第56章 『時が尽きる時』
飛鳥の視点
怖い。ああ、神様。ここ数日――いや、この一か月ほど、皆にとってどれほど辛い日々だったのだろうか。
先週から、いや、もっと前からだろう。何もかもがおかしくなってしまった。気がつけば、部長であり、そして私の大切な友人でもある麗華さんの周囲に、突然、感じのいい人たちが現れ始めていた。
私はもともと他人の私生活に首を突っ込む性格ではない。噂話も好きではないし、できることならそういうものからは距離を置いていたい人間だ。それでも、見聞きしてしまったことから導き出される結論は、どうにも気分の悪いものだった。
あの学生――海斗くんは、いったい麗華さんとどんな関係なのだろう。
もちろん「さん」付けで呼ぶ。私は彼女を心から尊敬しているのだから。
頭の片隅には、少しばかり突飛な考えも浮かんではいた。けれど、それを口にするつもりはなかった。他人の人生は他人のもの。祖母もよく言っていた。
――「余計な詮索ばかりする娘は誰にも好かれないよ。だから、いい旦那さんを見つけなさい」
あるいは、こんなことも。
――「噂話ばかりしている女は、年を取るともっと醜くなる」
私は醜くなりたくなかったし……何より、まだ年寄りにもなりたくなかった。だから、あの少年との関係について、一度も尋ねたことはない。私生活は私生活だ。
だが今となっては、もう見て見ぬふりはできなかった。この件は、それほどまでに麗華さんへ影響を与えていたのだ。激しすぎる感情の起伏に、私は本気で彼女の身体を心配していた。だからこそ――祖母のありがたい教えを無視して――私はついに無粋な人間になってしまった。
先日、冷たい水を持って彼女の部屋へ向かったときのことだ。ドアノブに手をかけたまま、私はぴたりと足を止めた。
「まだ見つかっていないって、どういうこと!?」
部屋の中から聞こえてきたのは、ほとんど怒鳴り声に近い声だった。
私はびくりと肩を震わせた。長く仕えてきたが、彼女がここまで声を荒らげるところなど数えるほどしか見たことがない。
「いい? 私たちは約束したの。約束よ。それなのに今さらそんなことを言うの?」
沈黙。おそらく、スマートフォンの向こうでは相手がしどろもどろに言い訳をしているのだろう。
「私はあなたを信じたのよ。問題は契約のことじゃない」
再び沈黙。
「何日、ですって? あなたは『もう少し待ってくれ』としか言えないの!?」
なぜだかわからないが、私は思わず肩をすくめた。そのときの麗華さんの声は、まるで子どもを叱る母親のようであり、あるいは厳格な教師のようでもあった。その口調が妙に懐かしくて、私は祖母と過ごした冬の日々を思い出してしまった。
そして、その記憶に引っ張られるように、その場から逃げ出したくなる。まるで悪戯を見つかった犬のように。
――何をしているの、私は。
盗み聞きなんて。
自分が絶対にならないと誓った、おしゃべり好きの詮索女そのものではないか。
「……いいえ、信じない。もう終わりよ。近いうちに私がそちらへ行くわ。そして一つだけ言っておく。これはもう笑い話にもならない。藤村家は約束を守る人たちだと思っていたのだけれど」
ふいに、彼女は笑った。
だがそれは、喜びの欠片すらない、乾いた笑いだった。
「どう受け取るかはあなたの勝手よ。でも、この件はもう家族の問題なの。私が着いたら全部この手で片づける。黒田も藤村も、私にとってどれほど取るに足らない存在か思い知らせてあげる」
それきり何も聞こえなくなった。おそらく通話が切れたのだろう。壁に押し当てていた耳をそろそろと離した、その瞬間だった。
――ガシャンッ!
激しい破砕音に、私は文字通り飛び上がった。
「……くそっ!」
鋭い罵声。
何かが床へ叩きつけられた音だった。グラスだろうか。本だろうか。わからない。
だが、その瞬間になってようやく私は本当の意味で恐ろしくなった。そして叩かれた犬のように、その場から一目散に逃げ出した。
再び部屋へ戻るまで、一時間もかかった。怒りの最中に鉢合わせしたくなかったし、彼女にも少し落ち着く時間が必要だと思ったからだ。……それに、私自身も息を整える必要があった。
けれど、いざ部屋へ入ってみれば、状況は少しも良くなっていなかった。そのとき私は、あと一時間待っていればよかったと心から後悔した。
麗華さんは机の向こうに座り、両手で頭を抱えていた。眠っているのだろうか。いや、違う。目を閉じたまま、顔にはどうしようもない疲労の色が浮かんでいる。頭でも痛むのかもしれない。
そして私は、そのとき初めて何が床へ投げつけられたのかを知った。
スマートフォンだった。
画面は無惨なまでに砕け散っている。
――ああ。
私は胸の内で小さくため息をついた。
――いったい誰が、あなたをここまで傷つけたのですか。私の大切な友人。
何があったのか、できるだけ静かな声で尋ねてみた。もっとも、期待などしていなかった。彼女のことはよく知っている。
案の定、返ってきたのは、顔すら上げないまま絞り出された掠れた声だけだった。
「……後悔するわ。誓って言う。あの人は、たった今、自分の人生を壊した」
――これは、悪いなんてものじゃない。
おばあちゃん。
どうか今だけここにいてください。
あなたがその場の思いつきで作っていたのではないかと密かに疑っている、あの妙な人生訓でもいい。
今の私には、そのどれもが必要だった。
***
あの日以来、麗華さんはほとんど食事を口にしなくなった。水と、たまに飲む薬だけで生きているようなものだった。けれど、そんなもので人間が生きていけるはずがない。せめて果物の欠片だけでも食べてもらおうと、私が必死になって立ち回らなければならない日さえあった。
「何か召し上がりませんか?」
あの出来事から五日後の今日も、私は懲りずにそう声をかけた。ちなみに、あれ以来、私は二度と扉の向こうへ耳を寄せたりはしていない。教訓はしっかり胸に刻まれている。
「いらないわ」
返ってきたのは、取りつく島もない一言だった。
私たちは、この国の本社から借り受けた一室にいた。麗華さんは机の向こうで微動だにせず、両手を天板に置いたまま、扉の上に掛けられた壁時計をぼんやりと見つめている。
午前中の会議を終え、時刻はすでに正午を回っていた。出張というものは、たいていいつも息苦しいほど決まりきった流れを辿る。朝は延々と会議が続き、夜になれば格式ばった会食が待っている。それが何日も、何週間も続くのだ。
今回もそうだった。当初は八日間だけの予定だったはずが、気づけばすでに二週間目に入っている。取引先の一社が飛行機の遅延で日程を狂わせ、それに合わせて予定を組み直しているうちに、こちらの滞在を知った他の顧客からも面会の申し込みが相次いだ。
そして、それこそが今の麗華さんを最も苛立たせている原因なのだと、私は知っていた。この出張が、いつまでも終わらないこと。それがこれほど彼女を焦らせているなど、以前なら想像もできなかった。
「次の会議までは、まだ少し時間があります。ほんの少しだけでも、何か――」
「いらないと言ったでしょう」
胸がきゅっと縮こまる。完璧な秘書を演じ続けることが、急にできなくなった。
「でも……ああ、私の大切な友人!」
私はとうとう有能な部下の仮面を脇へ押しやり、心からの言葉を口にした。
「こんなことをしないでください。今すぐ走って買いに行きますから。固くなったパンでも何でもいいです。必ず何かお持ちしますから……!」
麗華さんがこちらを見た。その瞬間、背筋に冷たいものが走る。氷だった。あの瞳には、まるで凍てつく冬そのものが宿っていた。
彼女は長い息を吐き、再び元の姿勢へ戻る。本気で怒っている時の麗華さんは恐ろしい。そういう人なのだ。その人の抱くわだかまりは、何週間も周囲の空気を凍らせてしまう。
それでも彼女は、じっと時計を見つめ続けていた。
「麗華さん……」
私はかすれた声で呟いた。
こんなにも優しくて、真っ直ぐで、気高い人なのに、どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう。ああ、なんて残酷な神様なのだろう。どうして、この人を見捨ててしまったのですか。
胸が痛かった。私はポケットの中を探ったが、何も入っていない。
――馬鹿、馬鹿、馬鹿。
どうして非常用のお菓子一つ持ち歩いていないの。どうしてもっと先回りしてあげられなかったの。どうして、もっと何かしてあげられないの。
気持ちはどこまでも沈み込み、私はただの文鎮のように役立たずな存在になってしまった。祖母が裁縫箱にしまっていた、あの錆びついた針のようだった。どうして捨てなかったのか最後までわからなかったけれど、それと同じくらい、今の私には友人の苦しみをどう和らげればいいのかわからない。
こんな時だけは、魔法でも使えたらと思う。あるいは、神様に直接会いに行けるだけの大胆さが欲しい。
扉を叩いて、こう言うのだ。
――失礼します、神様。少々お願いがあって参りました。私の大切な友人のために、一つだけ願いを聞いていただけませんか。どうか、この人を幸せにしてあげてください。この人には、その資格があります。私が保証します。もし今日が無理なら、それでも構いません。でも、どうか……数日後には。
祖母はよく言っていた。
――辛抱しなさい。時間がすべてを解決してくれる。
けれど、私の可哀想なおばあちゃんは、少しだけ嘘つきだった。最後には目も見えなくなってしまったのだから。だから、今回は間違っているのかもしれない。時間が味方をしてくれるどころか、むしろ私たちを追い詰めているのかもしれない。
だから駄目だ、おばあちゃん。私はただ座って待ったりなんかしない。たとえ怒られたとしても、縛りつけてでも何か食べさせてみせる。
そんな決意を固めた、その時だった。
隣から深いため息が聞こえた。
麗華さんが大きく息を吸い、一瞬だけ止め、それから四秒ほどかけてゆっくりと吐き出す。
……うん。やっぱり、ものすごく怒っている。
それなのに、未だに自制を保っているのだから、本当に驚くべきことだ。
この出張が終わるまで、あと七日。その先の予定は、すべて冷徹なまでに組み上げられていた。飛行機のチケットは手配済み。迎えの運転手も決まっている。帰国後、最初に向かう場所の予定まで完全に固まっていた。
そのすべてを手配したのは私だ。だからこそ、誰よりもよく知っている。この長い出張が終わった後、彼女が何をするつもりなのかを。そして、その計画だけが、今の麗華さんをかろうじて繋ぎ止めているのだということも。
次の会議の時間が近づくにつれ、私は彼女の指先が机を叩き始めたことに気づいた。
とん、……とん、……とん。
その音は次第に速くなり、やがて焦燥そのもののような激しさへと変わる。ついには爪が木の表面を引っかき、削り始めていた。
そして――ついに時計が定刻を告げた。
麗華さんは私を見ることすらなく、勢いよく立ち上がり、そのまま部屋を出ていく。私は置いていかれまいと慌てて後を追った。
ああ、私の大切な友人。どうか約束させてください。私は、あなたを守るためなら何だってします。あなたが背負っているその重荷を、ほんの少しでも軽くできるのなら。
ああ、おばあちゃん。どうか、私に力をください。
この人の手を、決して離さないための力を。
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