第63章 『兄弟 』( 1 )
第63章 『兄弟 』( 1 )
海斗の視点
平穏に過ごしていると、日々があまりにも早く過ぎていくのは不思議なものだ。軽やかで、生きるのも楽だ。やがて、その日々に何があったのかさえ思い出せなくなる。過ぎ去った時間の中で記憶に残るのは、ほんの些細なことばかりだ。なぜか脳が、何もなかったことにはしてくれないような出来事や会話。そういうものだけが、いつまでも残っている。
たとえば、病院でゆっくりと回復していったあの頃のことは、ほとんど覚えていない。中には、どうでもいいようなことさえあった。
その証拠に、午後二時のリハビリを終えたあと、昼食のときに取っておいた果物――確か、りんごだった――を喉に詰まらせた日のことは、妙にはっきりと覚えている。そして、死ぬかと思ったことも。
それから、床を拭いたばかりのところで、まだ思うように動かない両脚と床に見事に足をすくわれ、男らしくない声を上げながら尻から転んだ日のことも覚えている。笑ってしまう。あれは恥ずかしかったし、痛かった。まさか骨でも折れていないかと、レントゲンまで撮られることになるなんて、誰が思うだろう。
それから、以前にも話したあの看護師との午後のことも覚えている。小柄で、少し太っていて、お世辞にも美人とは言えない。けれど、好感の持てる――そう、好感の持てる――女性だった。それに、妙に黄色い靴下を履いていた。
身の回りの世話をしてもらっている最中、彼女は長いこと、しかも顔が触れそうなくらい近い距離から僕を見つめていた。そのとき僕は、一瞬、本当にキスされるのかと思った。それほど近かったのだ。僕の顔をじっと見つめ、瞬きひとつしない。そうされては、ほかの可能性を想像するほうが難しい。
当然のことながら、僕は彼女のキスを受け入れることにした。目を閉じ、その瞬間を待った。嫌悪感もなければ、拒む理由もなかったからだ。
ところが彼女は、僕の顔をつかむと、無理やりまぶたを開いた。
「動かないで。今日は瞳孔を診るから」
そう言って、僕の目の前に懐中電灯を突きつけた。あまりの眩しさに、僕はしばらく目が見えなくなった。
もちろん、そんな取るに足らない、ほとんど馬鹿げた記憶ばかりではない。もっと大切に覚えていることもある。
たとえば、優一が新しいスマートフォンの設定を手伝ってくれた日のことだ。
彼が見舞いに来てくれている間、僕たちはずっとそれをやっていた。僕があまりにも不器用なせいで優一が苛立つこともあれば、僕が彼の気の短さに腹を立てることもあった。
まず、別の携帯電話を使ってメールアドレスを作り、それに紐づくアカウントも一通り用意しなければならなかった。昏睡する前に使っていたパスワードなど、僕にはもう思い出せるはずもなかったからだ。そのうえ、以前のスマートフォンは事故で壊れてしまっていた。だったら、昔のアカウントを取り戻そうとするより、新しく作ってしまったほうが早かった。
それに、そうしてくれと押し切ったのは僕自身だった。
自分の過去を見ることが、なぜだか怖かったのだ。分かってもらえるだろうか。思い出したくなかったわけではない。ただ、以前の自分――自分の情報や、インターネットで何を検索していたのか、誰とどんなメッセージを交わしていたのか――そういうものを目にしてしまえば、昔の自分を受け入れざるを得なくなる。僕にとっては、見知らぬ人間でしかないあの頃の自分を。
けれど、記憶を失うということは、最初に想像する以上に厄介な問題を連れてくる。
簡単なことすら、どうやってやればいいのか分からなくなるのだ。たとえば、電子レンジの電源を入れる方法は覚えているのに、使い方が分からない。まるで、テレビでしか見たことのない人間が、ようやく自分の電子レンジを手に入れたものの、どう使えばいいのか分からないようなものだ。温度の設定、時間の設定、それぞれのボタンが何のためにあるのか……そういうことが分からない。
馬鹿なふりをしていたわけではない。ただ、『手順』の一部を覚えていなかったのだ。
どうやら、時間をかけて慣れなければならなかったのは、僕の両脚だけではなかったらしい。
漢字の中にも、思い出せないものがあった。
そんなわけで、僕と優一が新しいスマートフォンの設定を終えるまでには、ずいぶん時間がかかった。
「ここに指を置いて」
その日、優一が画面を指差しながら言った。
「もう置いてる。何も起きない」
少し苛立ちながら答えると、優一は僕の指を見た。
「指が乾いてるんだよ、海斗。ほら、もう少し強く押して」
「これ以上押したら画面を突き破って、お前の目でも突けそうだよ。やってるって。ほら、こうしてるのに動かない」
優一はため息をつくと、明らかにうんざりした様子で僕の親指をつかみ、指紋認証の部分に押しつけた。スマートフォンが、陽気な電子音を鳴らす。
僕はホーム画面をじっと見つめた。
「それで?」わざと興味のなさそうな声を出す。「もうインターネットに繋げる?」
優一は小さく笑うと、僕から端末を取り上げ、いくつか操作を始めた。僕は黙ってその様子を見ていた。
画面の上に身を屈める優一。その目に映る青白い光は、もうそれほど青白くは見えなかった。
そんな姿を見ていると、妙な満足感が湧いてきた。
やがて、優一は端末を僕に返した。
「よし。あとは一回電源を切って、もう一度つければいい」
僕は得意げにスマートフォンを受け取った。鼻から息を吐き、言われた通りにする。
その最中、優一が続けた。
「これでもう退屈しなくて済むな。大輝にも話してある。好きなだけ使っていいってさ」
僕はスマートフォンの電源が入るのを待ちながら、その言葉を聞いていた。
「だから、もう問題ない」
そこで、僕の手が止まった。
僕の様子がおかしいことに気づいたのだろう。優一が尋ねる。
「……今度は何だ?」
僕は彼を見た。そして、できる限り満足そうな笑みを浮かべて、小さな声で言った。
「今度は問題がある」
「何?」
「さっき作った新しいパスワード、今忘れた」
あの日の優一の顔を言葉で表現するのは難しい。
どうやら、彼も僕に対して怒ることがあるらしい。
もっとも、正直に言えば、僕にはその反応がとても面白かった。
だって、僕は優一が好きだった。そうでなければ、どうして好きになれるというのだろう。
いい兄だった。
それを、優一は僕に示してくれていた。
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それから、優一が僕にチェスを教えようとした日のことも覚えている。
兄が僕にしてくれた、無謀で、強引で、それでも楽しかった行為の一つだ。
正直に言えば、僕はやりたくなかった。
チェスのやり方を知らなかったというのもあるし、盤の上で駒を動かして何が楽しいのか、僕には分からなかった。ボードゲームというものは、見た目以上に難しいことが多い。それに、僕は二、三個の説明を聞いただけですべてを理解できるような天才でもなかった。
「ほら、海斗」
優一はため息をつきながら、膝に肘をついて身を乗り出した。
「ルークが一番簡単だ。真っ直ぐにしか進まない。レールの上を走るみたいに、前でも後ろでも、左右でもいい。ただし、真っ直ぐだ」
「真っ直ぐ……」
僕はそのルールを無理やり頭に刻み込もうとしながら呟いた。
「そう。じゃあ、この駒を動かしてみろ」
僕は駒をつまみ、自然に思えた道を探すように、盤の中央へ向かって斜めに動かした。
優一は一瞬目を閉じ、深く息を吐いた。肩がほんのわずかに強張ったのが分かった。
「……何だよ」
僕は身を縮め、警戒するように尋ねた。
「それはビショップだ、チビ。ルークは斜めには動かない」
「チビ? 今、チビって言ったか?」
僕は憤慨したが、優一は僕の怒りなど気にも留めなかった。
僕はベッドの上に座ったまま姿勢を整え、背筋と顎を伸ばすと、自分の駒の動きは間違っていないとばかりに言った。
「お前が言ったんだろ」
僕は顎でルークを指した。
「左右に動くって」
優一も椅子の背もたれに身を預けた。
「真っ直ぐって言ったんだ。斜めとは言ってない」
そう言って、ルークを元の位置に戻す。
「無理するな。まだ頭が半分壊れてるんだから」
その言葉は気遣いというより、むしろ叱責に聞こえた。
おかげで、僕はますます落ち着かなくなった。
「じゃあ、どうしてルークはこう動いちゃいけないんだ?」
僕が食い下がると、優一はもう僕を見ていなかった。盤上の駒を正しい位置に戻すことに集中している。
「そういうものだから」
「でも、どうして?」
僕は腕を組んだ。
優一は、馬鹿を見るような目で僕を見た。けれど、僕もその視線を受け止めた。
「ルールだからだ」
「じゃあ、そんなの馬鹿げたルールじゃないか」
認めよう。僕はただ兄を困らせていただけだ。
自分が明らかにやりたくないことを無理やりやらされていること。そのうえ、優一が僕の気持ちなど考えていないことに腹が立っていた。
僕たちは互いに目を合わせた。
「ただのゲームだろ、優一。そんなにルールを真面目に考えなくてもいいじゃないか」
「ルールがあるから、ゲームは公平になるんだ」
「何が公平なんだ?」
優一は目を細めた。
「ルールっていうのは……」
「それこそ馬鹿みたいだ」
僕は言葉を遮った。
「くそっ、海斗。わざと俺を怒らせてるのか?」
僕は数秒黙った。
それから横を向き、考えているふりをしてから答えた。
「どうしてそう思うの?」
優一は鼻を鳴らし、僕のほうへ身を乗り出した。
怒っているようだった。でも、そんな苛立った顔を見ているのが、僕にはやっぱり面白かった。
「弟よ、俺を泣かせたいのか?」
僕は肩をすくめた。
「どうしてそう思うの?」
僕たちはしばらく見つめ合った。
やがて、先に目を逸らしたのは優一だった。
「……もう一回やるぞ。俺からな」
彼はポーンを一マス前へ動かした。
僕も同じように動かした。まるで彼の真似をするように。
すると優一はナイトを動かした。
僕は最初に動かしたポーンをつまみ、元の位置へ戻した。
優一は苛立った顔で僕を見た。
けれど僕は、本気で何が悪いのか分からないという顔をしてみせた。
「駄目だ」
優一は小さな声で言った。
「ポーンは後ろには動かせない」
僕はできる限り穏やかな顔を作り、もう一度尋ねた。
「どうして?」
「駄目だからだ」
「でも、どうしてだよ? 痛い!」
突然、優一の拳が僕の頭に落ちた。
何……?
痛かった。歯がカチンと鳴るほどだった。
そして、僕の中に大きな憤りが生まれた。
あれが、兄に殴られた初めての経験だった。
僕はそれがあまりにも許せなくて、その日一日、優一とは一言も口を利かなかった。
僕は優一を嫌った。
どうして嫌わずにいられるだろう。
あいつは、悪い兄だった。
僕を殴ったのだから。
****
それから、はっきりと覚えているわけではない。むしろ熱に浮かされたような、ぼんやりとした夢のような記憶なのだけれど――確かに現実にあったこととして覚えている日々がある。
病院の裏手にある小さな公園を、誰とも一緒に歩くことなく、長い時間かけて歩き回っていた日々だ。
悪態をつき、ぶつぶつと独り言をこぼしながら。
兄を憎みながら。
僕を殴った。ただ、それだけのことで僕は兄を憎んでいた。その小さな行為ひとつだけで、どうしようもなく。
それは、理屈ではなかった。
腹の底から湧き上がってくる、どうしようもなく生々しい感情だった。
顎を引き、前を向き、足早に歩く。
病院の裏手にある公園。その外周を囲む細い石畳の上を、僕はそんなふうに歩いていた。
誰かにぶつかっても立ち止まらなかったし、謝りもしなかった。
腹が立っていた。
そして、僕の頭の中にあったのは、誰が考えてもろくでもないことばかりだった。
『呪われろ』
僕は兄にそう言っていた。
『千回でも呪われろ、優一。ゴミ以下だ』
『よくもやったな。どうして僕を殴れた? お前……はぁ……お前は、自分を何様だと思ってるんだ?』
『仕返ししなきゃ。復讐だ。そうだ。それしかない。そうすれば、僕はようやく自分が報われたと思える』
『でも、どうすればいい? 苦しませてやる。当然だ。でも、どうやって苦しませればいい?』
『それでも、僕は復讐する。いつかお前の前に立って、お前が僕にしたことを全部言ってやる、優一。一つも残さず』
『どれだけ苦しんだか、どれだけ長い間お前に耐えてきたか、どれだけ何度も、これ以上面倒なことにしたくなくて黙ってきたか。全部、お前の顔を見ながら言ってやる。そして殴る。そうだ』
『自分の兄を殴る。お前のほうが僕より強くたって構わない。殴り返されても構わない。僕は殴りたい』
『たとえ一瞬でも、僕が自分の身体で味わったものを、その身体で少しでも感じさせてやりたい』
『どうしてやっちゃいけない? お前は僕に何かしてくれたのか? 兄として、僕に配慮したことがあったか? 僕を傷つけただろ? 僕だって、少しくらい思いやられてもいいだろ?』
『ほんの少しでいい。それくらい求めてもよかっただろ? 僕はまだ学んでいる途中なんだ。自分が何者なのか、まだ探している途中なんだ。そんな僕に、よりによってお前には、僕を待つくらいの余裕があってもよかったはずだ』
『くたばれ』
突然、そんな考えに苛まれ、僕は足を止めた。
床を見つめる。
首を横に振る。
罪悪感を振り払うようにして、それからまた歩き始めた。
今度はゆっくりと。
とてもゆっくりと。
歩きながら、僕の思考はまだ続いていた。
『お前が兄だから、呪ってやる。兄だからだ。兄である以上、僕はお前についていくものなんだろ。お前を見て、学んで、お前の歩いた道を基準にしていくものなんだろ。お前が僕の前を歩いて、その背中から、真似できるものを見つけるものなんだろ』
『でも、お前は僕に何をしてくれた? お前の何を見て、僕はついていけばいい? お前は僕にとって、手本なのか?』
『違う。違うだろ。今までのお前は、僕が憧れられるような人間じゃなかった。僕が何かを学べるような人間でもなかった。だったら、僕はお前の何を真似すればいい?』
『お前が、間違っていると分かっていることを平気な顔でやっているのを見て、僕は思う。そんなものを見て、僕は何を学べばいいんだ?』
『僕は学びたくない。お前みたいになりたくない。違う人間にならなきゃいけない。お前とは違う人間に』
『お前は、自分に与えられた役割を果たすことが、ひどく下手だ。僕を守るはずだった。僕に我慢強く接するはずだった。僕のことを気にかけるはずだった』
『僕はお前を大切にしてきた。そして、それを示してきた。お前に我慢してきた。お前に言われたことをしてきた。お前についてきた。お前の服を着て、お前の好きなものに合わせて、お前の遊びを一緒にやった。何度も、僕がやりたいことじゃなくても、お前が望むことをしてきた』
『それで、僕が受け取ったものは何だ? 僕が僕自身であろうとしたら、お前は僕を殴る。痛いんだ。どうして僕を殴る?』
『僕はもう、お前に対して自分の役割を果たした。どうしてお前は僕に対して自分の役割を果たさない? ほら。お前は兄として不十分なんだ。お前の中に、僕が憧れられるものなんて何もない。ついていきたいと思えるものも何もない』
『お前は、憧れるということさえ間違えるんだと、僕に早すぎるくらい教えてくれた』
『だから、僕はお前を憎んでいるのかもしれない』
僕は足を止めた。
頭の中が、一瞬だけ静かになった。
そして、もう一度。
『お前が僕の兄だったからだ』
『それがお前の役割だった。僕が生まれたときから、お前に与えられた役割は、僕を愛して、育てて、面倒を見ることだった。僕より先に生まれた。ただそれだけの理由で、お前は僕を見守る役目を背負わされたんだ』
『なのに、お前はそれを果たさなかった。お前は、自分の役割を果たさなかった』
『お前は、僕が必要としていた人間じゃなかった。たぶん、父さんと母さんがお前に望んでいたような人間でもなかった』
『憎いよ、兄貴』
『お前なんか最低だ、兄貴』
『僕はお前に失望した、兄貴』
『もう、お前には何も求めない、兄貴』
『はぁ……神様。恥ずかしいよ。正直、もうお前には何も期待していない、兄貴。何一つまともにできていないじゃないか、兄貴』
『だから、僕がやるしかない。自分で学ぶしかない。自分とは違う人間になる方法を、自分で学ぶしかない。お前とは違う人間に。そして、いつかできるかもしれない。いつか、自分が誇れるような人間になれるかもしれない』
『でも、その日が来ても、それはお前のおかげじゃない。お前がいたからじゃない。お前がいたのに、それでも僕はそうなったんだ』
『そして、お前が兄として失敗した証拠は、僕が大人になって、お前と同じ年齢になったとき、お前とは違う人間になっていることだ』
僕がどれだけのことを考え、あの病院裏の公園の外周を何周したのかは分からない。
というより、自分というものを意識したのは、脚が疲れてからだった。
自分が存在していること。
自分が生きていること。
そのことに、ようやく気づいた。
確かに、以前と比べればずいぶん歩けるようになっていた。
けれど、それは完全に回復したという意味ではない。
このまま歩き続ければ痛みが強くなる。そう分かっていたから、僕は部屋へ戻ることにした。
考えるのをやめた。
すると、ほんの少しだけ頭の中が静かになった。
歩きながら、僕は足を引きずっていた。靴底が石畳を擦り、その音が響く。靴底も少しずつ削れていった。
気分が楽になったわけではない。
歩けばいつものように心が落ち着くと思っていたのに、今回は違った。
むしろ、良くなるどころか悪くなったような気さえした。
ようやく建物の大きな入口が見えてきた。
カーブを抜けたところだった。
その入口の柱の一つに、誰かが寄りかかっているのが遠くに見えた。
僕は足を止めた。
誰なのか、分かっていた。
そんな遠くから、はっきり見えるわけではない。何しろ、僕は半分目が見えないのだ。
それでも、何かが僕に告げていた。
あいつだ。
僕の、憎い兄だ。
見る必要すらなかった。
そう分かった。
それに気づいた瞬間、僕はびくりとした。
脚の痛みに押しやられていた怒りが、一気に戻ってきた。
身体が震えた。
背筋を伸ばす。
顔には奇妙なしかめ面が浮かんだ。
そして、僕はまた、濁った思考の中へ沈んでいった。
『クソ。何しに来た? 何様のつもりでここに来たんだ? もう我慢ならない。言ってやる。絶対に聞かせてやる』
僕は強く足を踏み出し、視線を逸らさずに彼へ向かって歩き始めた。
まるで獲物を定め、ただ殴るためだけに近づいていく人間のように、周囲のことなど一切気にせずに。
『見てろ。分からせてやる』
十歩ほどまで近づくと、ようやくその姿がはっきり見えた。
『あいつだ。間違いない』
さらに八歩。
『クソ兄貴』
あと五歩。
『お前』
三歩。
「海斗?」
まっすぐ近づいてくる僕を見て、優一が声をかけた。
あと二歩。
『お前!』
一歩。
『お前だ!!』
そして、僕は足を止めた。
「か、海斗……どうしたんだ? なんでそんな目で俺を見る? なんでそんなに近いんだ?」
僕たちは向かい合っていた。
僕は答えなかった。
優一は最初こそ不思議そうに僕を見ていたが、やがて警戒するような目つきになった。左右を見回し、それから再び僕へ視線を戻す。
そして、本当に困惑した様子で、慎重に尋ねた。
「何か、嫌なことでもあったのか?」
一秒ほどの沈黙があった。
僕は一度も視線を逸らさなかった。
そして、ようやく唇を開いた。
僕の口から出たのは、たった一言だった。
「……お前が嫌いだ」
言った瞬間、舌が焼けるようだった。
優一は動かなかった。
完全に固まっていた。
そして、馬鹿みたいに尋ねた。
「……え?」
その瞬間、僕は崩れた。
僕の中で、何かが小さく瞬きをしたような気がした。
無意識に二歩後ろへ下がり、少しだけ身体を傾ける。
「昨日のこと、ごめん」
頭を下げたまま、僕は続けた。
分かってほしいとは思わない。
僕自身、ときどき自分のことが分からないのだから。
「昨日は、やりすぎた」
小さな声でそう言って、頭を掻く。
顔を上げたものの、優一の目は見なかった。
「ただ、しつこくしただけで……その、調子に乗りすぎたんだと思う」
僕はため息をついた。
「だから、その……ごめん」
僕は優一が嫌いだった。
そう言った。
けれど、同時に僕は優一が好きだった。
それだけは、絶対に口にはしない。
死んでも言わない。
この先、どれだけ時間が経っても、きっと言うことはないだろう。
ああ、まったく。
僕は、ずいぶんおかしな人間になってしまったものだ。




