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第67章 『奇妙な偶然』


海斗の視点


もう少しだけそこにいようとしたが、看護師はしつこく僕を急かし、部屋に戻るよう背中を押してきた。


「ほら、海斗さん。これ以上ここにいるのはやめてください。さもないと、医長を呼びますよ」


仕方なく、僕は戻ることにした。受付の前にはあの男がまだ立っていて、看護師が再び小窓を開け、自分の話を聞いてくれるのを待っていた。


看護師は僕を連れて、クリニックの奥深くまで歩いていった。いくつもの廊下を通り、何度か曲がって、ようやく僕の病室にたどり着いた。


「押さないでください。もう着きましたから」


看護師は僕の後ろに立ったまま、部屋に入るのを待っているようだった。ここで認めておくと、僕はもう、この一連のやり取りにうんざりしていた。だから、これ以上面倒なことにならないよう、さっさと部屋に入り、乱暴にドアを閉めた。


誰もいなかった。


……


大輝と優一がここで話をしているものだと思っていた。心のどこかでは、二人が何か重大な話をしていて、ちょうど秘密を打ち明ける瞬間に鉢合わせる、なんて展開を期待していたのかもしれない。


「どこに行ったんだろう」


そう呟きながらベッドに向かい、ひょいと飛び乗った。


うつ伏せになる。真っ先に目を閉じて、うとうとしたくなった。疲れていたし、ほんの少し前まであれほど気分がよかったのに、その高揚も少しずつ消えていった。まるで空気の抜けた風船みたいに、僕の気力もしぼんでいく。


それでも、しばらくは動かなかった。眠ったふりをして脳をだまし、無理やり眠りにつこうとした。その日を少しでも早く終わらせたかったのだ。


けれど、結局うまくいかなかった。僕はベッドの上で仰向けになり、天井を見つめた。


「白い」


いつもと同じ白。汚れひとつないその色を遮っているのは、羽根のついた扇風機だけだった。しかも、その羽根の一枚には、目障りな黒い点がある。以前、あの点がどうにも気になって仕方なくなり、マットレスの上に立ち上がって、羽根についた汚れを取ろうとしたことがあった。ハエか何かだと思ったのだ。だが、いくら掃除しようとしても取れなかった。塗装についた傷だったのである。結局、その忌々しい黒い点は、僕の不安を煽るためだけに、いつまでもそこに残り続けることになった。


まあ、閉じ込められた生活を送っていると、ときどきこんなふうに頭がおかしくなりそうになるのも、わかってもらえるだろう。


何もかもが、あまりにも……繰り返しばかりだった。


スマートフォンを手に取り、文字を打ち始めた。SNSのアカウントを作ったばかりの僕には、話せる相手なんて誰もいなかったし、話題だってなかった。悲しいことだ。わかっている。恥ずかしいことだ。そんなこともわかっている。そして、そう……情けないことだ。はは、もちろん、それだって自覚している。そんなわけで、スマートフォンをいじるのにも、すぐに飽きてしまった。


かといって、扇風機の黒い点を眺め続けるのも気が滅入る。僕は足を動かし、勢いをつけて起き上がろうとした。テレビで見かける、あの身軽な人たちがやる起き上がり方だ。仰向けの状態から膝を腹に引き寄せ、そこから脚を勢いよく伸ばす反動で、ひょいと上体を起こす。


もちろん、僕の体はそんな芸当ができるほど鍛えられてはいなかった。床から数センチ浮き上がっただけで、背中からベッドに落ちた。


「何やってるんだ、僕は。カエルみたいに見えただろうな……。それにしても、僕は本当によく独り言を言うな」


勢いよく起き上がり、スマートフォンをベッドに置いた。それから枕の下に手を入れ、何日も前から隠しておいた小さな菓子や飴をいくつか取り出すと、再び部屋を出ることにした。


だが、ドアノブに手をかける直前、ふと思いとどまった。少し考えてから、ロッキングチェアの上に置いてあった新しい眼鏡も手に取った。


予想していたとおり、ドアの外で待っていた看護師は、僕がもう今日は出てこないと思うくらいには時間が経ったらしく、ようやく立ち去っていた。


僕は再び、誰もいない廊下を歩き始めた。見慣れた通路を進み、角を曲がり、やがてクリニックの裏庭にたどり着いた。ここは病室以外で、僕が比較的自由に過ごすことを許されている、唯一の場所だった。


時刻は正午近く。太陽は空の最も高いところにあった。ここ最近、日ごとに暑さが増していることを考えれば、庭に人がほとんどいないのも不思議ではなかった。看護師に付き添われた年配の人が二人ほどいるだけだった。


医師もいなければ、いつものように走り回る子供たちもいない。いるのは年寄りばかりだ。よくわからないけれど、年寄りというのは、歩くのが好きでなくても外に出るのは好きらしい。何時間も座ったまま過ごすだけだとしても。景色を眺め、人が歩いていくのを見るのが好きなのだ。


いつものように、僕は気ままな足取りで歩き始めた。円を描くように続く小道を、左手へと進んでいく。


日差しが石畳を照らし、庭を囲む白い壁に反射していた。そのせいで、視力の悪い僕の目は、すぐに痛み始めた。


小道を半分ほど進んだところで、少しでも日陰に入りたくなった僕は道を外れた。きれいに手入れされ、短く刈り込まれた植え込みをかき分け、庭の中央へと足を踏み入れる。


確かに、木はほとんどなく、芝生の開けた場所ばかりだった。それでも、日陰になる場所はいくつかあった。何本かの木に加え、屋根付きのベンチもある。屋根は金属製ではなく、何らかのつる植物を骨組みの周囲に巧みに這わせて育てたもので、今では自然の屋根のようになっていた。


まあ、かなり小さな庭ではあるけれど、手入れは行き届いている。そう言っていいと思う。


僕はそのベンチに向かった。腰を下ろして顔を上げ、日陰のわずかな涼しさを味わった。


けれど、涼しい風に当たっても気分は晴れなかった。まだ体が弱っているというか、いや、むしろ気力が湧かなかった。


どう説明すればいいのか、自分でもよくわからない。具合が悪いわけではない。かといって、別に調子がいいわけでもなかった。ただ、ここ最近、何だか自分がおかしいと感じていた。そして、そんな状態でいるのは、決して気持ちのいいものではなかった。


長く、ゆっくりと息を吐いた。スニーカー越しに芝生の感触を確かめるように、足に力を込めて踏みしめる。それから、ふと思いついた。ズボンのポケットにしまっておいた飴を一つ取り出す。そういえば、患者用のズボンにもポケットをつけてほしいと、僕はしつこく頼み込んだのだった。優一と大輝さんの力を借りて、どうにか実現した、ささやかなわがままだ。


眼鏡をかけ、立ち上がって周囲を見回した。認めざるを得ない。確かに、さっきよりよく見える。ただ、少し歩きにくかった。景色が二重に見えるのだ。初めて眼鏡をかけたことのある人がいたら、ぜひ教えてほしい。こういう見え方は普通なのだろうか。それとも、おかしいのは僕だけなのだろうか。まあ、僕がおかしかったとしても、今さら驚きはしないけれど。


飴を舐めながら、慎重に歩き始めた。鼻の上で眼鏡のフレームが少しでもずれるたびに、鼻梁の上から指で位置を直す。


ゆっくりと歩きながら、レンズ越しに見える世界をじっくり観察した。まるで、虫眼鏡を手にした子供が、植物を飽きもせず、じれったいほどゆっくり眺めているようだった。


そんなふうに周囲を観察していたとき、両手で耳の上から眼鏡の位置を直していると、ふいにある人物が目に入った。


「ゴクッ!」


危うく飴を喉に詰まらせるところだった。そこにいたのは、ほんの一時間ほど前、受付の小窓で誰かを探していた、あの落ち着きのない男だった。


すっかり打ちひしがれた様子だった。会社員らしいスーツを着た中年の男が、屋根付きのベンチに座り、足元に鞄を置いて、うつむきながら地面を見つめていた。


「ん?」


待てよ。鞄が落ちている。男は拾おうともしなかった。何かをひどく気に病んでいるようだった。スマートフォンを取り出して電源を入れ、何かを打ち込もうとしたものの、ため息をついて、またポケットにしまった。


気がつけば、僕はもう彼の目の前に立っていた。男は僕に気づいていなかった。


口の中に残っていた飴を飲み込み、声をかけた。


「こんにちは。今日はずいぶん暑いですね」


年上の人に話しかけるとき、これが適切な切り出し方なのかどうかなんて、聞かないでほしい。僕はそれどころではないくらい驚いていたのだ。それに、優一と大輝さん以外、僕はほとんど誰とも話していなかった。だから、馬鹿だと思われても仕方がないけれど、目上の人との会話に関しては、まだまだ不慣れだった。


「えっ……な、何ですか?」男は僕の声にびくりと肩を震わせた。顔を上げたものの、すぐに目をそらす。「ああ、はい……暑いですね……はは」


不安そうで、居心地が悪そうだった。


「本当にそうですよね。はあ……日によっては、まるでオーブンの中にいるみたいです。部屋の扇風機がなかったら、きっと僕は……」少し考える。「……死んでいたでしょうね」


男は何も答えなかった。僕の大げさな言い方に、どう返せばいいのかわからなかったのだろう。いやはや、この人と会話をするのはなかなか難しい。


「そ、そうですね……はい」


僕は彼の隣に腰を下ろした。


「ところで、どうしてここに?」


「ど、どうして、とは?」


「この中庭ですよ。患者じゃないと入れないはずですけど。もしかして、こっそり入り込んだんですか?」


「いえ、まあ……そういうわけでは。廊下を歩いていただけなんですが、気づいたらここに来ていたんです」


「ふうん……」


僕は一人で納得したように頷き、いかにも『眼鏡くん』といった調子で、もう一度眼鏡の位置を直した。


「そういえば」と僕は言った。「今朝、受付にいたところを見かけました。誰かを訪ねていたようですが、お見舞いに来たんですか?」


男は、僕の遠慮のなさに明らかに困惑しながらも、頷いた。


「でも、会わせてもらえなかったんですよね?」


「そ、それは……少し複雑な事情がありまして」


「事情が複雑だろうと、驚きませんけどね。ここのクリニックはそういうところですから。僕なんて、太陽を拝めるようになるまで、何日も閉じ込められていたんですよ。信じられます?」


ここで、どうして僕がこんなことをしているのか、不思議に思う人もいるだろう。けれど、僕はただ誰かと話がしたかっただけなのだ。これまでの会話といえば、医師とのやり取りや、決まりきった手続きに関することばかりだった。クリニックの外から来た人と話すのは、これが初めてだった。それに、僕はもともと好奇心が強いし、ここでの生活にも退屈していた。だから、この男性がどんな事情を抱えているのか、知りたくなったのだ。


「ほ、本当ですか?」


僕は頷いた。


「ひどいですよね。融通が利かないし、厳しすぎる。あなたみたいな人が気の毒です。せっかく来たのに、身内に会わせてもらえないなんて……きっと、相当心配しているんでしょうね」


男は頷いた。どうやら、僕の言葉は彼の痛いところに触れてしまったらしい。


二人の間に沈黙が落ちた。その間に、僕はポケットに手を入れ、飴の位置を直した。急いで腰を下ろしたせいで、いくつかが尻の下敷きになり、さっきから気になっていたのだ。


「そうだ。あなた、なんだか気に入りました」


「あ……ありがとうございます。そう言っていただけると、ありがたいです」


「僕と話すの、気まずいですか? まあ、間違いなく気まずいですよね。でも、気にしないでください。ここじゃ、話し相手がほとんどいないんです」


「そ、そうなんですか……? では、もうずいぶん長くここに?」


「そうですね。物心ついた頃から、と言ってもいいくらいです。文字どおりですよ……このクリニックに来る前のことは、ほとんど覚えていませんから。それだけ長くここにいるんです。もしかしたら、あなたが探している子のことも知っているかもしれませんね」


その瞬間、男の目が大きく見開かれた。そして、抑えきれない焦りに突き動かされたように、身を乗り出してきた。


「ほ、本当ですか? あの子を知っているんですか? 何か教えてもらえませんか? あの子は今、どんな様子なんでしょう?」


突然の接近に、僕は少し身を引いた。けれど、すぐに気を取り直した。


「たぶん、何か知っていると思います。ええと、その子の名前は? それと、何号室にいるんですか?」


「部屋……そう、部屋ですね……ああ、少し待ってください」


男は、床に置いたままだった鞄を持ち上げ、中をごそごそと探り始めた。


「確か、この中にあるはずなんです。手帳に書いておいたので」


しばらく探し回り、鞄の中身を半分ほど外に取り出した末に、ようやく黒い手帳らしきものを見つけた。最後のページを開く。


「ああ、ありました。これです。ちょっと見ていただけますか」


僕は身を寄せて、そこに書かれた文字を読んだ。


「二〇七号室。三階、か……。ちょっと待ってください。そこって、もしかして……。僕も少し前まで三階にいたんですよ。具合がよくなって、一階に移されたんです」


「ほ、本当ですか? あなたも三階に?」


「ええ、間違いありません。それで、そろそろ探している子の名前を教えてくれませんか? 苗字だけでもいいですから」


男はもう一度手帳に目を落とし、ふいに口を開いた。


「ああ……ありがとうございます。本当に助かります。こんなことをお願いしてしまって申し訳ありません。必ずお礼をします。約束しますから」


「お礼なんていいですから。苗字です。苗字を教えてください」


「はい、もちろんです。すみません……苗字は……ええと、そうだ。藤村です。藤村という苗字です」


しばらく黙り込んだ。頭の中で何かが跳ねたような感覚があり、突然、胃のあたりにずしりと重みを感じた。どうしてなのか、自分でもわからない。ただ……。


「藤村という苗字の知り合いはいないんです……」


僕は正直に答えた。


男の顔に失望の色が浮かぶのが見えたので、僕は慌てて言葉を付け加えた。


「でも、心配しないでください。もしその藤村という人が本当にこのクリニックにいるのなら、一つ約束します」


男はじっと僕を見つめた。


「その人の容態を調べてきます」


男は瞬きをした。


「ほ、本当にそんなことができるんですか?」


「もちろんです。もう部屋番号も苗字も教えてもらいましたから。僕なら建物の中に入れますし、その部屋まで行って、自分の目で様子を確かめられます。わかったことは、あなたに伝えますよ」


「い、いえ、そんな……。ところで、あなたのお名前は何というんですか? 私のせいで迷惑をかけるわけにはいきませんから」


僕は胸を張った。


「迷惑?」


自信たっぷりに言い返す。


……まあ、嘘なのだけれど。僕がどれだけ嘘つきになってしまったか、もう話したことがあっただろうか。


「だから、心配しないでください。建物の中なら、僕は自由に動けます。それに、仮に見つかったところで、僕に何ができるっていうんです?」


それでも男は首を横に振り続けた。


「本当にありがたいお申し出ですが……やはり、やめておいたほうがいいと思います」


男が立ち上がろうとしたので、僕は慌てて座り直すよう促した。


「まあまあ、座ってください。心配いりませんよ。そんなに難しいことじゃありません。僕に任せてください。悪いことをするわけでもないんですから。それとも、身内の容態が気になって仕方ないんじゃないですか?」


「はあ……ええ、もちろん心配でたまりません。でも……それでも、あなたを危険な目に遭わせるわけにはいきません」


僕は大したことではないというように、手をひらひらと振った。


「大丈夫です。部屋に入れてもらえなかったら、そのときは諦めます。でも、とにかく一度は試してみますよ。それに、あなたが賛成しようがしまいが、僕はやります。だから、あなたは落ち着いて、僕に任せてください。本当は何が起きているのか、僕が調べてきますから。あなたには知る権利があるんです。身内なんですから」


男はまた、困ったような顔をした。


「ですが……」


「でも、はなしです。さっきも言ったでしょう。あなたのことが気に入ったんです。それに、あなたがこんな扱いを受けているのは不公平だと思いますから」


もちろん、それに加えて、単なる好奇心と退屈しのぎでもあった。


「あなたに迷惑をかけるわけには……」


「もう、その話は終わりにしましょう。それより、念のため、その人の名前を教えてください」


男は少しためらったものの、最後には頷いた。再び手帳を開き、さっきと同じ最後のページを見た。


「名前は……ええと……」


「ちょっと待ってください」と僕は遮った。「身内の名前を知らないんですか? さっきも苗字を教えるときに、手帳を確認していましたよね」


「いえ、それは……」


男は僕の目を見た。


「あなたがそこまで親切に、力になろうとしてくださっているのですから、きちんとお話ししたほうがいいと思いまして……」


そこで口を閉ざした。僕は黙って続きを待った。


「本当に、あなたに話してしまっていいのか……」


「誰にも言いませんよ。何か事情があるんでしょう。それに、さっきも言ったように、あなたは悪い人には見えません。僕の勘がそう言っているんです」


「ええと……まあ、勘をあまり信用しすぎるのも、どうかと思いますが」


「もう、ここまで来たんですから」


「そうですね……」


男は頭をこすった。


「実は、私が会いに来たその青年は、親戚ではないんです。仕事で頼まれたことでして……」


「ご家族の知り合いか何かですか?」


「いえ、違います。あんな裕福なご家庭と知り合いになれるわけがないでしょう。会社の仕事なんです。直属の上司から頼まれまして。その青年は上司の親戚らしいのですが、上司は今、国外にいるので、代わりに様子を見てきてほしいと頼まれたんです」


沈黙が落ちた。僕は何と言えばいいのかわからなかった。


最初、僕はこの男を、息子か何かを心配する父親なのだと思っていた。だからこそ、同情したし、気の毒にも思ったのだ。けれど、今となっては……何を考えればいいのかさえわからなかった。


「だったら、上司に電話すればいいじゃないですか」


「誰にですか?」


「あなたの上司です。電話して、会わせてもらえないって伝えればいいでしょう」


男はため息をついた。


「それができないんです。いえ、したくないわけではなくて……上司から、こうなる可能性があると事前に言われていたんです。会わせてもらえないだろうから、自分で何とかして中に入るように、と」


驚きのあまり、僕は口を半開きにした。結局、ようやく口から出てきたのは、こんな言葉だった。


「とんでもなく冷酷な上司ですね」


舌打ちをする。


「それでも、電話してください。いっそ僕が直接話して、事情を説明しますよ。無理難題を押しつけているんだって。そもそも、誰にも見つからずに、警備された扉を通り抜けてクリニックに入れる人なんていると思いますか? 馬鹿げていますよ」


「いえ、それはできません」


「クビになるから、ですよね?」


男は頷いた。僕はため息をついた。


「だったら、なおさら僕の提案どおりにしてくださいよ。これをうまくやり遂げれば、昇進だってできるかもしれません」


男は一瞬、面白そうに笑った。


「そこまではいかないと思いますが」


「まあ、どっちでもいいです。ところで、まだその青年の名前を聞いていませんでしたね。それに、あなたのお名前も」


「ああ、そうでしたね。失礼しました。田中と申します。田中陽人です。よろしくお願いします」


僕は頷いた。


「田中さん、ですか」


「あなたのお名前は?」


「僕は海斗です。苗字は……渡辺です」


そう、それが僕のフルネームだ。口にするとなぜか違和感があるので、あまり名乗ることはない。海斗という名前にはもう慣れたけれど、渡辺という苗字には、いまだに馴染めなかった。とはいえ、優一によれば、それが僕の名前らしい。


そういえば、新しいスマートフォンを手に入れたばかりの頃、自分の名前をインターネットで検索してみたことがあった。けれど、何も見つからなかった。思うに、昏睡状態になる前は、SNSで別の名前を使っていたのかもしれない。


「でも、海斗とだけ呼んでください。苗字は好きじゃないんです」


「えっ? では、海斗さん……ご両親とうまくいっていないんですか?」


田中さんの鋭い指摘に、僕は頷いた。


「はい。海斗とだけ呼んでください。僕は年上の方を名前で呼ぶのは失礼だと思うので、田中さんと呼ばせてもらいます。でも、それはあなたを他人だと思っているとか、信用していないとか、そういう意味ではありませんから」


「わかっています、わかっています。気にしないでください」


「さて、今日中にお探しの情報を手に入れるのは難しいと思います。もうすぐ昼食の時間ですし、そろそろ病室に戻らないといけません。昼食を抜いたりしたら、大輝さんに怒鳴られそうですから。それに、あまり怪しまれたくもありません。できるだけ慎重に動いたほうがいいでしょう」


「少し心配ではありますが、海斗さんにお任せします。それでも……」


「わかっています、わかっています。あまりに難しかったり、危険だったりしたら諦めますよ。まあ、何が危険なのか、僕にはよくわかりませんけど」


「ありがとうございます。本当に」


田中さんがこのまま何度もお礼を言い続けるのは目に見えていた。そろそろ会話を切り上げなければ、本当に昼食に遅れて怒られることになる。


「それじゃあ、連絡先を教えてください。調べたことをお伝えしますから。あるいは、明日もこの時間にここへ来てもらってもいいです。ここで会いましょう」


「はい、来ます。必ず来ます。それから、連絡先もお渡ししますね。お礼に何か贈り物もしたいと思っています」


田中さんは手帳に何かを書き込むと、そのページを破って僕に渡してくれた。そこには彼の電話番号が書かれていた。僕はそれを大事にしまった。


「そういえば」と、もう戻らなければならないことも忘れて、僕は尋ねた。「その藤村という人、何があったんですか? ただの好奇心ですけど」


今度は田中さんも手帳を確認しなかった。どうやら、そのことはちゃんと覚えていたらしい。


「交通事故に遭って、昏睡状態なんです」


その瞬間、僕は凍りついた、と言っても大げさではなかった。どうにか口から出てきたのは、情けないほど間の抜けた一言だけだった。


「……え?」


「はい……昏睡状態なんです」


「いや……冗談ですよね?」


僕は首を横に振った。


田中さんは困惑した様子だった。


「どうかしましたか?」


「だって、僕も……僕も、ほんの数週間前まで昏睡状態だったんです。いや、数週間というか、ほんの数日前まで……」


「ええっ、本当ですか!?」


田中さんは一瞬、いつもの遠慮がちな態度を忘れ、僕に身を乗り出した。僕たちは互いの目を見つめたまま、あまりの偶然に驚いていた。


もう少し考えてみると、ふと、とんでもない考えが頭に浮かんだ。


「もしかして……」僕は慎重に切り出した。「田中さん……?」


「は、はい……?」


僕は自分自身を指さした。


「その藤村という人と、僕が同一人物だったりして?」


沈黙。


……


……


そして、突然。


「ぷっ!」


「あはははは!」


僕たちは二人そろって吹き出した。


正直に言うと、ここまでの僕の芝居は、全部冗談だったのだ。


「すみません、すみません。あまりにも偶然が重なりすぎている気がしたもので」


「ええ、本当に不思議な偶然ですね」


いやあ、よく笑った。こんな偶然を、僕たちは心から楽しんだ。こういうことがあると、人間はこんなにも笑えるものなのか。目を覚ましてからというもの、これほど楽しい時間を過ごしたのは初めてだったと思う。内気な人だと思っていた田中さんまで、すっかり緊張を忘れたようで、その間だけは恥ずかしがる様子もなかった。


ちなみに、昼食にはしっかり遅刻し、案の定、怒られた。


それでも、田中さんと話せてよかったと思う。


もっとも、僕たちの友情が長く続くことはなかったのだけれど。











「より多くの方に届けるため、★5で応援していただけると嬉しいです!星が増えるほど、更新ペースを上げてたくさん執筆します!」

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― 新着の感想 ―
素晴らしいエピソードでした。 この先どうなるのか、ますます気になってきました。
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