第63章 『兄弟 』( 2 )
海斗の視点
あの頃、病院で過ごした日々の中で覚えていることは、いくつもある。その中には、思い出したくもない不愉快なものもいくつかあった。
たとえば――あまりこの話をしたくはないから、一つだけ挙げるなら、優一に「どうして母さんのことを気にしないのか」と聞かれたときのことだ。何でも尋ねるくせに、どうして母さんのことだけは聞かないのか、と。
僕は、どうでもいいからだと答えた。僕のことを愛していないのは分かっている、と。
その言葉が気に入らなかったのか、優一はひどく困ったような顔をした。だから僕は、ただ説明した。僕が入院してから一度も見舞いに来ていない。それだけで十分に分かることだ、と。父さんについても同じだった。
「意味がないよ。僕のことを心配してるなら、ここにいるはずだ。でも、ここにいるのは優一だけだ。友達も恋人もいない。だから、友達も恋人もいないっていうのと同じなんだと思う。両親だって同じだよ。いないのと変わらない。僕だって馬鹿じゃない。それくらいのことは分かるよ」
優一は、それでも何も答えなかった。
その重たい視線が僕に向けられているのを感じて、僕はとうとう叫んだ。
「僕のせいじゃない!」
その日は、優一に腹を立てた。
***
それから、日を追うごとに暑くなっていったことも覚えている。
あの頃は、氷になりたいとばかり考えていた。いや、もういっそ冷蔵庫の中に入って、そのままそこで暮らしたいとか。ほら、暑さのせいで誰でも考えてしまうような、そういうくだらないことだ。
その暑さにうだって、ある日、僕がくだらないことを言い始めたのも覚えている。
そのとき一緒にいたのは、大輝さんだった。
昼時で、ちょうど食事の時間だった。大輝さんは僕のバイタルサインを確認し終えると――何をしていたのかは、僕は医者じゃないから知らない――何かを手帳に書き込んでいた。
そんなとき、僕は唐突に言った。
「昨日、自分がパイナップル嫌いだったってことを思い出したんだけど、信じられる?」
「昔の記憶を思い出したのか?」
大輝さんは書く手を止めた。けれど、僕のほうは見なかった。
「いや。ただ、パイナップルが嫌いだったってだけ」
大輝さんは、また書き始めた。
「思い出したんじゃなくて、今の君がパイナップルを嫌いなだけじゃないのか?」
僕は眉をひそめた。嘘つき呼ばわりされるのは好きじゃない。
まあ、僕は嘘つきだ。でも、本当のことを言っているときまで嘘つき呼ばわりされるのは好きじゃなかった。
僕は食事を脇に置いた。
「違うって。昏睡する前の記憶だよ」
「はいはい……」
もちろん、大輝さんは書き続けていた。僕が嘘をついていると思っているらしい。
僕はため息をついた。
「本当なんだって。突然だったんだよ」
僕は自分の手を見つめた。
「食べてたら、いきなり思い出した。それだけ。ほかに説明なんてない」
それは本当だった。
二日前、僕は初めて刻んだパイナップルを出されて、それを気に入った。暑い日だったから、さっぱりしていてうまかった。それどころか、翌日にももう少し食べたいと看護師さんたちに頼んだくらいだ。
意外にも、そのわがままは聞き入れてもらえた。珍しいこともあるものだ。
「昨日パイナップルを食べてたとき、もうほとんど食べ終わる頃だった。昼飯の中では最初に食べ始めたものだったんだけどさ。そしたら、突然思い出したんだ。『そういえば、僕ってパイナップル嫌いだった』って。二秒くらいしてから、『何言ってるんだ、僕は』って思った。でも、残りを食べようとしたら、食べられなかった」
長々と話しているうちに、大輝さんが手帳を脇に置き、僕をじっと見ていることに気づいた。
「何?」
僕が尋ねると、大輝さんは目を細め、厳しい声で言った。
「どうしてすぐに言わなかった?」
僕は大したことではないとでもいうように答えた。
「もういいじゃん、そんなの。あのときは、ただくだらないことだと思ったんだよ。だって、自分の名前すら忘れてる人間が、最初に確信を持って思い出すのが、果物一個が嫌いだってことなんて……変だろ。すごく変だった。さっきまで口の中で普通にうまかったのに、次の瞬間には今まで食べた中で一番まずいものになったんだから」
「今日は午後の散歩はなしだ」
大輝さんは立ち上がった。
「いくつか検査をする。それから、思い出したことはどんなに小さなことでも全部話してくれ」
あまりにも真剣な顔をするものだから、僕は思わず鼻で笑った。
「なんでそんなにムキになるんだよ。大したことじゃないだろ」
それに、午後の散歩を禁止するなんて、いったい何様のつもりなんだ。
僕が外に出られる唯一の時間だった。
だから僕は、ふてぶてしく大輝さんを見た。
大輝さんが何か言おうとしたが、僕は手で遮った。
「分かった、分かったよ。全部話す」
もちろん、嘘だった。
何しろ、大輝さんのことは好きじゃない。だから、頭の中では、これっぽっちも信用できない相手に嘘をついたって、僕にはその権利があると思っていた。
「大げさだな」
僕はもう一度、食事のトレーを手に取った。
「ほら、もう食べさせてよ」
大輝さんは少し安心したようにして、再び椅子に腰を下ろした。
「そういえば君の食事だけど……今日も兄さんは来ていないな。兄さんには? 君が思い出したことを話したのか?」
僕はすぐには答えなかった。
食べ物を噛んで、飲み込んでから答えた。
「優一に?」
大輝さんがうなずく。
「いや」
それは本当だった。
あの妙な夢も含めて、細かいことは誰にも話していなかった。
「それに、話す時間もほとんどないし」
僕は自分の言い分を通そうとした。
「優一は来る時間がバラバラなんだよ。朝のときもあれば、昼のときもある」
食べかけのトレーをベッドの脇に置く。
「そういえば、午後に来たところも、夜に来たところも見たことないな」
大輝さんは椅子の背もたれに体を預けた。
「用事があるんだろう」
「分かってるよ」
僕は大輝さんの言葉を遮った。
「みんな用事があるんだ。僕にも用事があればいいのにな」
ふと、そう考えた途端、胃のあたりに嫌な重さが生まれた。
僕は舌打ちをして、ベッドの脇に手をつき、立ち上がり始めた。
「でも、この前、君たち兄弟が喧嘩したって聞いたぞ。よくそんなふうに一緒にいられるな」
また始まった。
大輝さんの、このうんざりするほどの無駄話だ。
この人は、とにかくよく喋る。
だから、僕は大輝さんが苦手だった。
僕は立ち上がりきると、床に足をつけた。
「それがどうしたんだよ。兄弟なら喧嘩くらいするだろ」
「さあな。僕には兄弟がいないから。一人っ子なんだ」
完全に立ち上がってから、足を伸ばす。
そして部屋の中を少し歩き、椅子の一つの横で足を止めた。
黙って僕を見ていた大輝さんが、また口を開く。
「兄弟って、よく喧嘩するものなんだな。大したもんだ。そこまで嫌い合うのか?」
僕は部屋のテレビのほうへ椅子を向けた。
けれど、座りはしなかった。
「さあな」
適当に答える。
「そういうこともあるんじゃないか。うん、喧嘩するし、嫌いになることだってある。でも、その憎しみだって、兄弟だからこそ生まれるんだよ」
「どういう意味だ? 僕には分からない。一人っ子だからな。でも、本当に兄弟ってそういうものなのか? 海斗さん、兄弟って何なんだ?」
僕は数秒、黙った。
それから、確信を持って答えた。
「兄弟っていうのは、僕たちみたいなものだよ」
それ以外に答えはなかった。
「本当に? でも、それじゃ質問の答えになってないだろ」
「それは……」
僕は話し始めた。
そのとき、突然ドアが開いた。優一だった。
「二人で何をそんなに話してるんだ? 『兄弟ってこうだ』とか、『兄弟ってああだ』とか」
「いや、それがな、海斗が――」
「何でもないよ。大した話じゃない」
僕は大輝さんの言葉を遮り、急いで話題を変えた。
「それより、今日はあの人来ないの?」
自分では、まるで前から続いていた話の続きを尋ねるように、いかにも自然に聞こえたつもりだった。
「何?」
優一は困惑したように言った。
僕は一秒ほど答えに詰まった。
「午後の看護師さん。ほら、あの変な黄色い靴下を履いてる人」
なぜ誤魔化したのか。
自分の兄を目の前にして、「兄弟とは何なのか」なんて話をしていたと知られるのが、あまりにも恥ずかしかったからだ。分かってもらえるかどうかは知らない。恥ずかしさに負けて、逃げ道を探した結果、僕はさらに深い穴へと落ちてしまった。
「どの看護師?」
優一が尋ねた。
しまった。薬が毒になったどころか、病気よりひどいことになった。僕は固まった。そうだ。優一は、その看護師を知らない。
「だ、誰でもないよ。大した人じゃない」
「想像してみろよ。弟が気に入ってる看護師さんだ」
大輝さんが言った。
僕は彼を睨みつけた。
「黙ってよ」
そして優一を見る。
「そんなの嘘だから」
「誰だ? あのブスか?」
優一が答えた。
どうやら知っているらしい。
「ブスじゃない!」
僕はほとんど叫んでいた。
「本当に? この前、僕に――」
「黙れ!」
大輝さんを即座に遮った。
なんてことだ。とんでもない状況になっていた。
「じゃあ、君が嫌いだって言ってたって本人に伝えるか」
「は? 馬鹿なこと言うなよ。僕、そんなこと一度も言ってない」
「じゃあ、どうなんだ?」
優一が追及する。
僕は黙って兄を見た。一度だけ口を開いて、閉じた。答えなかった。
「本当に?」
二人が揃って聞いてきた。
もう駄目だった。恥ずかしさに耐えられなくなった。
僕はゆっくりと腰を下ろした。唇を舐め、天井を見上げる。それから両手で顔を覆い、最後には笑い出した。
泣きたかった。
***
あの頃の記憶の中でも、最後のほうに残っているものの一つに、優一がボードゲームに僕がうんざりしていることを知ったうえで、ゲーム機を持ってきてくれた日のことがある。
「コード?」
僕は不思議そうに言った。
「うん。僕の」
そう言いながら、優一はゲーム機をテーブルの上に置いた。コントローラーを一つ手に取ると、巻きついていたコードをほどき始めた。終わると、二つ目も同じようにほどいた。三つ目は箱の中に戻した。
「よく覚えてないけど、ずいぶん古い気がする」
僕は沈黙を埋めるように言った。
優一は気にした様子もなかった。手際よく、長いコードをテレビまで伸ばし、もう一本をコンセントへ向かって伸ばしていく。その途中で、僕に言った。
「古いよ。僕が子供の頃のやつだから。でも、これが一番面白いんだ。今のゲームじゃ、こんなに面白いものはもう作られてないよ」
少し手を止め、色のついたコードの先端に息を吹きかける。まるで埃でも払おうとしているみたいだった。そして、小さく唸った。
「くそ、どこだ?」
全部を接続するのにも時間がかかった。リモコンを探すのにも時間がかかった。そして、あの古いゲーム機が起動するまでにも、やっぱり時間がかかった。
その間、僕はベッドに座ったまま、足をぶらぶらさせていた。前後に揺らしながら、ただ待っていた。
やがて、優一がコントローラーの一つを僕に差し出した。
「できた」
僕はそれを受け取り、いくつもの形と色が並んだコントローラーを見て眉をひそめた。ゲーム機のことは覚えている。けれど、コントローラーの使い方は覚えていなかった。変な感じだった。
だから、何も言わずにそれを兄に見せた。僕の隣に座っていた優一は、すぐに意図を察した。
「ほら」
そう言って、コントローラーを僕のほうへ近づけた。それぞれのボタンが何をするものなのか説明してくれた。僕も、だいたいのことは理解した。細かいところは、遊びながら覚えていけばいい。
僕は焦った。腹が立った。苛立った。
「負けた」
「言った通りに動かさないからだよ」
僕はコントローラーをさらに注意深く見た。
「きっと壊れてるんだ」
コントローラーを持ち上げた。その瞬間、僕は現実に気づいた。
「……え?」
隣で優一が動いた気配がした。僕は、錆びついたネジでも回すみたいに、首をぎこちなく彼のほうへ向けた。まるで呪われた人形みたいだった。
「優一」
僕は恨めしそうに彼を見た。
「ん?」
「なんでコードが抜けてるの?」
僕は、ゲーム機に繋がっていないコントローラーのコードを見せた。
優一は黙った。
「優一さん」
「……ごめん」
そんな感じの言葉が、優一の口から漏れた。
「お前……」
すると優一は顔を横に向け、堪えきれなかったように、小さく笑った。
「……ぷっ」
「お前ぇ!」
僕は苛立ちのまま、優一に飛びかかった。けれど、僕が殴ろうとしても、優一にとってはどうということもなかったらしい。それどころか、揉み合っている間、優一は何も言わなかった。
ただ笑っていた。
僕を笑っていた。
僕も思わず鼻を鳴らした。腹が立った。けれど、そのうち僕まで笑ってしまった。優一の笑いが、うつったからだ。
だから僕は、彼の頬をひっぱたいた。
今日は、今日は幸せだった。
みんな、絶対に忘れないでくれ。今日という日を。この日付を。だって、今日の僕は、本当に幸せだったんだから。
振り返ってみれば、あの日々に何の不満もない。ずっと後になってからも、それは変わらなかった。そして、何も知らなかったことが、僕を穏やかに生きさせてくれたのだと思う。
だから、あの記憶を恨んではいない。




