアは、一瞬、完全な静寂に包まれていた。誰もが、今、自分たちが目撃したものに、ただ圧倒されていた。
次の瞬間。
「UOOOOOOOOOHHH!!!」
地鳴りのような歓声と、割れんばかりの拍手が、The Underworldの空間を揺らした。それは、社交辞令の拍手ではない。本物の音楽に出会ってしまった人間の、魂からの咆哮だった。
ステージの上で、四人は互いに視線を交わす。
汗だくで、疲労はピークのはずなのに、誰もが、最高の笑顔を浮かべていた。
彼らは、ただ一礼すると、アンコールの声が響くフロアに背を向け、静かにステージを降りた。
楽屋への通路で、プロモーターのデヴィッドが、興奮した顔で待ち構えていた。
「お前たち……一体、何なんだ!? 信じられない! あれは、聖書的(biblical)だったぞ!」
さっきまでSoundCrowdを無視していた、他のバンドのメンバーたちも、畏敬の念のこもった目で、彼らに道を開けていた。
自分たちの楽屋に戻り、ドアを閉めた瞬間、四人は、同時に床に崩れ落ちた。
外から聞こえてくる、まだ鳴りやまない歓声。
自分たちの音は、通用した。
いや、それ以上の何かを、このロックの聖地に、確かに刻みつけたのだ。
その確信が、四人の胸を、熱く満たしていた。




