第65章 『約束したから』
飛鳥の視点
この長い出張が始まってから、きっかり二週間と二日が経った。つまり、終わりまであと数日ということだ。
とはいえ、ここまでくると、さすがに疲れる。まったく、どれだけ疲れれば気が済むのだろう。しかも私と大切な友人である麗華にとって、状況は日に日に悪くなっているようにしか思えない。
麗華さんの様子がおかしい。普通じゃない。
あの電話があってから四日間、彼女はずっと怒りっぱなしだった。ほとんど食べようともしなかった。それから、まあ当然といえば当然なのだけれど、怒りが少しずつ収まっていくにつれて、今度は完全に無関心になってしまった。何もかも、どうでもいいとでも言うように。
これがどれほど異常なことか、分かるだろうか。少なくとも仕事に関しては、麗華さんは責任感が強く、集中力もある人だ。それなのに今は、会議中ですら頭の中がどこか別の場所にあるように見える。
私がどれだけ気を遣っても、ほとんど食べてくれない。いや、食べるには食べる。一日に一度だけ。それもごく軽いものだ。あとは水と、たまに薬を飲んでどうにかしている。
私に言わせれば、そんなのは生きているとは言わない。自分で自分を傷つけているだけだ。
『悲しいときこそ、パンを食べれば少しはましになる』と、祖母はよく言っていた。まあ、麗華さんはそのパンすら食べようとしないのだけれど。
だから私は、とうとう我慢できなくなった。人様の人生について口を出すなという祖母のありがたい教えもすっかり忘れて、真正面から聞いた。いったい何が、そこまで彼女の心に重くのしかかっているのか。
その日は、珍しく格式張った夕食の予定がなかった。私たちは、用意されたアパートのベランダに並んで座っていた。
麗華さんは、最近ずっとそうであるように、不機嫌で、よそよそしかった。目の前にあるのは、水の小さなボトルだけ。ラベルには黄色い小川みたいなものが描かれていた――あれ、皆さんご存じかしら。たぶん知らないわよね。
まあ、それはともかく。
短い会話を交わしたあと――というより、私が会議の重要事項を一方的に報告しただけなのだけれど――私たちは完全な沈黙の中にいた。
一分、二分……どれくらい経ったのかは分からない。
私はもう話しかけようとはせず、ただ悲しそうに麗華さんを見ていた。まるで、戸口から飼い主を見つめる犬みたいに。
けれど麗華さんは、私の視線に気づいていたとしても、気にする様子はなかった。頭を少し傾け、頬を手のひらに預けたまま、街のどこか一点をじっと見つめている。
やがて、その沈黙を破ったのは彼女自身だった。
「どうして出かけないの?」
私のほうを見ずに、麗華さんは言った。
「今日は午後、もう何もないでしょう。少し散歩でもして、この辺りに何か面白いものがないか見てきたら?」
「でも、麗華。あなたを一人にして、私が出かけられるわけないでしょう」
麗華さんは、わざと聞こえるようにため息をついた。たぶん、私の言葉が鬱陶しいのだと分からせるためだ。
「私は子供じゃないのよ。少し出てきなさい。ずっとそばにいられると、息が詰まるの」
それは、正直ちょっと傷ついた。
けれど私は立ち上がり、ドアへ向かった。何か食べるものでも買って戻れば、麗華さんも私の好意を無下にはできないだろう。そう思ったのだ。
ところが、外へ出る直前で足が止まった。
「そんなにあの子のことが心配なら、どうして自分で聞かないの?」
麗華さんが鼻で小さく息を吐いた。
「誰に聞けばいいの?」
「分かっているでしょう。あの人たちは嘘ばかりついて……」
そこで、彼女は突然静かになった。
「……そうね。もう待つしかない。私自身が、そこに行く。あと数日だけ。このくだらない茶番も、それで終わる」
そのとき私は気づいた。
もう彼女は私と話していない。
その呟きは、きっと一人きりで、四六時中、頭の中で繰り返している会話の一部なのだ。
「時間さえあればいい。あと数日。それだけで終わる。私はただ、待っていればいい……」
私は彼女を一人にすることにした。
可哀想な友人。あんな麗華さんを、私は今まで見たことがない。
完全に取り乱している。
胸が締めつけられるようだった。拳ほどの大きさの塊が、心臓のあたりにできたみたいに。
麗華さんの言っていること自体は、ある意味で当然なのだ。この出張が永遠に続くわけではない。何か月もかかるような仕事でもない。あと数日もすれば、きっと私たちは帰れる。
でも、私が心配しているのはそこじゃない。
何年も彼女のそばにいるのだから、麗華さんのことはよく分かっている。あの人は、問題を一人で抱え込みすぎるところがある。若い頃なんて、何日も完全に世間から閉じこもってしまうことだってあった。
自分を傷つけることにかけては、どうしようもない人なのだ。
残りの日々を、海斗くんについて何の情報も得られないまま耐えられるだろうか。
無理だ。
もう限界に来ている。私には分かる。
そして私は、その苦しさを少しだけ知っている。
大学に通っていた頃、一度、電話がかかってきたことがあった。
祖母が、棚の上に置いてある裁縫針を探して――本当に、いつも針ばかり探していた――そのまま転んでしまい、入院したというのだ。
私はどれほど慌てただろう。
死んでしまうんじゃないかと思った。もうかなりの歳だったし、私は祖母に育てられて、一人で暮らしていたようなものだったから。
そのあと近所の人から連絡が来た。大丈夫、倒れたときに少し強く打っただけで、たいしたことはない。ただ、しばらく療養する必要があるらしい。
死んでしまうかもしれないという恐怖は消えた。それでも、私はどうしても病院へ行きたかった。
行けなかった。
遠かったし、お金もなかった。それに何より、その週は期末試験だった。
それでも行こうとした私に、祖母から電話がかかってきた。
『あんたは心配しすぎなんだよ』
祖母はそう言った。
『私はあんたのことを娘みたいに知ってるんだ。まあ、本当に娘にするには産まなきゃならなかったけどね。だから来るんじゃないよ。私は元気だから。それに電話もしてくるんじゃない。試験に集中しなさい。年寄りのくだらない心配なんかで、自分の人生を無駄にするんじゃないよ』
それだけでは足りなかったのか、祖母は念を押すように続けた。
『もし来たら、ぶつからね。細くて長い竹の棒を持って、本気でぶつよ。嘘じゃないからね。それから電話をかけてきても出ないからね』
可哀想な祖母だ。
ちょうどその直後から、目が見えなくなり始めたのだから。
……まあ、それはともかく。
当時の私は、ずっと不安だった。
今日は祖母、大丈夫かな。少しは良くなったかな。それとも、まさか悪くなってないよね?
近所の人たちが元気だと連絡をくれても、どうしても安心できなかった。
自分の目で見るまでは、絶対に安心なんてできない。
祖母が生きていて、相変わらず私を叱っている姿を写した写真を送ってもらっても、それだけでは不安は消えなかった。
だって、私は祖母が好きだった。
私には、それしかなかったから。
たぶん今の麗華さんも、当時の私と同じなのだと思う。
大切な誰かが心配なのに、自分には何もできない。
あのどうしようもない焦り。
ただ、麗華さんのほうがずっとひどい。
私の場合は、少なくとも近所の人たちが様子を教えてくれていた。それでも死ぬほど心配だったのだ。
でも麗華さんには……麗華さんには、誰も何も教えてくれない。
だったら、何が彼女を動けなくしているのだろう。
海斗くんが無事なのか確かめるために、誰か第三者を診療所へ向かわせればいい。それだけのことなのに。
結局、彼女を苦しめているのは、情報がないことなのだ。
そして、それを邪魔しているのは――プライド。
ただのプライドだ。
麗華さんは、そういう人なのだ。
あることには天才的なのに、別のことでは呆れるほど馬鹿になる。そして最悪なのは、自分の心を傷つけるようなことほど、間違った判断をすることだ。
両親のこともそうだった。
小さなユナのこともそうだった。
自分で自分の両手を縛ってしまっている。
でも、ある意味では私にも分かる。
第三者を送り込んだところで、入れてもらえないかもしれない。
麗華さんでさえ、あの子とはかなり近しい関係にあるというのに――どういう意味で近しいのかは私には分からないし、できれば聞きたくもないけれど――自由に動けないのだ。
まして、赤の他人ならなおさらだ。
情報を得られるとすれば、あの子の兄くらい。
確か、優一という名前だったはずだ。
けれど麗華さんは、あの男が嫌いだ。
私だって、決して人のことに首を突っ込むタイプではないけれど、それくらいは分かる。
信用していないのだ。
それなのに、その嘘つき男に頼るしかない。
だからこそ、あんなにも無気力になっている。
情報がないことに、少しずつ食い殺されているのだ。
私は、彼女を助けると約束した。
見捨てないとも言った。
だから、約束は守る。
『口にした約束は、借りたものと同じ。返すのが道理』
……だったかしら。
これもたぶん、祖母が勝手に作った言葉だと思う。
ともかく、そのために私は独断で一手を打つことにした。
私が数少ない「頭のまともな男」だと思っている人間の一人を、診療所へ向かわせた。
信用できる人間だ。
『家族でもないのに』と思うかもしれない。
でも、麗華さんの名を借りて送り込んだ。本人には頼まれていないけれど。
診療所の中へ目立たず入る方法を探して、海斗・藤村について分かることを全部調べてくれ、と頼んだ。
何階の、何号室にいるのか。
容体はどの程度なのか。
必要なら、写真も何枚か撮ってきて、麗華さんに見せてほしいと伝えた。
きっと、それだけでも彼女は少し落ち着くだろう。
すべてが解決するわけではない。
それでも、残りの出張をこれ以上自分を傷つけずに乗り切るための力くらいにはなるはずだ。
私が望んでいるのは、それだけ。
その男はもう送り出した。
そして今の私は、彼からの確認を待っている。
電話を。
もしかしたら、何か良い知らせがあるかもしれない。
もし少しでも良くなっていたら、どれほど嬉しいだろう。
それを麗華さんに伝えたら、どんな顔をするだろう。
きっと、すごく喜ぶ。
想像してみてほしい。
あの人の反応。
驚いた顔。
そして、最初に口にする言葉。
……けれど、時間が経つにつれて、どうしても気になってくる。
どうして、まだ電話がないのだろう?
私まで、だんだん焦ってきた。
これ以上、あんな状態の大切な友人を見ているのは耐えられない。
もう仕方がない。
私から電話して、何か分かったのか聞くしかない。
電話しよう。
そうしよう。
――電話するんだ。




