第十六章:君が戻ってくるまで
SoundCrowdが、その短い活動を止めてから、季節が一つ変わろうとしていた。
熱狂も、絶望も、全てが過去になりつつある。四つの音は完全に引き裂かれ、それぞれの日常という名の静寂の中に沈んでいた。
冬馬は、机に向かい、参考書を開いていた。だが、その目は文字を追ってはいない。窓の外の、灰色と青が混じった空を、ただぼんやりと眺めている。
何度、小鳥の携帯に電話をかけただろうか。何度、留守電にメッセージを残しただろうか。返信は、一度もない。
時々、どうしようもなく衝動に駆られて、部屋の隅に立てかけてあるEpiphoneのハードケースに手を伸ばす。だが、その冷たい感触に、レコーディングスタジオでの小鳥の絶叫と、自分の無力さがフラッシュバックし、いつも手を引っ込めてしまう。
鈴も、同じだった。
彼女は、再び自室という名の殻に閉じこもっていた。PCのモニターだけが、世界との唯一の繋がり。PostPetのメールボックスには、小鳥に送った、いくつもの未読の励ましのメールが溜まっている。
『元気ですか』
『新しい詞ができました』
『また、みんなで音を鳴らしたいです』
その全てが、デジタルの海に虚しく漂うだけだった。
ある日、冬馬は意を決して鈴を誘い、久しぶりにスタジオへ入った。
小鳥も、蛯名もいない。二人だけのリハーサル。
「……合わせてみようか」
冬馬が小さく呟き、ギターを構える。
鈴はおずおずとベースを抱え、エフェクターのスイッチを入れた。
だが、いざ音を鳴らすと、そこには穴があった。
リフは空回りし、リズムは薄く、何より「声」がなかった。
スタジオの壁に反響するのは、足りない音の隙間ばかり。
「……全然ダメだな」
冬馬は苦笑したが、その笑みはすぐに苦悩へと歪んだ。
鈴もまた、目を伏せ、弦を弾く指先を止めた。
「……やっぱり、小鳥さんがいないと」
小さく漏らした鈴の言葉に、冬馬は答えられなかった。
「……どうすれば、あいつは戻ってくるんだろうな」
冬馬は柏の駅前で、深夜のアルバイトに向かう途中の蛯名を捕まえた。
「蛯名さん…… 蛯名さんなら、何か……」
だが、蛯名は、以前の落ち着きを失い、疲弊しきった顔で首を横に振った。
「……もう、俺にはできることは何もないんだ」
その、諦めに満ちた声は、冬馬の最後の希望を打ち砕いた。
蛯名は深夜のアルバイトを終え、自宅近くの路地をとぼとぼと歩いていた。
街灯の下で足を止め、煙草に火を点ける。
「……あいつらに、俺は何ができるんだ」
声に出した途端、胸が重くなった。
プロの世界を知る自分だからこそ見える、閉塞感。
だが、同時に、若い三人がまだ燃え尽きていないことも、痛いほどに分かっていた。
蛯名は額を押さえ、長い溜め息をついた。
夜風が煙を散らしていく。
その中で、彼の瞳にはかすかな決意の色が宿り始めていた。
鈴は諦めていなかった。
その日も、彼女は小鳥に、励ましのメールを送っていた。
すると、数ヶ月ぶりに、小鳥から返信があった。
鈴の心臓が、希望に高鳴る。しかし、メールを開いた瞬間、その希望は粉々に砕け散った。
本文には、たった一言だけが書かれていた。
『もう、俺のことは忘れてくれ』
その、あまりにも冷たい拒絶の言葉に、鈴は一人、部屋で泣き崩れた。
しかし、涙が枯れ果てた後。彼女の心に残ったのは、絶望ではなかった。
静かで、どうしようもなく熱い、怒りにも似た感情だった。
(……忘れられるわけ、ない)
小鳥を直接救うことはできないかもしれない。
でも、彼が「君しかいないよ」と言ってくれた、自分たちの「音楽」を、このまま消させることだけは、絶対にしない。
鈴は、決意した。
彼女は、インターネットラジオ『Live365』のアカウントを使い、これまでに録りためていたSoundCrowdのデモ音源を、一つ、また一つと、世界に向けてアップロードし始めた。
そして、今の自分の、そして小鳥への痛切な想いを込めた、全く新しい歌詞を書き上げた。
『これが、私の最後の我儘です』
その一文を添えて、彼女は小鳥に、その歌詞を送信した。
真っ暗な部屋で、小鳥は、埃をかぶった携帯電話の液晶が光るのを見ていた。
鈴から届いた、新しい歌詞。
その、あまりにも痛切で、あまりにもまっすぐな言葉の羅列に、彼の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
だが、罪悪感に心を蝕まれた彼は、ただ呟くことしかできない。
「……もう、歌えないんだ」
同じ頃。
蛯名は、渋谷の雑居ビルが立ち並ぶ、薄暗い路地裏にいた。
「……マジかよ、蛯名。ゲリラライブだなんて、お前もまだ若いな」
目の前に立つのは、取り壊しが決まっている廃ビルのオーナーである、彼の旧友だった。
「悪いな。警察が来たら、知らねえやつらが勝手に侵入したってことにしてくれ」
蛯名は、そう言って頭を下げると、友人から錆びついたビルの鍵を、半ば強引に受け取った。
数日後、
再び二人きりで練習を続けていた冬馬と鈴のもとに、突然スタジオの扉が開いた。
「……よぉ」
立っていたのは蛯名だった。
以前よりも痩せた顔だが、瞳だけは鋭く光っていた。
手には、一枚の折り畳まれた地図が握られている。
「準備しろ」
低く短い一言に、冬馬と鈴は息を呑んだ。
「……何の準備ですか」
冬馬が問うと、蛯名は薄く笑った。
「決まってんだろ。ライブだよ」
その瞬間、空気が変わった。
二人の胸の奥で、消えかけていた火が再び燃え始めるのを感じていた。
冬馬の案内で、三人は、固く閉ざされた小鳥の部屋のドアの前に立っていた。
ガン、ガン、ガン!
蛯名が、ドアを乱暴に叩く。中からの反応はない。
だが、彼は構わずに、ドアの向こうにいるはずの、壊れてしまった天才に向かって告げた。
「しょうがないやつだな。開けろ、小鳥」
「……」
「いつまで、そこで腐ってやがる」
「……」
「―――これからライブをするぞ」
その声は、静かに、だが、有無を言わさぬ力強さで、沈黙の部屋に響き渡った。




