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第68章 『麗華さんが待っている』


海斗の視点


目を覚まして、いつものような気だるさとは違う感情が湧き上がっていることに気づき、僕は驚いた。胸が弾んでいたのだ。最近はそんなこともなかったから、ここ数日のようにいつまでも眠っていたいとは思わなかった。


その感情は、肌で感じられるほどはっきりしていた。あの青年を探しに行きたい。少し話をして、退屈な日々から抜け出したい。まるで子供みたいだ。


今すぐにでも行きたかった。たとえ、まだ日が昇っていなくても。はあ、しかし、運命とは残酷なものだ。病室を出るには、決められた時間まで待たなければならない。何しろ僕は患者だし、かなり厳しく行動を管理されている。


待ち遠しさと期待が重なって、一分一秒が永遠のように感じられた。例えば、目を覚ましてから午前六時になるまでの一時間半は、途方もなく長かった。その時間になってようやく、夜勤の看護師が病室の扉を開け、僕を起こして朝の身支度を手伝ってくれた。


その後、午前七時に朝食が届くまでの一時間も、じれったくて仕方がなかった。しかも、今日の果物はパイナップルだった。はあ、あの忌々しいパイナップルだ。それでも僕は急いで食べた。これが失敗だった。午前八時のリハビリまで、さらに四十五分も待たされることになったのだから。


リハビリ自体は十分ほどで終わったものの、僕にはひどく気が滅入る、実りのない時間に思えた。


そう、本当に実りがなかった。なぜかって? 十分や十五分のストレッチが、特別長いわけでも、過酷なわけでもない。それは分かっている。ただ、僕の脚はすっかり回復していて、もう疲れずに歩けるほどだった。そう考えると、たったそれだけの時間さえ無駄に感じられたのだ。正直なところ、朝のリハビリなんてなくなっても、何の問題もないと思う。僕にはもう治療すべきところなんてない。少なくとも、あのリハビリで改善できるようなものは残っていなかった。


部分的な難聴や視力の問題といった後遺症は、これ以上よくなることはないだろう。それに、脚はもう大丈夫だ。


では、記憶はどうなのか。まあ、こればかりは時間に任せるしかない。取り戻すまでに数週間、あるいは数か月かかるのかもしれない。無理に思い出そうとすれば、かえって難しくなるだけだ。


記憶といえば、昨夜もまた、いつもの夢を見た。そして、新しい光景が一つ浮かび上がった。


思い出したのだ。……母さんは美人だった。


とんでもなく綺麗な人だった。黒い髪に白い肌。なのに、なぜか顔だけは相変わらず思い出せなかった。そもそも、顔を思い浮かべることすらできないのに、どうしてあんなに美人だったと確信できるのだろう。


まあ、それはひとまず置いておこう。


ようやく自由になれたのは、午前九時近くになってからだった。つまり、それからの三時間は、誰も僕の病室に来ないということだ。優一が見舞いに来た場合は別で、そのときは自由時間が二時間に減ってしまう。


普段なら、その時間を利用してもう一眠りするか、病院の裏手にある公園を何周か歩いて過ごしていた。正直、どちらも大して面白くはない。


だが、行動を起こすなら今しかなかった。


枕の裏に手を差し込み、少し探ってから、柔らかいキャンディーを二つ取り出した。ポケットにしまい、立ち上がってロッキングチェアへ向かう。二段目の引き出しを開けると、丁寧に四つ折りにされた小さな紙切れを取り出した。


「よし、確認しよう……」


紙に書かれた電話番号を確かめ、スマートフォンに入力する。連絡先には『会社員風の男』という名前で登録し、LINEにも追加した。


なぜ昨日のうちに登録しなかったのか、不思議に思う人もいるかもしれない。理由は簡単だ。怒られたからである。


そう。公園で許可された時間を過ぎても戻らず、病室に帰ってきたとき、大輝さんが待ち構えていたのだ。彼はひどく不機嫌そうな顔で、食事の時間はきちんと守ること、回復したいなら自分でも努力すること、それから、ええと、ほかにもあれこれと言ってきた。


本気で怒っているように見えたが、正直、僕自身に腹を立てているわけではない気がした。賭けてもいい。優一と交わした会話が関係しているのだろう。


ともかく、お説教のせいで食事は冷めてしまったし、僕も疲れ果てていた。だから、あの件は翌日に回すことにしたのだ。


そんなわけで、僕は田中さんに最初のメッセージを送った。


『おはようございます、田中さん。僕のこと、覚えていますか? 昨日、クリニックの裏手にある公園でお話しした海斗です』


送信してから、じっと返信を待った。二分ほど経ったところで、田中さんから返事が届いた。


『おはようございます、海斗さん。今は仕事中で、すぐに返信するのは難しいんです。ご理解いただけると助かります。何かありましたか?』


まあ、当然だろう。僕のような怠け者と違って、普通の人は水曜日の午前九時半ともなれば、いろいろとやることがあるのだ。


あまり迷惑をかけるわけにもいかない。少し雑談でもしようかと思っていたが、その考えは取り下げた。


「それに、僕だってそんなに時間があるわけじゃないしな」


そう呟きながら、僕は次のメッセージを打ち始めた。

午前十一時までに済ませたいなら、いつまでも時間を無駄にしているわけにはいかない。そう分かっていたので、僕は次のメッセージを送った。


『分かりました。ひとつだけお聞きしたいことがあります。記憶違いがないか確認したいので、藤村という方が何階の何号室にいるのか、もう一度教えていただけませんか?』


……まあ、正直に言えば、そんなことを尋ねたのは、単純にその情報をすっかり忘れてしまっていたからだ。僕だって人間なのだから、会話の細部まで何もかも覚えていられる超人ではない。というか、昨日、田中さんと話した内容だって、半分も覚えていないと断言できる。


それでも、田中さんはなぜそんな情報が必要なのか、尋ねてこなかった。二、三分ほど間を置いてから、頼んだ情報を送ってくれた。


『三階の二〇七号室です……』


返信の間隔が空いているのは、仕事で忙しいからだろう。そう考えた僕は、それ以上、田中さんに連絡するのをやめた。


扉に向かう前に、あの部屋までの道順を頭の中で組み立てる。


まず、自分の病室を出て右に曲がり、そのまま突き当たりまで直進する。そこに階段の扉がある。エレベーターは使えない。誰かに見つかる危険があるからだ。それから……。


まあ、あとは想像がつくだろう。


僕は軽い足取りで歩き始めた。心なしか、足取りまで弾んでいる。


『最悪、何が起こるっていうんだ?』


そんなことを考えながら進んだ。


『見つかったら怒られる。それは間違いない。でも、大輝さんにはいつも怒られているし、今さらたいして気にもならない』


とはいえ、念のため用心はしておきたかった。我ながら矛盾していると思う。


最初に通ったのは、僕の病棟にある脇の廊下だった。そこを抜けると、今度はもっと広い廊下に出た。消毒液と温め直した食事の匂いが漂っている……とはいえ、よく考えれば、このクリニック全体がだいたいそんな匂いなのだけれど。


道中、看護師が二人、額の生え際がかなり後退した医師が一人、そして今にも倒れそうなほど痩せた看護師が一人、僕とすれ違った。


どの人とも以前に顔を合わせたことがあったせいか、特に気に留められることもなかった。


そのまま数十メートルほど進み、左に曲がったところで、僕は足を止めた。


最初の難関だ。中央のナースステーション。


そこには四人の職員がいた。男が三人に、女が一人。テレビの音に気を取られている男が二人いて、女性はスマートフォンに夢中だった。


彼らの前を通り抜けるわけにはいかない。僕は左側へと身を滑らせ、冷たい壁に背中を押しつけた。消火器収納スペースが作る影を利用しながら、脇の廊下へと入り込む。非常階段の扉までは、あと数メートルだった。


幸い、周囲に人影はなかった。それでも、すぐには扉を開けなかった。近づいてみたり、少し離れてみたり、最後にはまた近づいてみたり……。自分でもなぜそんなことをしているのか分からないまま、わざとらしく間の抜けた振る舞いを続けた。


三度目の確認でも誰もいないことが分かると、僕はゆっくりとパニックバーを押し込んだ。金属音が鳴らないよう、一定の力をかけ続ける。


幸い、音はしなかった。扉も全開にはせず、僕が通れるだけの隙間を作った。


ところが、頭を少し突っ込んだ瞬間……。


「……っ!」


僕は悲鳴を飲み込んだ。


非常階段は無人ではなかった。中には二人、人がいた。それも……。


『キスしてる!?』


ほとんど反射的に扉を閉めた。とはいえ、勢い余って大きな音を立てるほどの失態は犯さなかった。


僕は動揺していた。


見間違いではない。確かに二人の人間が、互いを抱きしめながら、あんなことをしていたのだ。


……クリニックの中で!


僕はハッとして首を振った。


「いや、いやいや……」


そんな馬鹿な話があるものか。そう結論づけた僕は、自分が見間違えたのだと証明するため、ポケットから眼鏡ケースを取り出し、眼鏡をかけた。

それまでよりも警戒を緩め、僕はもう一度、扉の隙間から中を覗き込んだ。


「これは……」


いや、見間違いではなかった。中には確かに二人いた。女と男だ。女性は白衣を着ていたが、ひどく着崩れていて、肩をかろうじて覆っているだけだった。袖も腕を伝ってずり落ちかけている。間違いなく女医だろう。彼女は背中を壁に押しつけ、わずかに首を傾けていた。その前で、青い制服を着た男が身を屈めている。服装からして、看護師だと思われた。


男の唇は女性の首筋に押し当てられていた。ゆっくりと首筋をたどりながら、時折、噛みつくようなキスをする。そのたびに彼女の体が小さく震えた。目は半ば閉じられ、呼吸も乱れている。片手は男の白衣を掴み、もう片方の手は壁についていた。男が再び首筋に顔を埋めるたび、彼女の指が布地をいっそう強く握りしめる。


男はほんの少し顔を上げ、彼女の耳元で何かを囁いた。言葉までは聞き取れなかったが、彼女が唇をきゅっと結び、顔を横に背けるのが見えた。そのせいで、意図せず首筋がさらに露わになっていた。


僕は目を見開いたまま、身動き一つ取れなかった。


どう見ても、診察とは何の関係もなさそうだった。いや、これはさすがに悪趣味な冗談だろう。


僕は……僕は、完全に固まっていた。恐ろしいと思う一方で、妙に興味を惹かれてもいた。


責めないでほしい。こんな場所で、こんな光景に出くわすなんて、想像すらしたことがなかったのだから。


女性が顔を横に向けた。その隙に、男が片手を彼女の服の下へ滑り込ませた。


『お、おい! その手、どこに持っていくつもりだ!?』


これ以上のことは語らないでおこう。そもそも、今日ここに来た目的とは何の関係もないのだから。ただ、気になる人のために一つだけ言っておくと、男が女性のズボンを下ろし、彼女の前に膝をついて、その脚の間に顔を埋めたところで、僕は立ち去ることにした。


『か、勘弁してくれ! なんでそこで頭を突っ込むんだ!?』


耳まで真っ赤になりながら、僕はその場にそぐわないほど慎重に扉を閉めた。こんなときくらい、もう少し乱暴に閉めてもよかったのに。


鼻から短く息を吐く。まるで心底憤慨しているかのように。


そして踵を返すと、もう何も気にせず、大きな足音を立てながら病室へ戻り始めた。来た道をそのまま引き返したが、中央のナースステーションにいた人たちに見られても、もはやどうでもよかった。


『まったく、いい加減にしてくれ! 何なんだ、あの人たちは!? よりにもよって、こんな場所で……あんなことをするなんて!』


歩いている途中、僕は突然しゃがみ込み、真っ赤になった顔を両手で覆った。


気持ちを落ち着けるまで、しばらくかかった。幸い、そのとき廊下には誰もいなかった。


ようやく冷静さを取り戻すと、僕は再び立ち上がった。


『いや、行かなきゃ。田中さんと約束したんだ。僕は約束したんだから』


それに、田中さんは今日ここに来る。もし行かなかったら、どんな顔をして彼と会えばいいのだろう。


『もう、ほかに方法はない』


そうして僕は、今度こそ覚悟を決め、二度目の挑戦に乗り出した。


非常階段が使えないとなると、残された手段はエレベーターしかなかった。


そもそも、僕がエレベーターを避けていたのは、こんなところをうろついている姿を誰かに見られたくなかったからだ。それに、もし中に誰かいたら、何と言えばいい? 僕は患者なのだ。明らかに自分の病室がない上の階へ、突然上がろうとするなんて、どう考えても不自然だった。


それでも、ほかに選択肢はない。誰もいないことを祈るしかなかった。


だが、運は味方してくれなかった。


遠くからでも、エレベーターの前に見覚えのある女性が立っているのが分かった。朝のリハビリを担当している看護師の一人だった。


僕は脇道の角に身を潜め、彼女が立ち去るのを待った。


ところが、彼女は一向に動こうとしなかった。手にクリップボードを持ち、壁にもたれたまま立っている。眼鏡のおかげで、彼女がクリップボードを盾にしてスマートフォンを隠し、その画面を指で滑らせているのがはっきり見えた。


『スマホを見る以外にやることはないのか!?』


それでも、僕はまだ諦めなかった。


やがてエレベーターの扉が開き、空の皿を載せたワゴンを押す看護師が現れた。ところが、彼女はその看護師に目もくれず、相変わらずスマートフォンを見つめていた。ワゴンを押してきた看護師も、特に何も言わなかった。


『もしかして……みんな、暇なときはスマホばかり見ているのか? それに、誰かに見られたらどうするんだ?』


僕は天井を見上げた。幸い、カメラの数はそれほど多くない。自分のいる場所は、計算上、死角になっているはずだった。


『待てよ……』


そのとき、ふと思いついた。


『そうか! あの看護師も、カメラの死角にいるから、あそこに立っているんだ!』


エレベーターを監視するカメラの角度を観察した結果、どうやら僕の推測は当たっているらしかった。


ただ、彼女があとどれくらいそこに居座るのかまでは分からなかった。


時間が経つにつれて、僕は焦り始めた。何しろ、いつまでも待っていられるわけではない。


スマートフォンを確認すると、時刻は午前十時。自由時間が終わるまで、あと一時間しかなかった。看護師は立ち去る気配すら見せない。それどころか、片足からもう片方の足へと体重を移したかと思うと、とうとう全身を壁に預けてしまった。


そのとき、別の看護師が食事用のワゴンを押しながら僕の横を通り過ぎた。近づいてくる気配にはまったく気づかなかった。おそらく、難聴のせいだろう。気づいたときには、もうすぐ背後という距離まで迫っていた。


僕は硬直した。


彼女は一瞬だけ僕を見て、軽く頷いた。それ以上、何も言わなかった。そしてワゴンからトレーを一つ取り、左手にある病室へ向かった。中に入ったものの、扉は開けたままだった。


おそらく、あの病室の患者に食事を運んでいるのだろう。


僕はワゴンに目を向けた。まだ何枚ものトレーが残っていた。


少し考えた。


試してみたところで、失うものはあるだろうか?


そう。皆が想像しているとおりのことをした。


僕は配膳ワゴンの中に潜り込んだのだ。


もちろん、映画に出てくるようなワゴンとは違う。上に都合よく毛布が掛けられていて、その下に人が隠れられる便利な空間があるわけではない。


これは金属製だった。ぴかぴかと光る、純然たる金属の塊だ。内部の収納スペースは、むしろ小さな物置といったほうが近い。開口部は一つしかなく、広さも旅行用のスーツケースより少し大きい程度だった。


それでも、僕は無理やり中に入り込んだ。


どうにか体を収めようと、膝を胸に引き寄せ、横向きに身をねじる。膝が金属の壁にぶつかり、思わず漏れそうになった呻き声を飲み込んだ。狭すぎて、背筋を伸ばすことすらできない。おまけに、金属が冷たかった。


一瞬、本当に僕は正気を失ったのではないかと思った。


いったい、いつからこんなことになったのだろう。廊下の角に隠れていたはずが、どうして配膳ワゴンの中に潜り込む羽目になったのか。もし誰かがこのままワゴンを厨房まで運んでしまったら、僕はどうすればいい?


僕は頭を振った。


もう、後戻りするには遅すぎた。


慎重にトレーを少しずつずらし、頭の上に空間を作った。それから、一番大きなトレーを持ち上げ、収納スペースの縁にしっかり乗るよう、ほかのトレーの上に重ねた。きちんとした蓋というわけではないが、これなら中の様子をかなり隠せるはずだ。


僕はさらに体を縮め、膝を抱えて息を潜めた。


よし。これで準備完了だ。


あとは、余計な乗客がいることに気づかれず、誰かがワゴンを押してくれるのを待つだけ。


……神様。もし無事にここから出られたら、もう二度と歩くのが面倒だなんて文句は言いません。


あとは、あの看護師がエレベーターに向かってくれることを祈るしかなかった。もちろん、その可能性は考えていた。だが、彼女が一階の病室にトレーを配って回るだけという可能性だってある。


とはいえ、ほかにどうしようもなかった。


不意に、看護師が――おそらく彼女だろう――ワゴンを押し始めたのを感じた。最初は一メートルも進まなかった。次に動きが止まったかと思うと、金属部分を思いきり蹴りつけ、再び押し始めた。


幸い、僕はどうにか呻き声を漏らさずに済んだ。中に人が入っている金属製の箱を蹴るなんて、痛いどころか恐ろしいにもほどがある。


ワゴンが進み、止まり、また動き出しては止まる。今度はしばらくの間、動きがなかった。それから、ようやく再び進み始めた。


何が起きているのか、僕には分からなかった。周囲は真っ暗で、聞こえるのは金属製の車輪が軋む音だけだった。


ワゴンが再び止まり、そのまま長い間動かなくなるまで、僕はじっとしていた。


今だ。


看護師が別の病室に入って、トレーを届けていることを祈りながら、僕は細心の注意を払って外へ出た。こんな恥ずかしい姿を誰かに見つかったときのために、頭の中ではすでに言い訳を考え始めていたことは否定しない。ただ、僕にとって何がより恐ろしかったのかは、自分でも分からなかった。大目玉を食らうことか、それとも、あんな小さなワゴンから這い出てくる姿を誰かに見られることか。


やった! 運が味方してくれた!


看護師の姿はなかった。患者が開いた扉からこちらを見ている可能性すら確かめず、僕はその場から逃げ出した。まるで犯罪現場から逃走する犯人のように。走りはしなかったものの、足を引きずるようにしながら、拳を握りしめて大急ぎで進んだ。振り返りもしなかった。


最初に見つけた脇の廊下へ飛び込む。


息を整えるまで、数秒かかった。


『もう二度と、こんなことはしない』


さて……。


『ここは何階だ? まさか、まだ一階じゃないだろうな?』


近くの扉に歩み寄った。脇に取りつけられたプレートには、199と書かれていた。


僕は拳を握りしめた。


ついに三階までたどり着いたのだ。あれだけ苦労した末に……。


「もしかして、今日は僕のツイてる日なのか?」


もう迷っている暇はなかった。いい加減、決着をつけなければ。藤村という人物を見つけて、何が起きているのかを確かめる。それに、こんな場所からは一刻も早く立ち去りたかった。


最初は、ちょっとした冒険ができると思って胸を躍らせていた。だが、あれだけ肝を冷やす出来事が続いたせいで、そんな気持ちはすっかり消え失せていた。今はただ病室に戻り、何事もなかったかのように振る舞いたかった。


僕は小刻みに歩きながら廊下を進んだ。病室は廊下の両側に並んでいる。左側には201、203、205……。偶数の部屋は右側だ。


途中、清潔なシーツを山積みにしたリネンワゴンが、廊下の一部を塞いでいた。ちょうどそのとき、204号室から看護師が薬のトレーを持って出てきて、廊下の奥へと反対方向に歩いていったので、僕はワゴンの陰にしゃがみ込んだ。


ゴム製のサンダルが立てる音が、角を曲がって聞こえなくなるまで待つ。それから、息を殺したまま素早く立ち上がり、淡い木目調の扉に取りつけられた青いプラスチック製のプレートの前で足を止めた。


207。


『やっと着いた!』


僕の馬鹿げた冒険も、ようやく終わりだ。


僕はためらうことなく中へ入った。その瞬間の興奮にすっかり気を取られ、部屋の中に誰かがいる可能性すら考えなかった。


そして、真っ先に目に飛び込んできたのは……。


「へえ、君が藤村さんか」


ベッドの中央に、一人の少年が横たわっていた。若そうに見えたが、頭は包帯で覆われており、顎と口元の一部しか見えなかった。


病室に響いているのは、すぐそばに置かれた機械の規則的な電子音だけだった。


僕は静かに扉を閉めた。


「本当に、聞いていたとおり重症なんだな」


少年の体には、いくつもの医療機器が接続されていた。ベッドの脇には人工呼吸器まであり、そこから伸びたチューブが顔まで届いて、呼吸を助けている。さらに、その隣のモニターには患者のバイタルサインが表示され、一定の間隔で電子音を鳴らしていた。


僕はしばらく、彼のそばに立っていた。あまりにも静かに横たわるその姿を見ていると、深い同情が湧いてきた。


「きっと、僕もこんなふうだったんだろうな。眠っているみたいに……」


スマートフォンを取り出し、田中さんにメッセージを送った。


『藤村さんを見つけました。写真を送ります』


ふと、僕はためらった。だが、すぐにもう一言書き足し、送信ボタンを押した。


スマートフォンで写真を四枚撮った。病室全体を写したもの、ベッドに横たわる彼の全身が分かるように近づいて撮ったもの、顔の写真、そして両手に接続された数々の医療機器の写真だ。


それらをすべて田中さんに送った。


すると突然、スマートフォンが鳴り始めた。田中さんからの電話だった。


\[も、もしもし、海斗さん。本当に、彼のところまで行けたんですか?\]


\[はい。ほかに何を期待していたんですか、田中さん? 僕ってすごいですからね\]


\[そ、そうですね。ありがとうございます、本当に。どれだけ助かったか、言葉では言い表せません。今日、さっそくクリニックに行きます。何かお礼の品を持っていきますね\]


どうやら、興奮のあまり、田中さんはいつもの気弱な口調を忘れてしまったらしい。まあ、それはそれでいいことだ。


僕は誇らしげに胸を張った。


\[お礼の品ですか? そんな、気を遣わなくてもいいんですよ\]


そう言いながら頬を掻く。


\[でも、そこまで言うなら……断るのも失礼ですしね\]


笑いそうになったが、あまり大きな声を出すわけにもいかなかった。


\[写真だけで十分ですか? あれだけで大丈夫でしょうか?\]


\[ええ、十分です。ただ……\]


\[分かりました。もう何枚か撮って送りますよ。いっそのこと、動画も送りましょうか\]


\[ありがとうございます。本当にありがとうございます\]


\[いえいえ、これくらいどうってことありませんよ。それより……前に送ったメッセージのことなんですが、まだ答えてもらっていませんよね。この依頼、誰から頼まれたんですか?\]


\[海斗さん、気になっているんですね……\]


\[単なる同情ですよ。僕も昏睡状態だったでしょう? それに、人を本当に元気づけるのは、少なくともこの世界のどこかに、自分を気にかけてくれる人がいると分かることだと思うんです。同情ですよ。それだけです\]


\[そう言われてしまうと……断れませんね\]


通話を終えた僕は、しばらくスマートフォンの画面を見つめながら、田中さんが最後に口にした言葉について考えていた。何度も頭の中で反芻してしまう。


なぜだか、その言葉が妙に心に残っていた。


それでも、あまり深く考えないほうがいいと判断した。所詮、ただの名前だ。あの少年、藤村について調べるよう誰かに依頼した人物の名前にすぎない。


「でも、いい名前だな」


僕は彼の耳元に顔を近づけ、そっと囁いた。


「ほら、早く目を覚ましたほうがいいぞ」


僕は微笑んだ。


そして、不思議なことに、幸せな気持ちになった。


「麗華さんが待ってるぞ」


それが、田中さんから聞いた名前だった。彼の上司の名前だ。

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― 新着の感想 ―
malditos desgraciados , van a sustituir a kaito con otro adolescente en coma para que asi reika no …
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