第69章 『残された時間』
麗華の視点
駄目だった。どうにも調子が悪い。もうこの時点では、ただ家に帰りたくて仕方がなかった。その思いは次第に強まり、いつしか神経性の癖にまでなっていた。仕事の問題に取り組んでいないとき、少しでも時間が空いたとき、ほんの一瞬、気が緩んだときでさえ、気づけばヒールの先で床を小刻みに叩いていた。左足は、脚を組んでいるときでさえ、意志に反して細かく震え続けていた。
仕事と、この止めようのない震え。いったいどちらに疲れさせられているのか、自分でも分からなかった。もう限界が近いことだけは分かっていた。精神的には、今にも爆発しそうだった。
一見すると意外に思えるかもしれないが、出張というものは、普段の仕事以上に疲れることが多い。時差による睡眠への影響、いつまでも終わらない長時間の会議、昼夜を問わず対応を求められる状況。そうしたものが次々と積み重なっていく。おまけに、想定外の交通渋滞による遅延、疲労の蓄積による体調不良、タクシーを乗り継ぐ慌ただしさ、そしてホテルの冷たい無機質さまでついてくる。
これほど忙しければ、仕事以外のことを考える余裕なんてなくなる。そう思う人もいるだろう。けれど、私の場合はまるで逆だった。ふと手が空いたときも、タクシーで移動しているときも、ホテルの部屋に重苦しい静寂が満ちているときも、気がつけば意識は決まって同じ場所へと戻っていた。
目が覚めるのが嫌だった。眠りにつくのも嫌だった。考えることさえ嫌になっていた。
『いつになったら家に帰れるの? いつになったら、次の会議の段取りを夢うつつで考えながら何度も目を覚ますことなく、六時間続けて眠れるの?』
そして、何よりも。
『いつになったら海斗さんに会いに行けるの?』
結局、私をここまで追い詰めているのは海斗さんのことだった。今、彼の容体がどうなっているのか、まったく分からない。だからこそ、そばにいたかった。
はあ……。頭の中は、もうめちゃくちゃだった。それに、いろいろなことが重なったせいで、せっかくやめたはずの煙草にまで手を出すようになっていた。今日もそうして、灰皿を一つ吸い殻でいっぱいにしたところだった。
「煙草はやめるって約束したのに」
いっぱいになった灰皿に最後の吸い殻を押しつけながら、私はつぶやいた。
「ええ、何度も約束してきたわよ」
しばらく、ぼんやりと座っていた。視線は部屋の中をさまよっていたものの、何かに意識を向けていたわけではない。ホテルの一室にある、ちょっとしたリビングスペース。隅には観葉植物が一鉢。向かい合うように置かれた二脚のソファ。そのうちの一つに私は座っていて、二脚の間には低いテーブルがある。そして、その向こうには……はあ、もういい。さっきも言ったとおり、興味を引くものなんて何もなかった。私にとっては、部屋が空っぽだったとしても大して変わらなかっただろう。
やがて、視線はいっぱいになった灰皿へと戻った。思わず小さく笑ってしまう。もう片方のポケットを探り、新品の煙草の箱を取り出した。
「でも、やめられないのよね」
そう言って、また一本くわえ、火をつけた。
煙をしばらく口の中にとどめた。ところが、いざ吐き出そうとした瞬間、思いがけず咳き込んでしまった。苦々しく顔をしかめる。指の間で煙をくゆらせる煙草を見つめていた私は、とうとう堪えきれなくなった。
「ああ、もう! やってられないわ!」
煙草を灰皿に放り込み、唇を舐めてからソファの背もたれに体を預けた。左足がまた震え始める。ヒールの先が床を叩き、カチ、カチ、と神経に障る音を立てた。
舌打ちをした。首筋を手でこすり、ふいに爪を立てると、力任せに掻きむしった。
「いったいいつになったら、この忌々しい出張は終わるのよ……」
もう我慢できなかった。立ち上がり、顔でも洗おうと浴室へ向かいかけた。いっそ、ゆっくり湯船に浸かったほうがいいかもしれない。けれど、二歩ほど進んだところで、部屋のドアがカチャリと音を立てた。続いて、よく知る声が聞こえてきた。
「麗華さん、麗華さん。何か食べてもらおうと思って、買ってきたわよ。ほら、まだ温かいうちに」
飛鳥だった。両手に白い袋を二つ提げ、すぐに小さなリビングスペースへと姿を現した。
「軽いものだから、きっと体にもいいわ。ね?」
飛鳥はそのまま私の向かい側にあるソファへ向かい、袋をテーブルに置いた。そして私を見ると、一瞬、動きを止めた。
「ねえ、麗華。何かあったの?」
そのときまで、私は立ったまま、微動だにせず飛鳥を見つめていた。
「何でもないわ」
慌ててそう答えた。
「ちょっとお風呂に入ろうと思っただけよ」
私は再びソファに腰を下ろした。飛鳥はうなずくと、スープの容器を開け、スプーンを取り出し、そのうちの一つを私の前に置いた。
「ありがとう」
ほとんど反射的に礼を言った。
「私も一緒に食べるわね。いいでしょう? ほら、とにかく食べて。少しでもいいから」
私は返事をせず、スプーンを手に取った。飛鳥が自分のスープに息を吹きかけて冷ましていたとき、不意にその手が止まった。
「麗華さん」
「何?」
飛鳥は、まるで何かいいことでもあったかのように、ぱっと顔を輝かせた。
「今日はね、いい知らせが二つあるの。一つじゃなくて、二つよ! それもね……あっ、いや、駄目ね。先に食べましょう。食べてから話すわ。とってもいい知らせなんだから」
スープを一口飲んだ。熱かった。私はスプーンを脇に置き、スマートフォンを取り出すと、ぼんやりしたまま画面を指で叩き始めた。
「はあ……もう、麗華ったら。あなたがそんな調子だと、こっちまでつらくなるわ」
飛鳥も食べるのをやめ、悲しそうな顔で私を見ていた。
「そんな調子って、どういう意味よ?」
そう尋ねると、飛鳥は立ち上がり、テーブルを回って私の隣に腰を下ろした。
「ねえ、本当にそこまであの子が心配なら、どうして会社の人に頼んで様子を見に行ってもらわないの?」
思わず笑いそうになった。
「会社の人に行かせる? 冗談でしょう。私がそんなこともしていないと思っているの? とっくに会社の人間をクリニックに行かせたわよ! でも、面会を断られたの。三回も行かせたのに、全部駄目だった!」
その一言をきっかけに、私は周囲のことなど気にも留めず、堰を切ったように話し始めていた。
「それにね、何が一番腹立たしいと思う? 海斗のお兄さんの、あの優一って男に電話したときのことよ。あいつ、藤村家としてはこの件をできるだけ内密にしておきたい、なんて言い訳したの」
私は首を横に振った。
「家族以外の人間には海斗に会わせられない、従業員であっても駄目だって。とんでもない男よ、まったく」
何よりもつらいのは、海斗の容体について、何一つ情報が得られないことだった。そのことが、私をどうしようもなく苛立たせていた。
「私があの子の責任を負う立場じゃないとでも言うの?」
身を乗り出して飛鳥に訴えた。飛鳥は何も言わず、黙って私の話を聞いていた。
「そばにいたいのよ。たとえ、あの子が回復しなかったとしても……自分のためにも、心の平穏のためにも、そばにいたい。ただクリニックに行って、あの子のそばにいたい。それだけなのよ」
海斗のそばにいない限り、彼の容体について何も分からない。回復しているのか。それとも悪化しているのか。目を覚ますという希望は、もう潰えてしまったのか。何一つ分からなかった。
私は鼻で笑うように、ふっと息を吐いた。
「私が得られる情報は、優一からのものだけ。でも、もうあいつの言うことなんて信じられない。というより、あいつから知らせが届くこと自体、腹立たしいのよ。それに、いつも同じことばかり。『海斗はまだ昏睡状態です』『回復の兆しはありません』『今日も変化はありませんでした』……。優一の目の前に立って、私の信頼を裏切ったことを平手打ちで思い知らせてやりたいわ。本当にやってやる。あいつは、私を遠ざけておけば自分が有利になると思ったのよ。甘いわね……」
あのろくでもない男は、海斗の親権を私に渡すと約束しておきながら、それを果たさなかった。私は再びテーブルに目を向け、灰皿を見つめた。
「はあ……。身動きが取れないのよ。あそこに戻らない限り、海斗の親権は私のものにならない」
二人の間に重苦しい沈黙が落ちた。やがて飛鳥が、慎重に言葉を選ぶように、小さな声で尋ねてきた。
「本当に……海斗くんをあのクリニックから連れ出すことはできないの?」
私は手のひらでテーブルを叩いた。
「ほかにどうしろっていうのよ? そんな簡単な話じゃないの。両親が私を止めていなければ、とっくに何かしていたわ。きっと最初からね。私が本気で藤村家のことなんか気にしていると思う? いいえ、私にしてみれば、あんな連中、叩き潰してやりたいくらいよ。でも、そう簡単にはいかない。向こうだって黒田家と同じくらいの力を持っているんだから」
そこで初めて、自分が大声を出しすぎていたことに気づいた。私はこめかみを揉んだ。
「ごめん、飛鳥。今は疲れすぎているみたい。少し寝るわ。さっきはあんな態度を取ってごめんなさい」
立ち上がろうとしたところで、飛鳥に腕をつかまれた。
「私こそごめんね、親友なのに」
その表情から、彼女が何かにひどく心を痛めていることが伝わってきた。何のことか分からず、私の顔に困惑が浮かぶと、飛鳥は続けた。
「口を出すべきじゃないって分かっているの。でも、あなたがそんなふうになっているのを、もう見ていられなかった」
「何があったの? 何か問題でも起こした?」
「違うの……いや、そうじゃなくて……」
飛鳥は床に目を落とした。
「さっきも言ったでしょう。余計な口出しはしたくなかった。でも……」
「飛鳥」
ようやく私の腕を離した飛鳥は、スマートフォンを取り出し、画面をこちらに向けた。
「私……勝手に人をクリニックに送り込んだの。本当にごめんなさい」
疲れ切った目が、飛鳥の差し出した画面に焦点を合わせるまで、少し時間がかかった。
「これは……」
「ええ。クリニックの中に人を入れて、海斗くんの実際の様子を写真に撮ってきてもらったの」
その言葉を理解するより早く、私の手は動いていた。飛鳥からスマートフォンをひったくる。
そう、海斗の写真だった。今の彼の姿。そこに写っていたのは……最後に会いに行ったときの海斗と、まったく変わらない姿だった。
私は勢いよく身を起こし、次の写真に切り替えた。腕にはいくつもの管がつながれていた。次の写真、そのまた次の写真へと目を走らせる。全部で四枚しかなかった。
「少なすぎるわ……」
最初の写真に戻った。包帯も、穏やかに眠っているような姿も、あのときのままだった。写真を見る限り、容体に改善はない。けれど、一つだけ確かめられたことがあった。自分の目で、海斗がまだ生きていることを、今もそこにいることを確認できたのだ。
安堵の息をつこうとした。けれど、そのとき、何かが引っかかった。最後の写真に切り替える。顔を近くから撮ったものだった。もちろん、顔立ちのすべてが見えるわけではない。頭は包帯で覆われ、顎と口元の一部しか露出していなかった。
「麗華さん、どうしたの?」
飛鳥がそばに寄ってきて、私と一緒に画面をのぞき込んだ。
「海斗くん、ずいぶんひどい状態みたいね……」
飛鳥のつぶやきには答えなかった。もう一度、最初の写真に戻る。全身のほぼすべてが写っている写真だった。
何かが……何だろう。何かが違う気がした。私は首を横に振った。
『いや、きっと私の気のせいよ』
何かがおかしかった。
「ねえ、麗華。本当に何かあったの?」
「分からない」
私は正直に答えた。本当に分からなかった。自分でも、なぜ違和感を覚えるのか理解できなかった。
「私、海斗のことは知っているのよ。一緒にいた時間は短かったけれど、それでも知っている。まあ、少しだけどね」
飛鳥に目を向けた。
「でも、この写真に写っているのが海斗だって、どうしても思えないの」
飛鳥は危うく吹き出しそうになった。
「そんなわけないでしょう? 海斗くん本人に決まっているじゃない。そんなの、おかしいわよ」
どうして、こんな気持ちになるのだろう。本当に、絶望のあまり頭がおかしくなってしまったのかもしれない。まあ、無理もないだろう。海斗の面倒を見ているはずの優一を、私はもうまったく信用していなかった。それに、彼が入院しているクリニックだって、最初から疑っていたのだ。
頭がおかしいと言われても構わない。けれど、これだけは確かめたかった。
不信感に突き動かされ、私は決断した。スマートフォンを飛鳥に返し、落ち着き払った声で告げた。
「私、帰るわ。日本に戻る」
「え……?」
飛鳥は愕然とした。けれど、私はその反応を気に留めなかった。スマートフォンを返すと立ち上がり、自分の寝室へ向かった。
「ちょ、ちょっと待って、麗華! お願い、待って!」
飛鳥が駆け寄ってきて、私の腕をつかんだ。
「麗華、何をするつもりなの?」
私は平静なまま、彼女を見た。
「飛鳥、あなたはここに残って、あとの出張を引き継いでちょうだい。私の体調が悪くなったとか、病気になって帰国せざるを得なくなったとか、適当に説明しておいて」
飛鳥は私の腕を離さなかった。それどころか、今度は両手でしっかりとつかみ、必死に首を横に振った。
「麗華さん、そんなことできるわけないでしょう! 取引先やお客様に対して、あまりにも失礼よ。どう受け取られるか分かっているでしょう? 今後の仕事にも響くわ」
「構わないわ」
私はきっぱりと言い切った。
「もう、そんなことはどうでもいいの」
腕を振りほどこうとしたが、飛鳥は決して手を緩めなかった。
「麗華さん……」
彼女は首を振った。
「駄目よ、麗華。お願いだから、そんなことしないで。お母様がどう反応するか分かっているでしょう? 状況がもっと悪くなるわ。それに、私一人で残りの出張をどうにかするなんて無理よ。何をすればいいのかも分からないわ」
「あなたに任せられないなら、それでもいい。私の決断で起きたことは、すべて私が責任を取る」
「麗華、麗華、よく考えて。お母様を敵に回すことになるのよ。藤村家と争うつもりなら、お母様の力が必要になる。あなた自身、よく分かっているでしょう?」
今度は、思わず笑ってしまった。本当に、おかしくて仕方がなかった。
「そうかしら?」
私は皮肉っぽい声で言った。
「麗華ぁ……!」
飛鳥は今にも泣き出しそうだった。
さすがに胸が痛んだ。けれど、それでも私は止まらなかった。
「じゃあ、ユナは?」
飛鳥が最後の望みをかけるように尋ねた。
「あなたがこんなことをしたら、ユナはどうなるの? あなたの娘はどうなってしまうのよ?」
私は動きを止めた。呼吸が乱れた。
「ユナを巻き込まないで」
かすれた声で、ほとんど力なく言った。
もう一分だけ考えた。そして……。
「こんなこと、もっと早くにするべきだったのよ」
私は力任せに腕を引き、飛鳥の手を振りほどいた。
「黒田家や藤村家のことなんて、私が気にすると思う? もう、どっちだっていいのよ。両方が私を敵に回すというなら、好きにすればいい。たとえ私が潰されることになっても、その前にあいつらを道連れにしてやるわ。飛鳥……私にそれができないと思っているの?」
そのまま寝室へ向かった。私たちは一か所に長く滞在することがないため、いつもスーツケースの中身を出さずにいた。それが、今はありがたかった。寝室に行き、荷物を持ち、タクシーを呼ぶ。到着まで十〜十五分ほどだろう。それから空港へ向かい、飛行機に乗る。翌朝には、もう日本に戻っていられるはずだった。途中で乗り継ぎが必要になるものの、その日の午前十一時ごろにはクリニックに着ける。
まずは海斗に会う。自分の目で、彼の状態を確かめる。そこで一時間ほど過ごしてから、両親のもとへ向かい、こちら側についてくれるよう迫るつもりだった。藤村家と対峙するなら、味方が必要だ。両親に何を譲ることになろうと構わない。けれど……。
「待って! まだあるの! まだ、あなたに伝えていないことがあるのよ!」
飛鳥が走ってきて、両腕を広げ、寝室の入り口を塞いだ。
「飛鳥……」
さすがに、本気で腹が立ち始めていた。飛鳥は私の様子にぎょっとした。
「ま、待って、待って! ここにあるのよ。今朝、予定を確認していたら、あることに気づいたの」
そう言って手帳を見せ、慌てて説明を始めた。
「私が悪いの。本来なら、スケジュール管理をしている私が気づいて、あなたに伝えるべきだった。でも、あなたがあんな状態なのを見ていたら心配で、すっかり見落としてしまっていたの。ほら、ここ、ここを見て!」
飛鳥は手帳のページを開いた。
「最後の会議は、あと二日後なのよ」
「え? 最後の会議が二日後?」
「そう、そうなの! 私がちゃんと確認していなかったせいで、伝え忘れていたの。本当にごめんなさい。あなたはほかのことで手いっぱいで、こんな予定まで把握する余裕なんてなかったでしょう? でも、最後の会議は二日後なの。つまり、出張はあと二日で終わるのよ! これが、あなたに伝えたかった二つ目のいい知らせだったの」
飛鳥は頭を抱えた。
「もう、私ったら馬鹿! もったいぶって話そうとしたせいで、かえって台無しにしちゃったじゃない!」
さっきスマートフォンをひったくったときと同じように、今度は飛鳥の手帳を取り上げた。そこには、こう書かれていた。
最終会議:木曜日、午後二時。場所は……。午後七時、夕食会の予定……。
ページをめくった。ほかには何も書かれていなかった。
「本当に、この出張は木曜日に終わるの? 飛鳥、あなた……」
「ええ。私がちゃんと伝えておくべきだった。本当にごめんなさい。スケジュールを管理しているのは私なのに、あなたに伝えられなかった。あなたはそれどころじゃなかったものね」
飛鳥は深々と頭を下げた。
「本当にごめんなさい……。あと二日だけ。あと二日で日本に帰れるのよ」
私は驚きに目を見開いた。一瞬、何も言えなかった。飛鳥の言葉が、まるで遠くから聞こえてきたかのように、ゆっくりと頭の中に染み込んでいった。
『あと二日……?』
少しずつ、体から力が抜けていくのを感じた。まず肩が緩み、それから顎の力が抜けた。自分でも気づかないうちに、ずっと歯を食いしばっていたらしい。
「麗華……」
沈黙。私は答えなかった。
「麗華、大丈夫?」
一秒、二秒……。その知らせが何を意味するのか理解するまで、いったい何秒かかったのだろう。分からない。けれど、ようやく我に返ったとき、私は笑っていた。本当に、心から笑っていた。
「飛鳥……」
「うん、麗華。何? どうしたの?」
ああ、なんて嬉しかったのだろう。ほんの一瞬、心の底から安堵した。ずっと背負い続けてきた重い荷物をようやく下ろし、その重みから解放された体で、久しぶりに息をするような感覚だった。
そして、ほとんど無意識のうちに飛鳥へ一歩近づき、その頬に両手を添えた。
「えっ……!」
当然、飛鳥は驚いた。けれど、私は手を離さなかった。彼女の目を見つめ、思っていた以上に柔らかな声で、心からの感謝を込めて言った。
「あなたがどれだけ嬉しい知らせをくれたか、分かっている? 本当に大好きよ、飛鳥」
そのまま彼女を抱きしめた。飛鳥の頬が熱くなっていくのが分かった。体全体がこわばっていた。ようやく腕を解いて離れると、彼女は何かを言おうとするように唇を動かしていた。けれど、言葉にならないらしい。口ごもったまま、固まっていた。
それでも、そのときの私は安堵でいっぱいで、そんなことを気に留める余裕もなかった。
ふらふらとソファまで歩いていき、どさりと腰を下ろした。両手で顔を覆い、ゆっくりと、言葉を引き延ばすようにつぶやいた。
「……よかった……」
あと二日。それだけ耐えれば、すべてが終わる。
「本当によかった……」
「より多くの方に届けるため、★5で応援していただけると嬉しいです!星が増えるほど、更新ペースを上げてたくさん執筆します!」




