第66章 『ただ退屈だったから』
海斗の視点
週の初めの日、大輝さんが僕の病室にやって来たのは、午前十一時頃だった。早い。そう、僕にとってはものすごく早い時間だった。
というのも、もうお分かりだろうが、何日も何もせずに過ごしているうちに、僕はすっかり怠け者になってしまっていたのだ。その怠惰はすっかり身に染みついていて、退院したとしても、早起きの習慣を取り戻すまでに数日はかかるだろうし、午後四時から六時まで昼寝をする癖を忘れるには、数週間はかかるに違いない。それどころか、働くことや勉強することを再び心地よいと思えるようになるには、一生かかるんじゃないかとさえ思っていた。
まあ、それはさておき。僕のとても尊敬する医者、感じがよくて、非の打ち所のない医者――いやいや、僕もずいぶん嘘つきになったものだ。
ともかく、大輝さんは両手に二つのものを持って病室へ入ってきた。僕は機嫌が悪かったので、挨拶すらしなかった。僕の広くて素晴らしい語彙力も、その日はたった一言にまで縮んでいた。
「何?」
「おはよう」
そう答えながら、彼は部屋の奥へ進んでいく。まっすぐ僕のベッドの前まで来ると、いつものように、ついていたテレビを遮るように立った。公平を期すなら、別にテレビを見ていたわけじゃない。僕はスマートフォンで漫画を読むのに夢中になっていたのだ。それでも、その仕草には思わず唇をきゅっと結んでしまった。
「それで?」僕は、いかにも悪びれない笑顔を浮かべる彼にうんざりしながら言った。「また注射?」
彼が持ってきた二つのもののうち、一つへ視線を向ける。透明な液体の入った小さな瓶と、まだ包装されたままの注射器だった。
「もちろん……」
その声に何かを感じて、僕は身震いした。それでも、もう彼のやり方には慣れている。
「はいはい、そうですか」
僕は気にしていないふりをして答え、スマートフォンを脇へ放り投げると、ベッドの端に腰を下ろした。そして自分でシャツの袖をまくった。
大輝さんが僕のところまでやって来る。小さくカチッと音を立てて瓶をベッド脇のテーブルに置き、注射器を一本取り出すと、瓶の液体を吸い上げた。
「知ってるか?」僕の腕を取って、大輝さんが言った。「俺はずっと、お前がどうして俺にそんなに刺々しいのか気になってたんだ。お兄さんとは全然違うよな」
そう言いながら、肘の内側の少し上あたりを消毒する。
僕は針が刺さるのを耐え、液体が腕の中へ入ってくる熱さを感じた。思わず顔をしかめる。
「はあ……だって、あんたが嫌いだから」僕は答えた。「ただそれだけだよ。本当に、それだけ」
大輝さんは『そうか。それは残念だな』とだけ呟いた。それからもう一本の注射器を取り出し、残った液体を吸い上げる。
僕は機械的に左腕の袖を下ろし、今度は右腕の袖をまくった。
大輝さんは二本目の注射を打った。
「薬だから、心配するな」
そう言うと、注射器と空になった瓶を白い袋にしまい、その袋をポケットの中へ隠した。
「奇跡の薬だ。お前を昏睡状態から引き戻した薬でもある」
僕はしばらく彼を見つめた。でも、その表情を見れば、嘘をついていないことくらい分かった。それでも僕は気にしなかった。どうでもいい。僕は回復している。それ以外のことなんて、今の僕にはどうでもよかった。
僕たちは二人とも黙り込んだ。もちろん、僕は話したくなんてなかった。その日はあまりいい日じゃなかったし、長話をするような気分でもなかった。僕の沈黙が、帰ってくれという遠回しな意思表示だと、大輝さんなら理解できる程度には頭がいいことを期待していた。
裸足のつま先で、床のタイルに穴を開けようとするみたいに何度も擦っていた。視線もずっとそこへ向けたままだった。
ところが、大輝さんは帰らない。それどころか、同じ場所に立ったまま、僕に視線を向け続けているのが分かった。
「それで、他には?」
とうとう僕はぶっきらぼうに尋ねた。
「他には?」大輝さんが呟く。「なあ、具体的にはどんな感じなんだ?」
彼が近づいてくるのを見て、僕は少し身を引いた。
「何が?」
「注射を打ったあと、どんな感じがする?」
「別に、何も」
嘘をついた。
大輝さんが目を細める。僕は折れた。
「まあ……落ち着く、かな。説明するのは難しいけど。もちろん、気持ちが楽になるし……最初の頃は痛みに耐えるのにも役立ってた。それに……」
そのとき、ドアが開いた。
「二人で何してるの?」
優一だった。
「あ、今日は早いんだ」
僕はこれ幸いと、息苦しくなっていた会話から逃げるように話題を変えた。
「今日はあまり長居しない。午後から仕事があるから」
「それなら、わざわざ来ないほうがよかったんじゃないか?」
大輝さんが口を挟んだ。たぶん、僕からこれ以上聞き出せないと分かったのだろう。
僕は眉をひそめた。優一は気にする様子もなく部屋に入り、椅子を一脚取ると、疲れたように腰を下ろした。
「大変なの?」
「うん。また色々と面倒なことになってきた」
気まずい沈黙が生まれる前に、僕は再び口を開いた。
「そういえば、大輝さんが言ってたよ。もっと頻繁に診療所に来て、全身を診てもらったほうがいいって。じゃないと、また体を壊すかもしれないって」
「俺はそんなこと言ってない。でも、海斗の言う通りだ。そこまで深刻なら、俺に話してくれてもいい」
「いやいや、ありがとう。でも、話す、か……うん。あとで話したいことがある」
すると優一は、何かを思い出したように椅子から身を起こした。
「あ、そうだ。どこにある?」
「何が?」
「お前の眼鏡」
優一は大輝さんを見る。
「大輝が今日届くって言ってたけど。もう渡した?」
「あっ! そうだった。さっきから何か忘れてると思ってたんだ」
そう言って、優一は僕が入ってきたときに大輝さんの手に見たもう一つのものを取り出した。注射の騒ぎですっかり忘れていたらしく、それはベッドの上に置かれていた。
優一は黒い箱を手に取り、蓋を開ける。中から取り出したのは、細い黒縁の眼鏡だった。それを僕に見せる。
「お前のだ」
僕は愕然とした。
「え? なんで? 僕、ちゃんと見えてるけど」
「ははは、何言ってんだよ、急に」
大輝さんが僕の震える手に近づき、新しい眼鏡を乗せた。僕は首を横に振る。
「使いたくない」正直に言った。「何のために? 大輝さん、僕の視力はよくなってきてるって言ってたじゃん」
「ああ、よくなってる。でも、よくなってることと治ったことは別だ。前より見えるようにはなったが、完全に元の視力に戻るとは思わない」
僕はため息をついた。
「つまり、必要ってことだな」
優一が横から口を挟む。
僕は眼鏡を見つめた。良さそうなものだったし、値段も高そうだった。それでも……。
「はあ……なんで僕なんだよ」
しばらく迷った。
そして結局……僕は眼鏡をかけた。
フレームが耳の後ろと鼻梁を締めつける感触がする。ゆっくりと目を開くと――
「はあっ……! 何これ。世界が全然違って見える!」
感情が抑えきれないほど込み上げてきた。さっきまでとは違う。ずっと鮮明で、細かいところまで見える。
たとえば、インターネットの回線が悪いときに動画を見ると、映像が少しぼやけて見えることがあるだろう。それが、突然回線が強くなって、動画が4K画質になるような感じだ。もちろん、そこまで極端な変化じゃない。でも、はっきり分かるくらいには違った。
僕はベッドから立ち上がり、自分の足元を見た。
うん。やっぱり、かなり違う。
「思ってたより似合ってるじゃないか」
大輝さんが言った。少し黙ったあと、からかうような口調で続ける。
「いや、やっぱり似合ってないな」
僕は気にせず、短く笑った。
歩き始める。テレビの画面まで、さっきよりずっと鮮明に見えた。ただ、何歩か歩いたところで、眼鏡が鼻の上を少しずつ滑っていることに気づいた。
「結構、鬱陶しいな」
「そのうち慣れるよ」
兄が言った。
僕は眼鏡を外した。すると、またすべてが少しぼやけて見える。
「これしかないの?」椅子に座ったままの優一を見る。「コンタクトってあるだろ。あっちのほうがいいと思うんだけど」
「普通の眼鏡もコンタクトも、最初は同じくらい鬱陶しいものだ。どっちにしろ、慣れるしかない」
大輝さんがそう言うと、優一は逆に頷いた。
「分かった。買ってやるよ」
僕は背筋を伸ばし、顎を上げた。
「ありがとう。さすが僕の兄さんだ」
あいつ、どれだけ僕を甘やかせば気が済むんだ。
僕は新しくもらったばかりの眼鏡とケース、それからベッドの上に置いていたスマートフォンを手に取った。そして何事もなかったかのように、ドアへ向かって歩き始めた。
どういうわけか、気分が妙に上がっていた。
いや……少し浮かれていた、と言ったほうがいいかもしれない。
いや……眠かった?
まあ、どうでもいい。
半開きになったドアに手をかけたところで、ようやく背後から声をかけられた。
「海斗、どこ行くんだ?」
振り返ると、二人とも僕を見ていた。
「ちょっと散歩」
「え? なんで?」
僕は背を向けた。
「二人で話したいことがあるんだろ?」
優一は明らかに困惑した様子で首を傾げた。その反応を見て、僕は肩をすくめる。
「どうぞ。ゆっくり、話したいだけ話せばいいよ。僕はその間、出てくるから」
僕は再びドアへ向かい、それを開けてから閉める。そのとき、最後にこう付け加えた。
「ほら、兄さん。僕だってそこまで鈍感じゃないよ。話したいことがあるなら、二人で話してて。それに、少しくらい足を伸ばしたほうが僕にもいいだろ。ずっとベッドの上にいたんだから」
自分が邪魔者扱いされているときくらい、僕だって分かる。
だから、何を言われようが気にせず、僕は廊下へ出た。
何しろ、誰かが遠くで話していると、まだ聞き取りづらい。視力はかなりよくなったけれど、聴力のほうはそうはいかなかった。
そのうち、補聴器でも持ってこられるんじゃないかと思った。そして、あれだけは、どれだけ恥ずかしそうなものでも使わなきゃいけないんだろうな、とも思っていた。
まあ、何もかも手に入るわけじゃない。
二人を後にして、僕は目的もなく歩き始めた。
そして、廊下の角を一つ曲がったところで足を止めた。
眼鏡をかけ直す。鼻の下から指を差し入れ、鼻梁の下から眼鏡を押し上げる。以前は滑稽に思えたあの仕草が、今では妙に実用的に感じられた。
僕は踵を返し、来た道を戻った。
病室には戻らなかった。
向かったのは、診療所の正面玄関――外へ出るための出口だった。
出口へ続く廊下は、とても広かった。建物の構造はだいたい把握していたので、医者やそこを行き交う人たちの中でも、さほど目立つことなく自然に進んでいけた。
正面玄関に近づくにつれて、白衣の医者たちは次第に少なくなり、その代わり、ときどき私服の人たちが目に入るようになった。
心配そうな顔をしている人。うつむいている人。何かを待っているような顔をしている人。
中には、まるで眠っていないかのように汗ばんでいる男もいた。
うん。どうやら、いくつかある主要な廊下の一つに面した待合室の近くまで来たらしい。
二重の扉を抜け、ようやく出口から一つ手前の待合室に入った。
意外にも、思っていたほど人はいなかった。女性が二人と、年配の男性が一人。それから、学生に見える若い男が一人。
見覚えのない制服だった。
僕はどうしても、その男をしばらく見つめてしまった。
彼が僕の視線に気づくと、僕は再び歩き始めた。
だが、最後の扉まであと二歩ほどというところで、誰かに呼び止められた。
「すみません、海斗さん。ここで何をしているんですか?」
看護師だった。
彼は僕の前に立ち、行く手を塞いだ。
「ここに来ちゃいけないのは分かっていますよね。それに、退院するまでは診療所の外にも出られません」
声は優しかった。それでも、何となく腹が立った。
彼は腕を伸ばし、来た道を戻るよう促した。
僕は笑った。
「分かってますよ。ただ、ちょっと足を伸ばしたかっただけです。同じ道ばかり歩いてると退屈なので、こっちを回ってみようと思って」
看護師は僕の肩に手を置き、軽く力を込めて僕の体を反対方向へ向けた。
「それでも、こちらには来られません。ほら、私が部屋まで連れていきますから」
そう言って、服につけていた小さなスイッチのようなものを手に取った。たぶん、無線か何かだろう。
でも、彼が何かを言う前に、僕は遮った。
「大丈夫です。自分で戻れますから」
そう言って手をひらひらさせ、気にするなというように続けた。
「もうしませんから」
別に、僕を責められる筋合いはない。
入院患者が退院するまで外に出してもらえないことくらい、分かっている。
それでも、その日はそれを試してみたくなるくらい、退屈だったのだ。
「はい、十六歳の少年です。こちらの診療所に……ええと……先月の十八日に……」
男の声だった。
スーツ姿の、四十代くらいの会社員に見える男。どういうわけか、その様子はひどく気まずそうだった。
「申し訳ありません」
受付の女性が言った。
「ですが、その情報をお伝えすることはできません」
「でも、家族の者から頼まれて来ているんです」
「どなたのご家族ですか?」
「黒田さんの……」
その瞬間、その声に僕の足が止まった。
「海斗さん?」
背後から、さっきの看護師が声をかけてきた。僕が戻ると言ったにもかかわらず、どうやら付き添うつもりらしい。
僕は無視した。
きっと、何が僕の注意を引いたのかと不思議に思うだろう。
あの男の何が気になったのか。
質問の内容?
違う。
話し方だった。
あの怯えたような、途切れ途切れの話し方が、なぜか妙に聞き覚えのあるものに感じられた。
馬鹿げた話だ。自分でもそう思う。
震える男がもう少しだけ食い下がったものの、結局、受付の女性はきっぱりと断った。
「できません」
そう言い切ると、これ以上話を聞くつもりはないとばかりに窓口を閉めた。
『あらら』
僕は思った。
『かわいそうに』
すると、さっき僕を散歩へ駆り立てたのと同じ退屈に背中を押されるように、妙な衝動が湧いてきた。
どうやら僕は、とんでもなく野次馬根性が強いらしい。
それに、あの震えている男には、なぜか妙な親近感を覚えた。
つまり――。
僕はあの男が気に入った。
可哀想にも思った。
そして、話をしてみたくなった。 :::
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