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第57章  『窒息しそうなほどに』(1)


海斗の視点



 不思議なことに、優一さんは、僕自身ですら驚いたことに、病院の外へ出たいという僕の突飛なわがままを最終的に聞き入れてくれた。


 もっとも、それは彼の善意というより、ただの偶然の産物のように思えた。千個の石を池へ投げ込めば、そのうちの一つくらいは、ただ沈むことなく水面を跳ね、二度三度と軌跡を描いて飛んでいく。そんな、確率だけが生み出した奇跡のようなものだ。


 というのも、実を言えば、ここ数日、僕は似たような頼みごとを何度も彼にぶつけていた。そのほとんどは決まって断られていたのだ。けれど今日は違った。今日だけは優一さんが折れてくれた。そして僕は、その好機を逃すほど愚かではなかった。


 優一さんが支えてくれる車椅子へ、少し慌てながらも苦労して身を移すと、僕たちはあの息苦しい病室を後にした。


 今は複雑に入り組んだ病院の廊下を進んでいる。僕にとってその道は、果てしなく続く迷宮のように思えた。なにせ、これまで僕はその先へ足を踏み出したことがなかったのだから。


 曲がり角を曲がるたび、医師や看護師とすれ違うことがあった。だが彼らは僕たちへ短い視線を向けるだけで、すぐにまた自分の仕事へ戻っていく。病院で働く人たちがどんな毎日を送っているのかは知らない。ただ、きっと忙しく、ろくに眠れてもいないのだろう。そのことを、あの時の僕は少しありがたく思っていた。


 病室を出て、顔に陽のぬくもりを感じられるかもしれない。ただそれだけのことなのに、僕はひどく胸を躍らせていた。同時に、少しだけ怖くもあった。


 まるで子供だ。


 この車椅子が空を飛んでくれたらいいのに、とすら思った。


 次の角を曲がった途端、優一さんが急に走り出し、僕と一緒に声を上げて笑う。そして外へ出て、草の上へ寝転がる。暖かな陽射しと、それを和らげる涼しい風を全身で感じて――そして……。


 ……いや。


 完全に妄想だった。


「はぁ……」


 ため息が漏れる。


 現実は、僕が思い描いていたものとはあまりにもかけ離れていた。


 優一さんは、まるで巨大な荷物でも背負っているかのような足取りで僕を押していた。一歩ごとに、その歩みはさらに重く、遅くなっていく。その覇気のなさに、見ているこちらまで疲れてしまいそうだった。


 僕は首を大きく後ろへ反らし、彼を見上げる。思わず眉をひそめた。


 歩き方だけではない。優一さん自身が、ひどく疲れ切っているように見えた。顔色は悪く、目の下には濃い隈が浮かび、その眼差しはどこか遠くを見ている。まるで、完全に自分の思考の中へ沈み込んでしまっているようだった。


「優一さん」


 そう呼びかけると、彼はわずかに肩を揺らした。瞬きを一つして、僕を見る。


「何だ?」


 車椅子の取っ手を握る手に、少し力がこもる。


 数秒の沈黙。


 彼の瞳は黒く、深く、そして空っぽだった。僕の視界が不完全だからなのか、それとも単純に経験不足だからなのか、何を考えているのかまるで分からない。優一さんという人は、僕にとって完全な謎だった。


 先に視線を逸らしたのは僕だった。


「今度は何だ」


 彼が促す。


 僕はため息をついた。


「どうしてそんな顔してるの? せっかく外へ出られるのに、やる気が全部なくなるんだけど」


「そんなに変な顔をしているか?」


「変?」


 僕は鼻を鳴らした。


「今にも倒れそうに見えるよ……何があったのかは知らないけど。顔色も悪いし、元気もないし。まるで、人でも殺したみたいだ」


 その瞬間、優一さんの目がわずかに見開かれた。そして足を止める。一瞬だけ、何と返すべきか迷ったようだった。


「……何だって?」


 としか、結局は言わなかった。


 出た。


 返答に困った時の、あの嫌な「何だ?」だ。


 これ以上考えても無駄だと悟り、僕は肩をすくめて前を指差した。


「もういいよ。行こう。誰かに止められる前にさ」


 再び静かに進み始める。


「そんなにか?」


「ん?」


「そんなに外へ出たいのか」


 僕は頷いた。


「どうしてだ?」


「どうして……?」


 その問いを口の中で転がしてみる。


 すると、どこか甘い味がした。


 僕は笑う。


「出たいから」


「ずいぶん曖昧な理由だな。本当のことを言わないなら、俺はただ時間を無駄にしているだけだ。やることだってあるんだ。それに――」


 そこで優一さんは口を閉ざした。


 僕が再び首を反らし、むっとした顔で彼を見上げていたからだ。


「優一さんだって、何も答える気なさそうだけど」


 腹が立っていた。


 だから自然と声も尖る。


「はぁ? 外へ出たいと言い出したのはお前だろう」


 僕は彼をじっと見つめ、それから必要以上に歯を見せながら笑ってみせた。


「……何だって?」


 彼とまったく同じ口調で。


 同じ声音で。


 認めよう。


 やりすぎた。


 まるで拗ねた子供だった。


「お前……」


 優一さんの表情がたちまち険しくなる。


 僕は即座に後悔した。


「ごめん、ごめん、ごめん。やりすぎた。ごめんなさい」


 両手を伸ばし、兄の顔へ触れようとする。けれど指先がかすめるのがやっとだった。


「疲れてるのは分かってる。今、やることが山ほどあるんだろうってことも。今日来てくれたこと、本当に感謝してる。だから……あんな言い方をするべきじゃなかった」


 優一さんはわずかに身じろぎし、ため息を漏らした。


「もういい。忘れろ」


「よくないよ。だって、いつも怒ってるみたいな顔してるし、いつも疲れてるし。唯一会いに来てくれる家族がそんな顔をしてるの、結構しんどいんだから」


 だが、その頃にはもう優一さんは僕の話を聞いていなかった。


 すると再び、胸の奥から苛立ちが湧いてくる。


 不思議だ。


 どうして僕は、こんなにもこの人に腹を立ててしまうのだろう。


 余計な考えを振り払い、僕は声をかけた。


「元気出してよ」


 返事はない。


「ほら、元気出して!」


 沈黙。


 僕は再び両手を伸ばし、まるで呪文でも唱えるように振ってみせる。


「元気出して。元気出して。元気出して」


 少なくとも、ため息は引き出せた。


 それだけで僕は少し元気になる。


「ほら! 元気出して! 元気出してって!」


 手も足もばたばたと動かす。どうにかこちらを見てもらおうとして、いつの間にか声には笑いまで混じっていた。


「元気出して!」


 そして――成功した。


「落ちるぞ」


 ようやく彼が口を開く。


 疲れた目をしていたが、先ほどほど険しくはなかった。


 僕は笑った。


「かもしれない。でも、ちゃんと支えてくれるなら平気」


 前を向く。


 もう首を無理に後ろへ反らさなくて済む。


 正直、少し痛かった。


「どうしてそんなに外へ出たいのか、って聞いたよね?」


「ああ……」


「それはね……変に聞こえるかもしれないけど、太陽が本当に存在しているのか確かめたいから」


 優一さんは黙った。


 廊下には、車椅子の車輪が進む規則的な音だけが響く。


「馬鹿みたいだと思うでしょ? でも、僕の立場で考えてみてよ。あの暗闇から目覚めて以来、僕が知っている世界は、あの小さな病室とこの廊下だけなんだ。僕の人生は、ほんの数日前、病院のベッドの上で始まった。僕にとって世界は、この忌々しいほど正しい白色でできている。何もかもが無菌的で、冷たくて、薬と終わりの匂いがする」


 僕は両腕を広げ、果てしない廊下の空白を抱きしめるようにした。


「過去があったと言われても、記憶があったと言われても、僕にはまるで、生まれたばかりの魂が他人の身体へ押し込められたみたいにしか思えないんだ。『外』って何なんだろう。言葉は知ってるし、意味だって分かる。でも、記憶には何の質感もない。風がどんなものなのかも知らないし、裸足で草を踏む感触だって分からない。……土だってそうだ。どんな感じなんだろうって、ずっと考えてしまう。柔らかいのかな、固いのかなって。せめて、この病院の床みたいに冷たくなければいいんだけど」


 鼻をこする。


 胸の奥が締めつけられ、少し息苦しい。


「全部忘れてしまったんだ、優一さん。本当に、何もかも。この四方の壁に閉じ込められていると、外の世界はあまりにも遠くて、あまりにも神秘的で……時々怖くなるんだ。全部、僕の想像なんじゃないかって。僕はまだ昏睡状態のままで、まだあの暗闇に閉じ込められていて……これは全部、目覚めることのできない夢なんじゃないかって」


 窓の方へ顔を向ける。


「窓越しに外を見るたび、自分が生者の世界を覗き見ている幽霊みたいに思えるんだ。不思議だよね。手の届かないものほど、とてつもない価値を持って見える。距離と忘却が、それを神聖な宝物に変えてしまうみたいに」


 僕は指を握り締めた。


「外の人にとっては、道を歩くなんて何でもないことなんだろう。風を浴びることも、太陽の光を感じることも、きっと当たり前なんだ」


 僕は目を伏せた。


「羨ましいよ……神様。本当に、どうしようもないくらい羨ましい。だって僕は、何も持たない白紙なんだから。そんなものを初めて経験できるなら、それはきっと計り知れない価値を持つ」


 ゆっくりと前へ手を伸ばした。


 まだ見ることのできない何かを掴もうとするように。


「風が顔を打つ感覚を知りたい。足の裏で土の不完全さを感じたい。生きている世界の騒がしい音を聞きたい。太陽に肌を焼かれたい。痛くてもいい。圧倒されてもいい。それを全部感じた時、ようやく僕の心は理解できると思うんだ」


 そして静かに囁く。


「――ああ、これが生きているってことなんだ、って」


 不意に、全身へ重力が戻ってきたような気がした。


 僕は疲れ切って手を膝の上へ落とす。


「でも結局……ただのくだらないわがままなんだろうね。僕にとってだけ大切なことだから。きっとこの世界には、この生まれたばかりの人間が抱えている、このどうしようもなく切実な自由への渇望を理解できる人なんて……誰もいないんだろうな」


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― 新着の感想 ―
muy bueno el desarrollo , sigue asi maestro, gracias por el capitulo
Esta bueno el desarrollo de la historia
Amo tu trabajo, por favor sigue asi
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