第70章 『死んだほうがまし』
優一の視点
午後四時を回った頃、僕はいつもの倉庫に大輝を呼び出した。狭く、埃っぽい、いつもと変わらない空間。消毒液の臭いも相変わらずだった。もっとも、あの診療所はどこもかしこも、多かれ少なかれ消毒液の臭いがする。海斗はよくあんな臭いに耐えられるものだと、以前から不思議に思っていた。幸い、海斗はこの倉庫に足を踏み入れたことがない。ここでは段ボール箱からさえ悪臭が漂ってくるのだから。おそらく、ほとんど掃除をしていないせいだろう。たまに掃除をしたところで、やる気など欠片もない。床に消毒液を半分ほどぶちまけ、段ボールに飛び散らせて終わりだ。
そんな場所で煙草を吸っても、ちっとも気分はよくならない。それでも認めざるを得なかった。海斗がまだ昏睡状態にあった頃、僕はここでよく煙草を吸っていた。
とはいえ、昔のことを思い返している場合ではない。今、僕の機嫌を損ねている本当の理由は、大輝が遅刻していることだった。四時に来るよう伝えていたのに、すでに十五分も過ぎている。そういうわけで、さっきまでの愚痴は、実のところ大げさに言っていただけにすぎない。
もちろん、大輝が遅れているのには理由があった。彼もまた苛立っているのだろう。ただし、僕とはまったく別の理由で。今朝、僕たちが交わした短い会話に腹を立てているのだ。
午前十一時頃、ちょうど海斗が病室で僕たちを二人きりにしてくれたときのことだ。僕は大輝を連れて、今と同じこの倉庫に入った。あのときは、狭さも臭いも、今ほど不快には感じなかった。そこで僕は、今朝になってようやく確認が取れたことを伝えた。麗華-sanの出張が間もなく終わり、遅くとも金曜日には街へ戻ってくるという話だった。
今日は月曜日だ。つまり、海斗をどうするのか、早急に決めなければならない。
大輝はその話を聞いて、露骨に顔をしかめた。僕が話し終えるや否や、彼は尋ねた。
「もう少しだけ、彼女を引き止めることはできないのか?」
僕は無理だと答えた。そんな簡単な話ではない。そして、諦めにも似た口調で付け加えた。
「使える伝手は全部使い切った。もともと八日間の予定だった出張を、ほぼ三倍にまで延ばしたんだ。でも、もう限界だ」
大輝は聞く耳を持たなかった。両手で頭を掻きむしりながら、狭い倉庫の中を行ったり来たりし始めた。この広さでは、せいぜい四歩も進めば方向を変えなければならない。それでも彼は何度も同じ動きを繰り返した。ときおり立ち止まっては、意味のわからない言葉を口の中で呟き、顔をこすり、手近にある箱を蹴飛ばした。
「いや、いや、いや。どうするんだよ、これから!」彼は今にも叫び出しそうな声を上げた。「どうすればいいんだ? 全部うまくいってると思ってたんだぞ! お前がそう言ったから、僕は信じたんだ。信じたんだぞ!」
正気を失いかけていた。まともに話し合える状態ではないことは、すぐにわかった。それでも、この問題をいつまでも先送りにするわけにはいかなかった。
「落ち着け」
「落ち着けだって? 頼むから、そんなことを……」
「落ち着け。ひとまず一人にしてやる。夕方にまた来るから、それまでに頭を冷やしておけ。今日中に決着をつけなければならない」
大輝が突然、指を突きつけてきた。
「いや、もう来るな。二度と来るな。というか、今日中にお前の弟を連れて帰れ。あとは勝手に何とかしろ」
話にならなかった。僕はため息をつき、彼のうわごとを無視して背を向けた。
そして夕方、約束どおり戻ってきた。残された時間があまりにも少ない以上、これからどう動くかを決めることが何より重要だった。それに、僕の中ではすでに方針が固まっていたが、それを実行するには大輝の協力が必要だった。だからこそ、計画の少なくとも一部は彼に明かさなければならない。
今朝の一件で、彼はまだ冷静さを取り戻せていないのだろう。昼の話し合いから数時間しか経っていないうちに、僕がこの会合を知らせるメッセージを送っても、返事はなかった。それでも、彼が来ることだけはわかっていた。大輝はいつだって来る男だった。
しかし、四時四十分を過ぎても姿を見せない。さらに五分待ったが、それでも来なかった。
いい加減、待つのにも飽きた。電話をかけようとした、そのときだった。呼び出し音が一度鳴るか鳴らないかのうちに、ようやく倉庫の扉が開いた。
大輝だった。
僕はできる限り苛立ちを抑えた。もともと、感情を押し殺して平静を装うことだけは得意だったから、さほど難しくもなかった。
「それで、少しは落ち着いたか?」
これから始めなければならない厄介な話し合いに、どうにか切り出した。
大輝は腕を組み、鼻を鳴らした。
「本当に理解できない。お前、全部うまくいってるって言ったよな」
またその話か。
「なあ、大輝。麗華・黒田をただ縛り上げて動けなくするわけにはいかない。その理由を説明しないと話が進まないっていうなら、説明してやるよ」
大輝は何も答えなかった。それどころか、こちらをじっと見つめてきたので、僕はそのまま続けた。
「麗華はそこら辺にいるような女じゃない。黒田家の人間だ。藤村家にとっても、極めて重要な家柄だ。だから、彼女に危害を加えることはできない。そもそも、敵対すること自体、本来なら避けるべきなんだ」
すると大輝は、鼻で笑った。嘲るような笑いだった。
「頼むから、素直に認めろよ」
どうやら僕を怒らせたいらしい。
「何を認めろって?」
できる限り平静な声で尋ねた。
大輝が一歩踏み出した。
「何をすればいいのかわかってないってことだ。とっくに手に負えなくなってるんだよ。もう状況を制御できてない」
今度は僕が笑いたくなった。
「一つ、勘違いしているぞ、大輝。まだ主導権は僕が握っている」
「勘違いしてるのはお前だ、優一」
大輝は僕の目をまっすぐ見据えて言った。
「お前がどれだけ芝居を打とうが、何を告白しようが、現実は変わらない。とっくの昔に、事態を動かす力なんて失ってるんだよ」
「じゃあ、ここで何が起きるかを決めているのは誰だ?」
「まだわからないのか? こんな不自然なやり方で無理やり押し通そうとしてる時点で、答えは一つしかない。あの女に追い詰められて、彼女が指一本動かすかどうかで、お前の決断まで左右されるようになってるんだ。しかも、彼女はほとんど本能だけでそれをやってのけた。駆け引きなんて知らないくせに、あの姓とお前の家とのつながりだけで、お前を怯ませてる。お前は彼女に手出しできない。彼女だって、それをわかってる。だから、期限を突きつけて姿を現すだけで、お前を追い詰められるんだよ」
大輝は一瞬、口を閉ざした。それから再び口を開いた。
「そんなこと、僕だってわかってる。黒田家の人間をお前の思いどおりに従わせるなんて、できるわけがない。それくらい理解してるさ」
彼は自分の胸を指さした。
「うちの家が藤村家みたいな名家じゃなくたって、権力を持った連中が何をしてるのかくらい知ってる。あれは危険なゲームだ。どちらも家の前では体面を保たなきゃならないから、好き勝手には動けない。手足を縛られた者同士の喧嘩みたいなもんだ。けど、お前はさらに不利だ。麗華だけじゃなく、お父さんとも対立してるんだからな。もう時間切れだ。麗華はそれをよくわかってる。お前は追い詰められ、彼女の勝ちだ」
「いや、彼女は僕に勝っていない」
僕は正直に答えた。
「海斗に僕のための嘘をつかせることができれば、彼女の勝ちにはならない。確かに、麗華は海斗を欲しがり、手に入れた。親権という意味では、海斗は実質的に彼女のものだ。けど、僕が海斗に黙っていてもらえるなら、彼女に負けたところで構わない」
負け戦であることなど、とうにわかっていた。
そもそも、互いの家の前で体面を保つ必要さえなければ、麗華と僕は容赦なく相手を叩き潰していたかもしれない。実際、もし彼女に危害を加えることが許されていたなら、僕は迷わずそうしていただろう。
その証拠が海斗だ。あいつは僕の弟であり、僕はその立場を利用して、あいつに最大の苦痛を与えた。身内であるがゆえに、そうすることが許されていたからだ。
一方、麗華には指一本触れることさえ許されない。同じように、彼女も藤村家の人間には手出しできない。僕たちはただ手足を縛られているどころではなかった。半身不随も同然だったのだ。互いに与えられるのは、視線で傷つけ合う程度のものにすぎなかった。
「わかった。お前には何をすべきかわかってるんだな。だったら、教えろよ。これからどうするつもりだ?」
ようやく大輝が尋ねた。
「海斗の記憶は戻ってない。あいつがお前の言うことを聞くと思うのか? それとも、昏睡状態のままのもう一人の少年を、本物の海斗だとあの女が信じるほど馬鹿だとでも思ってるのか? もしそうなら、そもそもこんな問題にはなってないだろ」
しばらく沈黙が流れた。
やがて僕は、落ち着いた声で答えた。
「言うことを聞かせる」
「どうやって?」
大輝は間髪入れずに問い返した。
「『弟よ、あの女が来たら、何も覚えていないと言ってくれ』とでも頼むのか? 悪いけど、その考えには二つ問題がある。まず一つ目。海斗が目を覚ましたことを、どうして麗華に知らせなかったのかと聞かれる。二つ目。そんな嘘は長く続かない。海斗の記憶が戻り始めてることくらい、お前もわかってるだろ。ゆっくりでも、いずれ全部思い出す。そうなったら、どうするつもりだ?」
「記憶が戻ったとき、僕に騙されたことを恨んで、麗華にすべて話すんじゃないか、ってことか? ああ、そうなるだろうな。そんなことはわかってる。僕だってそこまで甘くないし、海斗も、こんな裏切りを黙って見過ごすほど弱くはない」
「だったら詰みだ。もう打つ手なんてない……いや、待てよ。ひとつだけ……」
大輝は数秒、黙り込んだ。それから僕を見た。
「いっそ、あいつを消してしまえばいい」
僕が言葉を継ぐと、大輝は何も答えず、ただ肩をすくめた。
「できないことはない」
僕は率直に認めた。
客観的に考えれば、実際にそうすることも考えていた。それが最も合理的な答えだった。だが……。
「そんなことをすれば、一生消えない敵を作るだけだ。麗華は絶対に許さないだろうし、どんな反応をするかもわからない。それに、あの衝動的な性格を考えると、危険は冒したくない」
大輝は今度こそ、本気で笑った。
「何がおかしい?」僕は苛立ちを強めて尋ねた。
「信じられないな。本気で言ってるのか? 前にだって、ほら……」大輝は両手を曖昧に動かした。「お前の弟がまだ目を覚ましていなかった頃、僕たちはあいつを……。それなのに今さら、消さないほうがいいって言うのか?」
何を言いたいのかはわかった。
海斗がまだ昏睡状態から目覚めていなかった頃、僕は大輝に、あいつを殺すよう命じていた。正直に言えば、あのときすべてを終わらせておくべきだったのだろう。
では、なぜ今になって、僕はそれを拒んでいるのか。
情が移ったわけでも、心が弱くなったわけでもない。答えはもっと単純だった。
「前はアリバイがあった。今はもうない」
「アリバイ? どういう意味だ? 麗華-sanを足止めする方法があるって言ってたくせに、今度はないと言うのか」
「その『もの』を失った、とでも言っておこうか。いや、そもそも本当に持っていたわけじゃない。ただ、もう利用できなくなったんだ」
大事なのは、僕には大輝に話す必要のない事情があり、話すつもりもないということだった。
「だから……」
僕はゆっくりと口を開いた。聞き返されずに済むよう、言葉を区切ってはっきりと告げる。
「海斗に真実を知らせる必要がある。すべてをな」
大輝は凍りついた。
「……は?」
「ああ」
結局のところ、それ以外の方法は、時間が経てばいずれ破裂する、その場しのぎの処置にすぎない。
「今度こそ、すべてに決着をつける」
「海斗に記憶を取り戻させるつもりか……」
大輝は額を押さえた。
「わかってるのか? 記憶なんて、本人のペースで戻るものだ。こっちに残されてるのは、ほんの数日しかない。それでどうやって思い出させるつもりだ?」
「簡単だ。無理やり思い出させる。そして最後には、あいつに僕を憎ませ、恐れさせる。すべてが起きる前の海斗がどんな人間だったのか、あいつ自身に思い知らせるんだ」
僕は大輝に一歩近づいた。そして、口を挟む隙も与えず、一気に言葉を吐き出した。
「こうするしかないんだ。海斗を、海斗に戻す必要がある。そう、僕にはそれが必要なんだ。ずっと考えていたんだよ。ほかにどんな手があるのか、まだ何ができるのか、あらゆる可能性を考えた。でも、もう時間がない。あと四日。たった四日だ。けど、その四日で片をつける。海斗を目の前に座らせる。ベッドに座らせて、僕は二歩ほど離れたところに立つ。それから、あいつの目を見てこう言うんだ。『お父さんは、お前がいい息子じゃないから殺そうとしたんだ。あの人にとって、お前は出来損ないだからだ』ってな。容赦なんかしない。そんなことはどうでもいい。海斗を海斗に戻す必要があるんだ。すべてを話してやる。あいつはずっと一人だったことも、お父さんにも、お母さんにも、麗華にも、ただの取引材料としてしか見られていなかったことも」
僕は笑みを浮かべた。
大輝は恐怖に顔をこわばらせ、ただ黙って僕を見つめていた。
「それに、目をそらすことも許さない。聞かなかったふりもさせない。僕の話を最後まで聞かせる。わかるか? 僕の言葉を受け入れさせるんだ。たとえそのために僕のための嘘をつかせることになろうと、僕を憎ませることになろうとな。海斗を海斗に戻す必要があるんだ。残された時間は四日しかない。抵抗したって無駄だと教えてやる。お母さんはあいつのことなんか、これっぽっちも気にかけていないこともな。あいつが結婚させられたことも、僕たちが実質的に売り渡したようなものだということも、全部話してやる。そして最後に、麗華-sanには嘘をつけと言う。本当に事故だったと信じ込ませろ、と。そう言えば、あいつはそのとおりにする。見ていればわかるさ。さらに、お父さんに殴られるとき、あいつが逃げられないように扉を押さえていたのは僕だと教えてやる。お父さんに、あいつを殴るための杖を渡したのも僕だと。そして、すべてを隠蔽したのも僕だとな。記憶が戻っていようがいまいが、そんなことは知ったことじゃない。これが真実だ。そして、嘘をつくほうが賢明なんだと、そう言ってやる」
僕が一気にまくし立てると、大輝はようやく口を開いた。
「……お前、いったいどうしちまったんだ?」
「どうしたって? 何を言ってるのか、さっぱりわからないな」
本気でそう思った。
「お前、昔からそんな人間だったのか?」
「何の話だ? 僕はずっとこうだよ。これが僕の本性だ。まさか、少しは変われるとでも思っていたのか?」
僕は笑った。
「僕が反省して、二人で贖罪の物語でも始めると期待していたのか? 本気で? やれやれ、大輝。これだけのことがあって、まだ僕を信じているのか? 僕がどういう人間なのか、まだ何もわかっていなかったんだな」
最後に、大輝はまた言葉を詰まらせながら尋ねた。
「でも……海斗がお前を憎むようになったら、すべてを麗華に話さないって保証はどこにある? あいつの憎しみが、恐怖を上回らないと、どうして言い切れる?」
「話さないさ。あいつは僕の弟だからな。記憶があろうとなかろうと、海斗の本質がどういうものか、僕はよく知っている」
そう言って、僕は肩をすくめた。
「まあ、そういうことだ。うまくいくよ。見ていればわかる。僕は自分の弟に、そうしてやるつもりなんだ、大輝。あいつの目を見て、この上なく正直に、こう言ってやる。お前は死んだほうがましだ、ってな」
大輝は完全に黙り込んだ。
顔色は真っ青だった。けれど、僕にはどうしてそこまで怯える必要があるのか、理解できなかった。
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