第二十一章:霧の都の異邦人
成田空港の出発ロビーは、夏の終わりの気怠い喧騒に満ちていた。
SoundCrowdのメンバーを見送りに来たのは、冬馬の父親、ただ一人だった。
彼は、メンバー一人一人の顔を順番に見ると、最後に蛯名の前に立ち、何も言わずに、深々と頭を下げた。息子を、そして、息子の選んだ未来を託す、という無言のメッセージ。蛯名もまた、真摯な表情で、深く頭を下げ返した。厳格だった母親の姿は、最後までなかった。
鈴の両親は、結局、彼女の渡英を認めなかった。
「勝手にしなさい。その代わり、もう家の敷居は跨がせないから」
母親にそう言い渡された時、彼女は初めて、涙を見せずに「分かりました」とだけ答えた。勘当同然で、彼女は一人、家を飛び出してきたのだ。
初めて乗る飛行機。雲を突き抜け、どこまでも青い空と、眼下に広がるちっぽけな日本の国土。
これから始まる、全く未知の旅。四人は、それぞれの期待と不安を胸に、西へと向かう翼の中で、長い時間を過ごした。
***
ヒースロー空港に降り立った瞬間、日本の夏とは全く違う、ひやりとした湿った空気が、彼らの肌を撫でた。どんよりとした、低い曇り空。飛び交う、聞き慣れないアクセントの英語。全てが、彼らにとって異世界だった。
「Hey, guys! Welcome to London!」
出口で待っていたのは、プロモーターのデヴィッド・ウォルシュだった。人の良さそうな笑顔を浮かべた、少し禿げ上がった、陽気な中年男性だ。
彼らが乗り込んだ、年季の入ったバンが向かったのは、きらびやかな観光地ではなかった。
「ここが、お前たちの城だ。まあ、ボロいが、ロックンロールだろ?」
デヴィッドが案内したのは、ロックの聖地・カムデンタウンの、路地裏にある古くて小さなアパートメントだった。壁には、過去にここに滞在したであろう、世界中の無名なバンドたちの落書きやステッカーが、無数に残されている。
ライブまでの一日、彼らはカムデンの街を散策した。
ゴシックやパンクファッションに身を包んだ若者たち。運河沿いに広がる、混沌としたカムデン・マーケット。立ち並ぶレコード店と、伝説的なライブハウスの数々。街全体が、音楽と、反骨精神の匂いに満ちていた。
小鳥は、水を得た魚のように目を輝かせ、古着屋やレコード店に片っ端から入っていく。冬馬は、そのあまりにも濃密な文化の奔流に圧倒され、ただ歩くだけで精一杯だった。鈴は、俯きながらも、その全てを、五感の全てで吸収していた。まるで、乾いたスポンジが水を吸うかのように。
***
『The Underworld』でのライブ前夜。
アパートの一室で、四人は静かに過ごしていた。窓の外からは、近くのパブから漏れ聞こえる喧騒と、パトカーのサイレンの音が、断続的に響いてくる。
蛯名が、プロとして最後の確認をする。
「いいか、アウェーのライブは、最初の30秒で全てが決まる。英語のMCなんて、いらねえ。俺たちのことを誰も知らない、シビアな客だ。最初の一音で、度肝を抜いて、無理やりこっちを向かせなきゃ、終わりだ」
その言葉に、全員が固唾を呑む。
小鳥は、珍しく真剣な顔で、愛器『スタナー』の弦を、一本一本、丁寧に張り替えていた。
冬馬は、Epiphoneのネックを、何度も、何度もクロスで磨いている。
鈴は、ノートパソコンを開き、自分たちの曲順と、V-Bassのセッティングを、指差ししながら確認していた。
誰もが、口には出さない。
だが、心の中では、途方もないプレッシャーと、武者震いに似た興奮が、嵐のように渦巻いていた。
地球の裏側、ロックの聖地で、自分たちの音は、果たして通用するのか。
その答えは、明日、明らかになる。




