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第57章  『窒息しそうなほどに』(2)

 さっきまでよりも速いペースで廊下を進んでいた。優一さんが本当に僕の「外へ出たい」という気持ちを理解してくれたのか、それとも単に僕を黙らせたかっただけなのかは分からない。僕が話し終えてから、彼はずっと黙ったままだった。けれど、理解してくれたにせよ、僕を気でも触れた人間だと思ったにせよ、とにかく今はさっきより速く車椅子を押してくれている。それだけで十分だった。


 少し気分が良くなり、僕は深く背もたれにもたれかかった。目を閉じ、身体の力を抜こうとする。だが、その楽観は長くは続かなかった。代わりに、別の感情が胸の内にじわじわと広がっていく。


 なんと呼べばいいのだろう。不安……いや、焦燥だ。そうだ、それだ。まるで初めて幼稚園へ行く前の子どものように、僕は病院の外へ出ることに対して、どうしようもないほどの焦りを感じていた。


 決して心地よい感覚ではなかった。けれど進むにつれ、出口が近づいてくるのが分かる。それがまた僕を落ち着かなくさせた。早く出たい。いや、待て。やっぱりゆっくり行こう。自分でも呆れるくらい、頭の中はぐちゃぐちゃだった。


 目を閉じたままでも、もう狭い病棟の廊下ではないことが分かった。より広い通路へ出たのだ。あちこちから人の話し声が聞こえてくる。どれも僕にはどうでもいい会話だった。


 思わず片目を開ける。そして――ようやく、遠くに出口が見えた。


 気づけば、僕は車椅子の肘掛けを強く握り締めていた。近い。本当に、もうすぐそこだ。ガラス越しに差し込む陽の熱ささえ感じられる。あと少し。ほんの少しだけ進めばいい。


「すみません」


 突然、一つの影が行く手を遮った。目を開き、焦点を合わせる。そこにいたのは看護師だった。黒髪の、ごく平凡な女性。退屈そうな目をしている。見覚えがあった。午後のリハビリで、二人の療法士と一緒に僕を担当している看護師だ。


「……ちくしょう」


 思わず呟く。こんなに近かったのに。胸がきゅっと締めつけられ、不安で心臓が跳ねた。


「患者さんの外出は禁止されています」


 彼女は僕たちの正面に立ちはだかり、はっきりと言った。僕は歯を食いしばった。きっと、顔にも苛立ちが出ていたのだろう。


「はぁ……やっぱり無茶だったか」


 背後で優一さんが呟く。小声ではあったが、十分聞こえた。


「すみません。少しだけなんです。大輝が許可してくれました」


 その嘘に、僕は思わず目を見開いた。あまりにも自然だった。本当に事実であるかのような声音だった。


「……そうなんですか?」


 看護師は少し疑わしそうな顔をしたが、すぐに小さくため息をついた。


「ですが、私は何も聞いていません」


 彼女は横を向き、何かを小声で呟いた。耳の悪い僕には聞き取れない。


「疑わしいなら連絡してください。僕が海斗を連れていると伝えれば問題ありません」


 本当に嘘をつくのが上手い。


「……そういうことでしたら」


 看護師は少し考えた末、小さく頷いた。


 その瞬間、ようやく肺に空気が戻ってきた。心の中で優一さんに感謝する。時には嘘も役に立つものだ。


「行こう」


 声が弾まないよう必死に抑えながら僕は言った。


「ああ。すぐだから」


 優一さんは再び車椅子を押し始めた。だが、ちょうど看護師の横を通り過ぎようとしたその時、ラウンジの方からアラーム音が鳴った。看護師は腕時計に目を落とし、ほとんど反射的に車椅子の肘掛けへ手を置いた。


「お待ちください。申し訳ありませんが、外出はまた別の日にしてください。午後二時です。リハビリの時間になります」


 彼女が見せてきた時計には、確かに二時を示す針があった。


「でも、もうこんなに近かったのに!」


 そこで僕の我慢は限界を迎えた。出口へ向かって手を伸ばす。その先には、すでに外の景色が見えていた。


「お願いだよ、優一さん! あと少しだけ!」


 しかし、彼は動かなかった。


「もう十分だ。今日はここまでにしよう。看護師さんがリハビリの時間だと言うなら、仕方ない」


「なんでだよ!?」


 僕がなおも食い下がるのを見て、看護師も口を開く。


「歩けるようになるためには、脚のリハビリが必要だからです」


 僕は彼女を睨みつけた。何様のつもりだ。


「僕ならもう歩ける」


 車椅子に座ったままそんなことを言うのがどれだけ滑稽か、自分でも分かっていた。それでも言葉を引っ込める気はなかった。証明するように両腕へ力を込め、一気に身体を持ち上げる。


「待って!」


 看護師が慌てて両手を伸ばしたが、その必要はなかった。最初こそふらついたものの、すぐに体勢を立て直せた。


「ほら、歩ける」


「いいえ、まだです」


「海斗、もうやめよう。今日はここまでだ。君はまだ回復していない」


 僕は二人を責めるように見つめた。特に優一さんを。優一さんは僕の味方をしてくれるんじゃなかったのか。


「……少しだけなんだ。本当に少しだけ。ほんの一瞬、外へ出たいだけなんだ。優一さんが連れて行ってくれないなら、僕一人で行く」


「海斗……?」


「お待ちください」


 僕はしっかりとした足取りで出口へ向かって歩き始めた。だが、不運というものはいつだって僕につきまとう。


「お前たち、外で何をしている?」


 二歩ほど進み、足がもつれないよう床を見ながら歩いていた、その時だった。横から鋭い声が飛んできた。


「……大輝」


 優一さんが呟く。


 その名前を聞いた瞬間、僕は錆びついたネジのようにゆっくりと首を回した。そして、本当に彼だと確認すると、思わず叫んだ。


「悪魔だ!」


 僕にとってはまさにそうだった。今、最も会いたくない相手だった。しかも、見るからに怒っている。


「海斗。部屋から出るのは禁止だと、ちゃんと言ったはずだ」


 僕は歯を食いしばり、一歩後ずさった。


「大輝、やめろ。ただ少しだけなんだ」


「駄目だ。今すぐ病室へ戻る」


 そう言って、大輝がこちらへ歩み寄り、僕を掴もうと手を伸ばしてきた。


 その瞬間だった。


 どこにそんな力が残っていたのか分からない。僕はその手を勢いよく払いのけた。どうやったのか自分でも分からない。彼の脇をすり抜け、そのまま前へ駆け出す。


 ――走ったのだ。


 今になって冷静に考えれば、自分でも信じられない。今朝まで三歩続けて歩くことすら難しかったのに。それでも僕は走った。走って、走って。


「海斗、待て!」


 背後から叫び声が聞こえる。けれど振り返らない。


 外へ出たい。外へ出たい。どれほどその風を、この肌で感じたかったことか。


「放っておいてよ!」


 僕はそれだけを叫んだ。


 もう外が見えている。遠くには歩道があり、石畳の小道があり、低い植え込みが並び、そのすべてを陽光が照らしていた。気づけば、僕は笑っていた。


 だが、僕の脚はそんな負荷に耐えられる状態ではなかった。


 出口まであと数歩というところで、不意に両脚の感覚が薄れていく。頭がぐらりと揺れた。倒れる――そう思った。背後で誰かが「危ない!」と叫んだ気がした。


 けれど、僕は倒れなかった。必死に腕を振り回し、どうにか体勢を保つ。しかし立っているだけで精一杯だった。もう走れない。一歩進むだけでも途方もなく遠い。それでも諦めなかった。


 足を引きずりながら前へ進む。


 あと一歩。


 もう少し。


 あと少しで――。


「待て!」


 突然、身体が後ろへ引かれた。誰かの腕が背後から胸を抱え込み、そのまま僕を持ち上げる。完全に動きを止められた。


「離せ! 離してよ!」


 あんなに近かったのだ。指を伸ばせば、太陽にだって触れられそうだったのに。


 ……なんで僕の腕はこんなに短いんだ。


「もう少しなんだ! お願いだから離して!」


 そうして僕は、足をばたつかせ、空を掻くように手を振り回しながら、再び病院の中へと引きずられていった。


 ――はぁ。


 本当に、つくづく運が悪い。


****


優一さんと僕は再び病室へ連れ戻された。二人してベッドに腰を下ろし、その前を大輝さんが行ったり来たりしている。


「いったい何を考えていたんだ?」


 どうやら説教の時間らしい。


 どうしてだ。怒りたいのはむしろ僕の方なのに。


「馬鹿だ。本当に馬鹿だ。どうして俺の許可もなしに外へ出ようなんて考える?」


「大げさだな」


 優一さんが口を挟む。


「僕も一緒だったんだ。何か問題でもあったのか?」


「何か問題でもあっただって!? 裏口でどれだけ騒ぎになったと思ってる! お前は今にも寝そうな顔をしていたから気づかなかったのかもしれないが、あまりにも目立ちすぎた。職員だけじゃない、大勢に見られたんだぞ……」


「大輝」


 優一さんが遮る。


「もういい。言いたいことは分かった」


 そう言って小さく息をついた。


「この話はここでするべきじゃない」


「ちょっと待ってよ」


 黙っていられず、僕は口を挟んだ。


「それじゃ僕だけ仲間外れじゃないか。話があるならここでしてよ。いつだって僕には何も教えてくれないんだから」


 大輝さんは顔を手で覆い、怒りを押さえ込むように深く息を吐いた。


「……分かった。今はやめておこう」


「おい!」


 本当に無視するつもりなのか。


「それはずるいよ。僕だって聞きたい」


「やめろ、海斗。そもそも、この騒ぎを起こしたのは君だろう」


「僕?」


 自分の胸を指差す。


「嘘だ。この問題を始めたのは大輝さんの方じゃないか」


 大輝さんは眉をひそめたが、僕も負けじと睨み返した。


「だって外へ出してくれないんだから。一日中こんな部屋に閉じ込められて……息が詰まるのも当然だろ」


「何だと? 外へ出さない、だと? 当たり前だ」


 彼は僕を指差した。


「俺は君の主治医だ。君に必要な治療が何かくらい分かっている」


 僕は腕を組み、真正面から彼を見返した。


 必要なら、僕だって言い返す。


「このままあと少しでもこの部屋にいたら、僕は死ぬよ。本当に」


「頼むから……」


「二人とも、そこまでだ」


 今にも言い争いになりそうな僕たちを見て、優一さんが割って入った。


 彼が僕を見る。


 僕はむっとしたまま顔を背けた。


「いい加減、言うことを聞いてくれないか。どうしてそんなに頑固なんだ?」


 大輝さんがなおも言う。


「だったら外へ出してよ」


 僕はついに要求を口にした。


「許可してくれるなら、この話はこれで終わりだ」


 大輝さんが目を細める。


「その代わり、二人がどんな内緒話をしようと文句は言わないし、もう何も聞かない」


 僕は胸を張った。


「どう? 悪くない条件だろ?」


 少なくとも僕にとってはそうだった。


 今の僕にとって大事なのは、この部屋から出られるかどうかだけだ。優一さんと大輝さんが何を隠れて話していようと、そんなことはどうでもよかった。


「駄目だ」


 大輝さんはきっぱりと言い切った。


 本気で飛びかかってやろうかと思ったが、勝ち目のない喧嘩だということくらい分かっていた。


 だから、僕は優一さんへ視線を向ける。


「……どう?」


 優一さんは目を細めて僕を見た。


 僕は提案を繰り返さず、ただ名前を呼ぶ。


「優一」


「駄目だ。そんな話にはならない。少なくとも、その時が来るまでは」


 大輝さんが口を挟む。


 けれど僕は無視した。


「ゆ・う・い・ち」


 一音ずつ区切るように、ゆっくりと呼ぶ。


 兄は諦めたようにため息をついた。額に手を当て、ついに口を開く。


「……大輝、聞いてやれ。外へ出してあげよう」


「「えっ!?」」


 大輝さんと僕の声が重なった。


「おい、何を――」


 大輝さんが抗議しかける。


 だが、僕の兄は――そう、僕の自慢の兄は――手を上げて彼を制した。


「大丈夫だ」


 そう言って僕を見る。


「ただし、裏庭だけだ。一日に一時間まで」


 そして指を一本立てる。


「診療所の敷地から出るのは禁止。それから……」


 信じられないという顔をしている大輝さんへ視線を移し、


「必ず大輝か僕のどちらかが付き添うこと」


 僕は何度も頷いた。


 正直、条件なんてどうでもよかった。ほとんど聞いてすらいなかった。


 ――外へ出られる。


 ついに、外へ出られるんだ。


 胸いっぱいに安堵が広がった。


 僕は両腕を広げ、そのままベッドへ倒れ込む。


 天井を見上げながら、ぼんやりと息を吐いた。


「……くそっ。優一、今すぐ話がある」


 大輝さんはそう言いながら扉へ向かった。


「分かった」


 兄が立ち上がる。


「いつもの倉庫か?」


 大輝さんはすでに病室を出ようとしていた。


「早く来い」


 それだけ言い残し、姿を消す。


 怒っているのかどうかなんて、僕にはどうでもよかった。


 なぜか分からないが、最終的には優一さんの決定が通る。そんな確信があった。


 だから僕は目を閉じ、その瞬間だけは、穏やかな気持ちに身を委ねた。


「それじゃ、また後で」


 優一さんもそう言い残して部屋を出ていった。


 僕は返事をしなかった。


 そのまま長い間、目を閉じていた。


 まるで、仕事で散々に疲れ切った会社員のように。


 ようやく帰宅し、ただベッドへ倒れ込み、そのまま眠りたいと願いながらも、実際には眠れず、ただ目を閉じているだけ――そんな気分だった。


 陽の光が移り変わっていくのを感じる。


 やがて部屋は少しずつ薄暗くなっていった。


 時間だけが過ぎ、僕は一度も動かなかった。


 すると、不意に扉が開く。


「海斗くん、海斗くん。起きていますか? リハビリの時間ですよ」


 ――この声。


 聞き覚えがあった。


 僕は声のした方へ顔を向ける。


 そしてベッドに横になったまま、彼女へ笑いかけた。


「今日は、ちょっといいことがあったんだ。聞いてくれる?」


 小柄で、丸い顔をした看護師は頷いた。


 いつもと同じ、あの妙に目立つ黄色い靴下を履いている。


「もちろんですよ」


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justo en la mejor parte termina , suspenso
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