第十七章:渋谷ジャック
沈黙だけが、重くドアを隔てていた。
蛯名の有無を言わさぬ声が響いても、中からの気配は微動だにしない。
冬馬は視線を落とし、諦めを呑み込みかけた。
その瞬間――カチャリ。
古びた鍵が開く小さな音がして、ドアが、わずかに隙間を開いた。
部屋の中は、闇だった。
月明かりが差し込んだ瞬間に見えたのは、床に散乱したコンビニ袋とペットボトル、積もったホコリ、そしてその中心で膝を抱える小鳥。
虚ろな瞳。そこに、かつての傲慢で挑発的なカリスマの影はなかった。
蛯名は言葉を発さず、冬馬と鈴に顎をしゃくる。
二人は黙って部屋に入り、『スタナー』と小さなアンプ、ケーブル類を素早く回収する。
小鳥は抵抗しない。冬馬に腕を引かれ、鈴にパーカーを着せられ、ただ機械のように従った。
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取り壊しが決まったその建物は、ひんやりと湿った空気に包まれていた。
最上階のフロアに足を踏み入れると、割れた窓から夜風が吹き込み、瓦礫をかすかに揺らした。
眼下には、ネオンと車のライトが川のように流れる、眠らない街・渋谷の夜景。
「ここが、俺たちのステージだ」
蛯名がブレーカーを入れると、古びたPAスピーカーがうなりをあげ、埃の匂いが舞い上がる。
「下の交差点まで、この音が届けばいい」
冬馬と鈴は緊張した面持ちで機材を繋ぎ、小鳥はマイクの前に立ったまま、動かない。
「……もう、歌えないんだ」
そのか細い声は、風にかき消されそうに儚かった。
鈴は震える指でノートPCを開き、Live365の画面を映した。
画面には、世界中から寄せられたコメントが途切れなく流れている。
「これが……届いた音です。待ってる人たちの声なんです!」
小鳥は視線を逸らす。だが、鈴はさらに畳みかけた。
「『忘れてくれ』って、言いましたよね」
パァン――!
乾いた音が廃ビルに響いた。
鈴の右手が、小鳥の頬を打っていた。
冬馬と蛯名が息を呑む中、小鳥は呆然と鈴を見た。
鈴の頬を伝う涙は光を反射し、その瞳だけはまっすぐだった。
「二度と……そんなこと言わないでください!」
沈黙。
小鳥は頬の痛みに手を当て、そして――ふっと、口元に昔のような不敵な笑みを浮かべた。
「……やるか」
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蛯名がスティックを掲げる。
「ワン、ツー、スリー!」
爆音が始まった。
一曲目――『硝子壁のノイズ』。
廃ビルの最上階から放たれたその轟音は、夜空を震わせ、スクランブル交差点にいる無数の人々の足を止めた。
「なんだ……あの音は?」
「上から聞こえるぞ!」
通行人が一斉に空を仰ぐ。
二曲目――『砕けた鏡のセレナーデ』。
美しい旋律が夜風に乗り、ネオンと喧騒の街を包む。カップルが立ち止まり、タクシー運転手が窓を開けて耳を傾ける。
そして、ラスト。
「いくぞ、てめえら!」
小鳥の叫びを合図に、三曲目『星の輝きのベロシティ』。嵐のようなブラストビートが炸裂し、四人の復活を告げる。
ビルの下では、どこからともなく人が集まり、拳を突き上げて熱狂した。
「誰だよ、あれ!」
街のざわめきが一つの叫びに変わる。
その最高潮の瞬間――遠くからパトカーのサイレンが響いた。
赤と青の光が路地を駆け抜けてくる。
四人は視線を交わし、同時にニヤリと笑う。
警察がビルに踏み込む直前、裏口から渋谷の雑踏へと消えていった。
その夜。
街の片隅でささやかれた噂が、やがて伝説となって広がっていく。
――渋谷をジャックした、正体不明のバンドの話が。




