第64章 『運命論者』
海斗の視点
クリニックで過ごした最後の日々は……さて、どう表現したものだろう。良かったとは言えない、と言っておくのが一番無難だろうか。ほんの一瞬で、物事というのはこうも突然変わってしまうものなのだと、つくづく思う。
まあ、それが人生というものなのだろうけれど。
以前にも話したと思う。朝の明るい時間は悪くなかったのに、夜になると、落ち着かない夢に苛まれていた。
というのも、夢を見るようになってからというもの、僕はずっと奇妙なものばかり見ていた。
たとえば、両親が優しい人間になっている夢。僕に会いに来て、僕を愛してくれている夢。
馬鹿げた話だ。
なぜなら、あの人たちは一度も僕に会いに来たことなんてなかった。だから、優しい人間ではない。ならば当然、僕を愛してもいない。
またあるときは、自分がひとりぼっちで、友達がひとりもいない夢を見た。
これもまた、馬鹿げた話だろう?
だって、僕にはどうしてもそんな自分が想像できなかった。何しろ、僕は人と話すのが好きだった。ひとりでいることなんて、とても耐えられない。だから、僕には友達がいるはずだ。それも、山ほど。
それから、ひとりの女の人が出てくる夢も見た。
優しい人だった。僕はその人が好きだった。
正直に言えば、数ある夢の中でも、その人にまつわる夢だけは、いちばん嫌な感じがしなかった。
そして、その最後の夢だけは、僕が見た中でもっとも荒唐無稽なものに思えたけれど、僕は自分の意思と気まぐれだけで、それを真実だということにした。
絶対的な真実。その女性は実在する。
もっとも、さっきも言ったように、そんな夢を信じることにしたのは、ただの気まぐれだった。きっと、僕が変わり始めているからなのだろう。今朝目を覚ました僕は、頭がおかしくなったみたいに、くだらないことばかり考え始めた。
うわごとだった。
目を開けた瞬間、どこからともなく最初に頭へ浮かんだのは――『今日は悲しい気分になりたい』という考えだった。
人生はつらい。生きていても仕方がない。そう自分に言い聞かせる。
『もう、こんなのには疲れた』
そう言ってみる。もっとも、「こんなの」が何を指しているのか、自分でも分からない。
この世界の誰ひとりとして僕のことを気にかけていないと思う。僕はひとりだ。このままひとりで生きて、ひとりで死ぬ。何をやってもうまくいかないし、これから先もうまくいかない。何も良くならない。自分がこれから何をすればいいのか分からない。どうして生きているのかも分からない。山ほどある問題の、何ひとつ解決できない。もう限界だ。希望なんてない。そもそも僕は希望なんて欲しくない。今は僕を愛してくれている人たちでさえ、いつかは僕を拒絶する。誰にも僕のことなんて理解できない。
僕が憎まれる場面を想像する。
あるいは、僕ばかりが理不尽な目に遭う場面を。
考えられる限り最悪の拒絶や悪意を、自分が一身に受けるところを想像する。そして、そんな僕を傷つけた人たちが、しばらくしてから僕を哀れむのだ。
自分たちのしたことを後悔する。
僕のもとへやって来て、許してくれと懇願する。
そして僕は、もちろん許さない。
自分のために泣く。自分の身に起きていることを嘆いて、泣く。
『なんてつらいんだろう。僕は、本当につらい』
そう泣きながら訴える。
それでも、誰も気にかけてくれない。
我ながら奇妙なことだと思う。
だって、正直に言えば、僕自身にも、僕の人生にも、僕の日々にも、どうしてそんな気分になりたいのか、その理由が見つからないのだから。
僕は幸せだ。それは否定しない。否定なんてできない。
だけど、今日は幸せでいたくない。
悲しい気分になりたい。
特別な理由なんてない。ただ、『そうしたい』から。
その日にふと思い立って、何か食べたくなるのと同じようなものだ。
ははっ。僕、頭がおかしくなったのかな。
そんなことをすれば、自分が傷つくだけなのは分かっている。それでも、目を覚ました僕は自分を傷つけたくなった。
だから、自分で自分を泣かせるために――子供じみているとは思うけれど――いくつか馬鹿なことをしてみた。
たとえば、兄を挑発して、僕に腹を立てさせ、殴らせようとした。
けれど、駄目だった。
優一は僕を殴らなかった。
それから、大輝さんを探して、自分の健康状態について悲観的な診断をしてもらおうともした。
たとえば、もうすぐ死ぬ、とか。
……いや、そこまで極端じゃなくてもいい。ただ、僕がショックを受けて、悲しくならずにはいられないようなことを言ってほしかった。
けれど、これも駄目だった。
僕の体調は、順調に回復していた。
痛みも少しずつ減っている。もうひとりで歩けるようにもなった。耳の聞こえ方は視力ほどには改善していないけれど、それでも全体的に見れば、どう考えても僕のほうに運が向いているようだった。
くそ……。
本当に、腹が立つほどもどかしい。
僕は、どうかしてしまったのだと思う。
日に日に、自分が奇妙になっていく。
以前とは違う。
いつか、ある瞬間を境に、僕は僕ではなくなるのではないか。別の人間になってしまうのではないか。
そんな気がする。
そんなことは嫌だけれど、もう避けられないことなのだというのも分かっている。
おかしいよな、本当に。
まともな人間なら、朝目を覚まして、最初に考えることが「今日は悲しい気分になりたい」だなんて、そんなことがあるだろうか。
自分で自分が分からない。
今日は、悲しい気分にはなれなかった。
惨めにもなれなかった。
良い一日ではなかった。
なぜなら今日は、ただ穏やかだったからだ。
しかも、追い打ちをかけるように、僕には良いことまで起きた。
ようやく、クリニックの外で誰かと話すことができたのだ。
それも、兄でも大輝さんでもない人と。
病院の裏手にある小さな公園で、その人に出会った。
いい人そうだった。
そして、僕はあっという間にその人に好感を持った。
どうやら、その人はクリニックで誰かを探していたらしい。
受付にも、医者にも、何ひとつ教えてもらえない人物を。
しかも、彼が探していたその若者は、どうやら昏睡状態にあるらしかった。
僕がそうだったのと、同じように。
まあ、聞いてほしい。
ちょっと変わった話なんだ。




