第60章 『眠ることは誰にとってもいいことだ』
兄を起こさないように、僕なりにできる限りのことはした。――『兄』。『兄』か。なんだか、やけにいい響きだ。
とはいえ、あの扉を開けないように、そこにいる全員を僕の思い通りに操れるわけじゃない。そもそも僕の手はあまりにも短いし、四歩以上歩けば眩暈がする始末だった。
だから、起こるべきことは起こった。
ただ、僕の病室の扉を開けたのは、朝の担当だった看護師二人と、鼻が小さくて少し禿げ上がったあの医者ではなかった。ちなみに、そいつらはストレッチと、あの恥ずかしい朝の清拭を担当している連中だ。
代わりに、扉を少しだけ開け、身体を半分ほど病室に突っ込んできたのは、もっと細身で、若く、無口で、細い眼鏡の奥にはいつも疲れ切ったような目をしている男――大輝さんだった。
「それで? 眠れた?」
まだ完全には病室に入ってもいないくせに、声を潜める気はさらさらないらしい。
僕がこれ以上ないほどの睨みを利かせると、大輝さんはただ肩をすくめた。腹が立った。音を立ててはいけないと分かっていなければ、思い切り怒鳴りつけていたところだ。
僕の機嫌を察したのか、大輝さんは少し気まずそうな顔をした。僕が半分目の見えない状態じゃなければ、もう少し詳しく描写できたのだが。
謝る気など微塵もないらしく、彼は今度こそ声を落とし、手招きするような仕草をしながら言った。
「行くぞ。気をつけろ」
僕は後を追った。もちろん、楽ではなかった。
その中でも一番大変だったのは、音を立てずにベッドから降りることだった。それから少し脚を伸ばし、出口へ向かう直前には、扉の枠に身体を預けなければならなかった。まだ半分寝ぼけていた僕は、歩きながらぶつぶつと文句を言い、こんな朝っぱらから無理をさせる大輝さんを心の中で罵っていた。
一方の大輝さんは、すでに廊下で僕を待っていた。車椅子まで用意して。
どうやら、表には出さないだけで、大輝さんも優一が眠っていられるかどうかを気にしていたらしい。
僕がそれに気づくまでには少し時間がかかった。いつもの担当ではなく、わざわざあの朝、本人が来たのも、そのためだったのだろう。
そういうところは、少しだけ好感が持てた。おかげで彼に対する僕の評価も、ほんの少しだけ上がった。
……まあ、以前ほど嫌いじゃなくなった、といったところか。
僕たちは別の、そしてずっと離れた病室へ向かい、その時間のリハビリを行った。
地獄のような五十分だった。
そして病室へ戻ってきた僕は、優一がすでに帰っていることに気づいて驚いた。
その後も一日はいつも通りに進んでいった。
ただ、いつも以上に一日の流れが重く感じられた。
おそらく、昼になれば外へ出られるという約束を、僕が心待ちにしていたせいだ。
たとえほんの数分だけだったとしても、ここに閉じ込められている僕にとっては、外の空気を一度吸えるだけで十分だった。何もないよりは、どんな空気だってマシなのだから。
そんなわけで、僕は朝からずっと浮き足立っていた。
そして、気づけば何度も壁掛け時計を見ていた。
『もしかしたら、今日も優一が来るかもしれない』
『ひょっとすると、僕を外へ連れ出してくれるのも優一かもしれない』
実際、それが一番自然な話だった。何しろ、そう提案したのは優一自身なのだから。
だから僕も、無意識のうちに彼が来るのを楽しみにしていた。
けれど、時間だけが過ぎていき……何も起こらなかった。
誰も来ない。
僕の病室の扉が開くことも、一度もなかった。
十二時になった。
十三時……。
そして十六時になる頃には、外へ出ることを諦めた。
腹が立った。
ただ、僕の中の理性的な部分は、ずっとこう叫んでいた。
『僕、ただの癇癪持ちになってるぞ!』
けれど、僕はそれを聞き入れなかった。
すると今度は、頭の中でもう一人の僕が言った。
『馬鹿! こんな天気で誰か来ると思ってるのか!』
そう、天気の話だ。
午前十一時頃から崩れ始めた天候は、控えめに言っても、土砂降りだった。
いや、これで伝わるだろうか。
風がとんでもなく強くて、窓ガラスさえ今にも割れそうなほどだった。昼の太陽を覆い隠した黒い雲は、ほどなくして地上へと落ちてきたかのような猛烈な雨を降らせた。
雷まで鳴っていた。
まるで台風だった。
それでも僕は、ぶつぶつと悪態をついていた。
そして僕の中の、もっと理性のない、野蛮な部分はこう叫んでいた。
『裏切り者』
僕は心の中で、優一をそう呼んだ。
『嘘つき』
……はあ。
そもそも、どうして僕はあんなに期待してしまったのだろう。
責めないでほしい。
僕にとっては、あいつが唯一の話し相手だった。少なくとも一日に一時間は、僕が一人にならないようにしてくれる、地球上でただ一人、僕のことを気にかけてくれる人間だった。
理解してくれなんて言わない。
もしかしたら、あなたたちは一度もこんな気持ちになったことがないのかもしれない。
こうして語っていること自体、息苦しくて、単調で、同じことの繰り返しに感じるかもしれない。
でも、僕は毎日この病室で、まさにそんな気分だった。
日々は過ぎていく。
けれど、その日々の中では何も面白いことが起こらない。
だからこそ、僕は兄を――あのクソ兄貴を、憎んでいた。
****
第二部
嵐はようやく終わった。
もっとも、僕にとっては残念なことに、すっかり夜も更けてからのことだった。その夜も、僕はなかなか眠れなかった。とはいえ、昨日とは違う。脚が痛かったからではなく、ただひたすら腹が立っていたからだ。
その夜、僕は何か夢を見たような気がする。
ぼんやりしていて、ええと……その……。
……いや、忘れてくれ。
何でもない。
僕の気持ちとは裏腹に、朝はこれ以上ないほど明るく、清々しくやって来た。
風は止んでいた。通りに残った水たまりと降り注ぐ陽光との対比が、街全体に清潔で明るい雰囲気を与えている。
――まあ、想像だけど。
さっきも言った通り、僕は病室から出られないのだから。
その日はあまり口を開かなかった。
胸の中に残っていた期待も、ほとんど消えかけていた。
……ほとんど、だ。
「だから、うまくいくって言っただろ」
病室の外から誰かの声が聞こえた。
半分耳が聞こえない僕にまで届いたのだから、かなり大きな声で話していたのだろう。
「良くなることも過程の一部だよ。おかげで肩の荷が下りた」
「珍しく大袈裟だな」
「そうかもな」
病室の扉が開き、二人の男がまるで自分たちの家であるかのように入ってきた。
「やあ、海斗。調子はどうだ?」
大輝さんが僕のベッドの前に立ち、テレビの視界を完全に塞いだ。
僕は眉間に皺を寄せた。
「暇」
あまりやる気のない声で答える。
大輝さんは困惑したように瞬きをした。
そこで僕は、これ以上ないほど感じの悪い笑みを浮かべた。
ようやく僕の視界を塞いでいることに気づいたらしく、大輝さんは後ろを振り返り、短く「ああ」と漏らした。
だが、動かない。
この野郎。
せっかく少しばかり上がった僕の中での評価は、一瞬にして消し飛んだ。頭の中では、こいつをゴキブリよりもさらに下の階層へと叩き落とした。
「今日はもう天気もいいぞ」
大輝さんと一緒に来たもう一人が言った。
それを聞いた僕は、長く、大きなため息を吐いた。
「そうだな。最高の一日だ」
ところが、そちらへ目を向けた僕は、思わず驚いた。
「どうした? なんでそんな顔で僕を見る?」
優一だった。
「そんな顔って?」
大輝さんが口を挟む。反対側にいるせいで、僕の表情までは見えていないらしい。
「まるで……」
優一が考えるように言う。
「死んだ奴でも見てるみたいな顔」
僕が言葉を引き取った。
僕の硬い声に、兄は舌を鳴らすような妙な音を立てた。
「ああ、それか。どちらかと言えば、知らない人間でも見てるみたいな顔だな」
大輝さんがそう言いながら回り込み、優一の隣へ移動した。
「それはそれで、全然親しみがないな」
優一が小声で言った。
けれど、僕は彼から目を離せなかった。
怒っていたわけじゃない。
……いや、少しは怒っていたけど。
それよりも、困惑していた。
今日の優一は、いつもと違っていた。
僕はもう、青白く、目の下に隈を作り、半分死んだような顔をしている兄の姿を見慣れていた。口数も少なく、いつも今にも眠りに落ちそうにしていた。
病人。
それこそ、死にかけているような。
ところが今、そのすべてが変わっていた。
もちろん、疲労の跡はまだ残っている。
それでも、最後に起きている彼を見たときと比べれば、明らかに調子がいい。
半分目が見えない僕でも、遠目から分かるほどだった。
一瞬、別人なのかと思ったくらいだ。
「いやぁ、それにしても……」
僕はそこまで言いかけて、古臭い冗談を口にするのはやめておいた。
僕がいつまでも彼を見つめていることに気づいた優一は、僕が何を考えているのか分からないまま肩をすくめた。
すると、僕の口から何か笑いに似たものが漏れた。
自分でも、なぜ笑ったのか分からない。
「はっ」
優一はため息をつくと、手にしていた小さな袋を持ち上げた。
……その存在にさえ、僕は今まで気づいていなかった。
「何それ?」
思わず尋ねる。
「プレゼント」
僕は片眉を上げた。
『まさか、謝罪のつもりか?』
笑いそうになった。
『こんな単純な物一つで、僕が忘れてやるとでも思ってるのか? ったく。何様のつもりだ? そもそも、そもそも……』
「スマートフォンだ。お前に買ってきた」
僕は固まった。
「しかも、インターネットの通信プランも最初から入ってる。これでようやく暇潰しができるだろ」
……こいつ。
「え?」
横から大輝さんが素っ頓狂な声を上げた。
「お前、それは――」
「くれ」
僕は言うなり、優一に飛びかかった。
ベッドから身体を滑らせ、冷たい床に両足をしっかりと着ける。そして二歩――いや、ほとんど跳ぶような勢いで踏み出し、僕は優一の目の前まで迫った。
断りを入れることもなく、その手から袋ごと奪い取る。
大輝さんが何か言っていたが、そんなものは無視した。
中から丁寧に包まれた箱を取り出し、急いで開ける。
中に入っていたのは、上品な黒色のスマートフォンだった。
まあ、細かい説明で退屈させるつもりはない。
要するに、なかなかいいスマートフォンだった。
僕は一人で頷き、最後に長いため息を吐いた。
それからベッドに腰を下ろし、改めて兄を見た。
「それにしても、今日は昨日よりずいぶん喋るな」
僕は言った。
「寝たら元気になったみたいで何よりだ」
優一はほっとしたように身体の力を抜き、それから得意げに笑った。
「当然だろ」
一方、大輝さんはため息をついた。
「僕の仕業だよ」
そう付け加える。
「無理やり休ませたんだ。昨日の嵐もあったし、ようやく一日くらいは休みを取らせることができた」
その最後の言葉を聞いた途端、僕の機嫌はまた悪くなった。
けれど、何も言わなかった。
代わりに、僕は新しいスマートフォンを弄り始めた。
――弄る、という言葉が適切かどうかは分からないけど。
「はは、見ろよ」
大輝さんが言った。
「もう俺たちの話なんて聞いてないぞ」
「いいだろ。少なくとも、今は楽しんでるんだから」
二人の会話をしばらく無視して、僕はスマートフォンの電源を入れた。
ところが、最初に自分の情報を入力するよう求められたところで、僕の身体には再び気落ちした感覚が広がった。
ため息を吐き、スマートフォンを横へ放り出す。
これは時間がかかりそうだ。
「なあ」
しばらくして、僕は二人のほうへ顔を向けた。
二人は小声で話していて、僕のことなどさほど気にしていない。
「正直、もっと無口だった頃のお前のほうが好きだったよ」
僕は優一を見た。
「病人で、殴られた犬みたいな顔をしてるお前を見ると、僕の気分が腹立たしいくらい上向いたんだけどな」
僕は笑った。
見せるべきではないほど、多くの歯を剥き出しにして。
また腹が立ってきた。
優一と大輝さんは話すのをやめ、大輝さんが尋ねた。
「今度は何だよ?」
僕は心から傷ついたような顔を作った。
「別に、大したことじゃない」
僕は立ち上がり、何も付いていないズボンの埃を払う。
「ただ、お前が何か忘れてる気がしてな」
僕は優一を見つめた。
「その程度のプレゼント一つで、僕が昨日のことを忘れるわけじゃないってことを」
優一はしばらく僕を見つめ返した。
僕は笑った。
綺麗でもなければ、親しみのある笑顔でもない。
歯が見えすぎていた。
「いいから、もう外に出よう」
僕は二人を見下ろすように、満足げな顔をした。
「それとも、ここにあと一秒でもいたら、僕は誰かを殺してしまうかもしれないぞ」




