第58章 『この罪に見合うだけ』
大輝の視点
怒りは消えたのか――いや、まったく消えていない。
では苛立ちはどうか。ああ、それも同じだ。僕は聖人君子などではないし、そんな立派な人間でもない。
それでも、自分でも分かっていた。冷静にならなければならない、と。
そう、冷静に。
事態は嫌な方向へと転がり始めていた。こんな時に頭へ血を上らせたところで、状況をさらに悪化させるだけだ。
それに、優一さんは……はあ。
本来なら、誰よりも気が利いていて責任感の強いはずのあの人が、厄介事をすべて僕に押しつけている。いや、いつものことか。面倒なことが起きた時。誰かが泥を被らなければならない時。恥をかく役目、誰も触れたがらない問題、そのすべてを引き受ける人間が必要になった時――なぜか最後には、決まって同じ人物へと話が回ってくる。
そして残念なことに、その役目を担うのは大抵僕だった。
僕たちは再び、あの倉庫へと集まっていた。
その場所を思い浮かべるだけで、胸の奥が妙に圧迫される。狭く、息苦しく、箱や棚が所狭しと並び、自分を押し潰そうとしているようにさえ感じる場所だ。
少し大袈裟だろうか。
ああ、僕にはそういう癖がある。
それでも、あの場所が墓穴のように思えてしまうことだけは変わらなかった。
中へ入るなり、僕は彼へと振り返った。
「優一さん……」
努めて落ち着いた声を作る。
「海斗は、あの部屋から出られる状態じゃない。それくらい分かっているでしょう」
返事はなかった。
こちらを見ることすらしない。
優一さんは僕の脇を通り過ぎると、まるで今の言葉など羽虫の羽音ほどにも感じていないかのように、積み上げられたパレットの上へ腰を下ろした。そしてそのまま後ろの棚へ頭を預ける。
それだけだった。
その瞬間、何かがぷつりと切れた。
……いや、「切れた」というのは少し芝居がかっている。
単に、腹が立ったのだ。
もっとも、正直に言えば、とっくの昔から腹は立っていた。
「どうしてそんなに平然としていられるんだ……」
思わず呟く。
もちろん、本当に平然としているなどとは思っていない。この状況で心から落ち着いていられる人間などいるはずがない。
それでも僕が押し潰されそうなほどの不安を抱えているというのに、この人は黙り込んだままなのだ。
どう受け取ればいい。
無関心なのか。
疲れ果てているのか。
それとも後悔しているのか。
分からない。
分からないからこそ、残っていたわずかな忍耐もとうとう限界を迎えた。
「いったい、どうしたんですか!」
気づけば、僕は両手を振り回しながら叫んでいた。
優一さんは陰鬱な目でこちらを見上げ、小さく呟く。
「どうした……って?」
僕は強く頷いた。
勢いだけででも、答えを引き出したかった。
「死にそうなんだよ、僕は。……そんな気分なんだ」
「死にそう?」
思わず聞き返し、乾いた笑いが漏れる。
「何を馬鹿なことを」
声を荒げるべきではない。
そんなことは分かっていた。
だが、抑えることがひどく難しかった。
そして、その時になってようやく彼の顔をまともに見た。
――ああ。
具合が悪そう、などというレベルではない。
ひどい。
病的なほどに。
焦点の定まらない目。
充血した瞳。
紫色に変わりそうなほど深く刻まれた隈。
動作は鈍く、ぎこちなく、普段なら回転の速い頭も、今はまるで灯の消えた機械のようだった。
それに何より――優一さんが、静かすぎた。
気まずい沈黙を何より嫌うあの人が、何時間でも喋り続けられるあの人が、まるで別人になってしまったかのようだった。
僕は小さく首を振る。
「……誰に、ここまでやられたんですか」
そして、その特徴を見落とすほど僕は鈍くない。
診断を考えるのに、これ以上の材料は必要なかった。医者でなくとも異常だと分かる。
もちろん、僕は医者なのだが。
「最後に寝たのは、いつです?」
返事が返ってくるまで、かなり時間がかかった。
「寝る……?」
彼は首を振り、少しだけ身を起こす。
「分からない。土曜から……いや、その前かもしれない。もう覚えていない。家にもあまり帰っていないし」
「は……?」
今度こそ、僕は叫んでいた。
気づいた時にはもう遅い。
「今日はもう水曜日ですよ!」
「そうか……」
優一さんは独り言のように頷いた。
「水曜だ。うん、そうだな」
笑いたかった。
冗談だと言ってほしかった。
だが、笑いは出てこない。
代わりに、喉の奥が嫌に乾いていく。
「四日……四日もまともに寝ていないんですか」
「騒がしいな」
優一さんは座ったまま身じろぎした。
「ここは倉庫なんだ。もう少し静かにしろ。それに、寝ていないっていうのは違う。ちゃんと寝てるさ。少しだけだ。僕は忙しいんだよ」
「何がそんなに忙しいんです」
「――麗華だ!」
今度は彼が声を荒げた。
ふらつきながらも、立ち上がろうとする。
「彼女は、もう数日前には戻ってくるはずだった。少しでも引き留めるために、どれだけ人に頭を下げたと思ってる。だけど、もう手がない……もう頼れる相手も尽きそうなんだ。僕は、たくさん……たくさん頼んで……」
彼はぶつぶつと呟いていた。
いや、もはや僕に話しているのかどうかさえ分からない。
ただ、頭の中をそのまま口に出しているだけのようだった。
「他に何か……何かできれば……。何て言ったかな、あの言葉は……」
――駄目だ。
この人は、本当にまずい。
「それに、お父さん……ああ、お父さん!」
突然、彼の顔が歪む。
「全部あいつのせいだ。そうだ、全部だ。最初に始めたのはあいつなんだから」
ふらりと身体が揺れた。
結局、自力では立っていられず、近くのハンガーラックへ体重を預ける。
「僕は……僕は、あいつも足止めしている。だけど嫌いなんだ。分かるか? 本当に嫌いなんだよ」
そこで、彼は笑った。
奇妙な笑みだった。
疲れ切り、何も残っていない空っぽの笑み。
「目を離したら、あいつは誰かを診療所へ送り込む。そうなれば、全部もっと早く終わってしまう。だから眠れないんだ」
かすれた声が静かな倉庫へ溶けていく。
「僕は忙しいんだよ。ずっと見張っていなきゃいけないんだ」
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僕はそれ以上、彼の譫言を聞いていられなくなり、片手を上げた。
「もういいです」
ため息が漏れる。今度は僕のほうが疲れ切っていた。座りたいと思ったが、腰を下ろせそうな場所は見当たらない。しかし、座れる場所を探して視線を彷徨わせていたせいで、優一さんが歩き始めていたことに気づかなかった。
「さて、僕はもう行くよ」
顔を手で擦りながら、彼は僕の隣で足を止めた。
「せっかくここに来たんだし……何かないか? 少しでもすっきりするようなもの。栄養剤とか……いや、何でもいい。医療キットみたいなものでも」
僕はしばらく彼を見つめ、それから結論を出した。
「ありますよ」
彼が顔を上げる。
「ただし、眠るためのものです」
優一さんは低く唸るような声を漏らし、そのまま扉へ向かって歩き出した。
「優一さん、あなたは眠るべきです」
しかし、彼は聞く耳を持たなかった。
「嫌だ。ただ考える時間が必要なんだ。考えて、考えて……十分な時間さえあれば、きっと何か思いつく。解決策が見つかるはずだ」
僕は首を振った。優一さんも海斗も、妙なところでよく似ている。まあ兄弟なのだから当然かもしれない。少しくらい似ていても、同じ癖を持っていても不思議ではなかった。
僕は彼の前へ回り込み、その肩を掴んだ。
「いいえ。あなたは寝るんです」
「寝る? どこで?」
苛立たしげに両手を広げる。
「この倉庫でか?」
「違います。ちゃんとしたベッドでです。明日の朝まで起きないようなものを出してあげます」
優一さんは疑わしげな目で僕を見た。
「何か飲ませるって?」
そして――笑った。
嫌な笑みだった。
「それとも、今度こそ僕を殺すつもりか? 弟では果たせなかったことを、今度は僕で」
その瞬間、ぞっとした。火傷でもしたかのように、一歩後ずさる。その言葉は胸を深く抉り、必死に埋めていたものを無理やり引きずり出した。
……この人は、本当にそう思っていたのか。
僕のことを。
激しい怒りが込み上げた。
「何を言っているんですか!」
優一さんの声が硬くなる。
「君の同情なんて必要ない。分かるだろう? 君にはここを管理していてほしいだけだ」
長いため息を吐き、彼は続ける。
「外のことは、引き続き僕が何とかする」
だが、僕の耳にはほとんど入ってこなかった。頭の中では、ただ一つの言葉だけが何度も反響していた。
――殺す。
「何を言っているんですか……」
気づけば、何度も首を横に振っていた。どうしてそんなことを口にできる。もし誰かに聞かれたらどうするつもりなのか。どうしてそんな言い方ができる。まるですべてが僕のせいであるかのように。
ならば、こちらにも言いたいことは山ほどあった。
僕は真正面から彼を見据え、床を強く踏み鳴らした。
「何を言うんです。これはあなたの指示だったでしょう。あなたが彼をここへ連れて来ることを望んだんだ。なのに、どうして僕を責められるんですか。冗談じゃない」
指を突きつける。
「それに……そう、それに、僕は悪人じゃない。違う、違うんです……」
自分に言い聞かせるように呟く。
「分かりますよね? だって彼は死んでいない。まだ生きている。なら、僕の罪は完成していない。そうでしょう? 違いますか? もちろん、罪がないとは言いません。そんなはずがない。どうして無実でいられる? でも、だからといって全部が僕の責任だとも言えないでしょう」
声が徐々に大きくなっていく。
「教えてください。誰だって、一度くらいは誰かの死を願ったことがあるでしょう? ほんの一瞬でもいい。刹那の感情でもいい! 怒りで、嫉妬で、疲れで……母親に少しつねられただけの子供ですら、密かに不幸を願ったりする。そして後になって泣いて後悔する。なら、どうして僕だけが違うというんです?」
僕は倉庫の中を歩き回り始めた。しかし場所が狭すぎるせいで、数歩進むたびに向きを変えなければならない。忌々しいほど狭い倉庫だった。僕は狭い場所が嫌いだ。
「……でも勘違いしないでください。罪がないとは言っていない。ある。そうです、僕は有罪だ。けれど、断罪されるべきかと言われれば……それは別問題です。まったく別だ。だって――彼はまだ、生きているんだから」
そこで僕は立ち止まった。
優一さんが、ひどく哀れむような目で僕を見ていたからだ。まるで、明らかな嘘をつく子供を見つめる父親のような目だった。
その視線が、たまらなく腹立たしかった。
「何を求めているんですか! あなたにも責任があるでしょう! 少なくとも、あなたなら僕は責められる!」
汗ばんだ額を手で拭う。
「そうだ……あなたを断罪する。あなたこそが、このすべての元凶だ」
優一さんは黙っていた。やがて疲れたように視線を落とし、静かに頷く。
「そうか。なら、呪われるべきは僕だな」
彼は弱々しく笑った。
「そして、無垢なる君に裁かれたのなら……僕の不幸は、まだまだ足りないらしい」
僕は内心で頷き、そして突然、自分が言い過ぎたことに気づいた。
……僕は何を言っているんだ。なぜあんなことを口にした。まるで子供ではないか。
胸の奥から湧き上がる羞恥を無理やり押し込み、代わりに見せかけの威厳を膨らませる。そして慌てて話題を変えた。
「そんな話をしている場合じゃありません。今考えるべきは、これからどうするかです。行動する。それしか道はない」
僕は眠たげで、どこか壊れてしまったような優一さんを厳しく見据えた。
「そのためには、正気のあなたが必要なんです。もう壊れたあなたじゃない。だから眠ってください。あなたには助かってもらわないと困る……僕自身を救うためにも」
そう言って彼の背後へ回り、その背を軽く押した。
「さあ、行きましょう。昔のあなたに戻ってください。歩いて……そして、この罰から僕たちを救ってください」




