表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

76/84

第54章  『無知と狂人』(2)


一時間ほどすると、看護師が小さな皿を二つだけ載せたトレーを持って病室へ入ってきた。


僕の昼食――いや、あれを食事と呼んでいいのなら、だけれど。


味気ないお粥と、固いのか柔らかいのかも分からないゼリー。見た目からして食欲を失わせる代物だった。


トレーがベッドの上に置かれると、僕は思わず眉をひそめた。


「さて」と大輝さんが言う。「ひとまず食事を済ませてください。優一さん、海斗は一人にしてあげたほうがいいでしょう」


それまで黙っていた優一さんがようやく口を開く。


「いや、ここにいるよ。少し海斗と話がしたい」


大輝さんは頷き、看護師――あの丸い顔に黄色い靴下が妙に印象的な小柄な子――と一緒に病室を出ていった。


「そうだ、海斗」


扉を閉める直前、大輝さんが振り返る。


「リハビリが始まる前に全部食べてください。あと二十分ですから」


ようやく扉が閉まる。


僕は隠そうともせず、大きく息を吐いた。


優一さんは黙ったまま僕を見ている。


「どうしたんですか」


「本当に、ちゃんと見えないことも、ちゃんと聞こえないことも気にならないのか」


椅子を引き寄せるたび、床に耳障りな音が響く。


僕は両手を使って重たい体を持ち上げ、ベッドの上で少し姿勢を整えた。


「気にならないわけじゃありません。でも、そのうち慣れる気がするんです。あと何日かすれば、それすら気にならなくなるんじゃないでしょうか。……目が見えないことに気づかない盲人、みたいなものです」


優一さんは吹き出しかけた。


「目が見えないことに気づかない盲人?」


僕は頷いた。


けれど、自分でもうまく説明できそうになかった。


どうせ兄には伝わらないだろうと思い、話題を変える。


「それより、もっと気になっていることがあります」


「何だ?」


少し考え、ゆっくりと言葉を選んだ。


「例えば……何も思い出せないことです。それが一番不安なんです」


優一さんは黙っていた。


その表情には触れず、僕は続ける。


「知りたいことが山ほどあるんです。頭の中は質問だらけなのに、答えが一つもない。それが落ち着かなくて」


「例えば?」


その一言で、胸が急に躍った。


知らないうちに息を大きく吸い込み、自然と笑みがこぼれる。


身を乗り出した拍子に、危うく昼食をひっくり返しかけた。


「本当に教えてくれるんですか?」


突然の勢いに、優一さんは椅子から落ちそうになる。


許可をもらった僕は、もう止まらなかった。


「じゃあ教えてください。僕たちはどこに住んでいるんですか。僕はいくつですか。誕生日はいつですか。兄さんは? 母さんはどんな顔をしているんですか。父さんは? 二人の名前は? 僕はどこの学校に通っていたんですか。勉強はできたんですか。友達はいましたか。自分の部屋はありますか。携帯も持っていましたよね。きっと持っていましたよね。母さんに電話できますか。何かスポーツはしていましたか。事故の前の僕はどんな人だったんですか。性格は、話し方は、歩き方は。はぁ……」


息が続かず、胸を押さえて言葉を止めた。


荒く息をつきながら、それでもまた続ける。


「趣味はありましたか。車はありますか。学校では僕のこと、何て言われているんですか。僕は治りますか。あとどれくらいここにいるんですか。いつまた歩けますか。家に帰りたいんです。少しだけでも連れて帰ってくれませんか。そのあと戻ってきますから。あと、それから――」


気づけば両腕を大きく上下させながら、一つ一つの言葉に身振りまでつけて話していた。


耳が半分聞こえないせいか、以前より声も大きくなっていた。


怒鳴っているわけではない。


でも、自分の本来の声より一段か二段ほど高かった。


あるいは、自分がもともとどんな話し方をしていたのか、それすら忘れてしまったのかもしれない。


一つだけ確かなことがある。


こんな話し方は、本来の僕じゃない。


そう思えたのは、少し話しただけで喉が痛み始めたからだった。


声はだんだん掠れ、まるで声帯そのものが、この使い方に慣れていないようだった。


それでも僕は話し続けた。


話して、話して、話し続けた。


とうとう呆れたのか、それとも圧倒されたのか、優一さんは両手を上げる。


「待て、待て」


ため息をつき、頭を垂れ、額に浮かんでもいない汗を拭う仕草をした。


僕は首を傾げる。


「どうしたんですか」


優一さんは動かなかった。


片手は額に、もう片方は僕へ向けて制止するように上げられたままだ。


「優一……さん」


少し遅れて「さん」を付け足す。


それでも兄は僕を見なかった。


長い沈黙が流れる。


先に動いたのは優一さんだった。


ゆっくり顔を上げると、少しためらった末、僕が差し出していた味気ないゼリーへ手を伸ばし、そのまま食べ始める。


僕の口元にも、小さな笑みが浮かんだ。


「どうして黙ってしまったんですか。それとも、まだちゃんと眠れていないんですか」


「眠る、か……」


優一さんが小さく呟く。


疲れ切ったその顔には、かすかな笑みのようなものが浮かんでいた。


……もっとも、そう見えただけかもしれない。


僕の悪くなった目では、兄は少し遠すぎた。


「いや、お前が変なんだ。少なくとも目を覚ましてからはな。昔のお前はそんなに喋る人間じゃなかった。一文まともに話すだけでも珍しくて、返事なんてほとんど一言だった」


「本当ですか。そんなにひどかったんですか」


優一さんは頷く。


「思っている以上にな。でも、そのほうがよかった」


僕には何と返していいか分からなかった。


「それに、大輝がいるときだけ急に口数が減るのも不思議だ」


僕は頷く。


さすが兄だ。


ちゃんと僕の本当の意図に気づいていた。


僕は腕で体を引き寄せながら兄の近くまでにじり寄り、手招きをする。


そして声を潜めた。


「実は、あの人、あまり好きじゃないんです。それに……大輝さんは嘘つきだと思います」


ごく小さく、誰かがむせたような音が聞こえた気がした。


優一さんが自分の唾液でむせたのだろう。


――気がした、というのは、大輝さんの言うとおり、その耳では半分しか聞こえないからだ。


「大丈夫ですか」


顔を伏せたままなので、表情は見えない。


「大丈夫だ」


ようやく答えたあと、兄は少し身を寄せてきた。


「実はな。僕も大輝は、とんでもなく下手な嘘つきだと思ってる」


僕は頷き、二人ともまた元の位置へ戻る。


「だからこれからは、大輝が何を言ったか全部僕に教えてくれ。本当かどうか、僕が教える」


ちょうどそのとき、僕は灰色がかったゼリーを一口食べた。


思わず眉をしかめる。


ひどい味だった。


「海斗、約束してくれるな?」


兄は念を押した。


僕は最後まで飲み込んでから兄を見つめ、やがて視線を逸らした。


「約束します」


嘘だった。


兄に何かを話すつもりなんてなかった。


信用していないからじゃない。


日に日に痩せ細り、疲れ果てていく兄に、これ以上心配を増やしたくなかっただけだ。


「僕を信じてください」


……結局のところ、僕も相当な嘘つきなのかもしれない。


そのとき、ふと思いつく。


「信用の証として、これを手伝ってください」


食べかけのゼリーを兄へ差し出した。


意味はすぐ伝わったらしい。


でも兄は首を振る。


「病人はお前だ。食べなきゃいけないのも、お前だろ」


「これ、本当にまずいんです。一人で食べると余計につらくて。お願いします」


優一さんは疲れ切った顔で僕を見つめる。


それでも僕は笑い、半ば無理やりベッドの端へゼリーを置いた。


今度はお粥を一さじ口へ運ぶ。


「それに」


食べながら言う。


「大輝さん、兄さんのことは信用するなって言っていました」


優一さんはすぐには答えなかった。


ゼリーを手に取り、膝の上へ置いてからようやく口を開く。


「……それで?」


「兄さんと僕は、お互い嫌い合っているって。本当ですか」


兄はゆっくり一口食べる。


長い沈黙のあと、小さく頷いた。


「……ああ。もし記憶が戻れば、お前は僕を嫌うかもしれない」


でも、その言葉を聞いても、思っていたほど動揺はしなかった。


胸に広がったのは、不思議なくらい冷たい静けさだった。


「そうですか。でも……」


僕は天井を見上げる。


「今の僕には何も思い出せません。今朝テレビで見たんです。幸せなのは、無知な人間と狂った人間だけだって。たぶん今の僕は、そのどちらかなんでしょう。記憶がないのも頭を打ったせいかもしれないし、ただの一時的なものかもしれません」


「一時的?」


優一さんが聞き返す。


僕は頷き、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「ええ。一時的な僕です」


兄を指差す。


「だから今のうちに楽しんでください。もしかしたら数日後には全部思い出して、僕は今の僕じゃなくなるかもしれません。そのときは、兄さんともこんなふうには話せなくなるでしょう」


その瞬間、優一さんは僕のゼリーで盛大にむせた。


「だから今だけは、弟とのおしゃべりを楽しんでください」


「どうして、お前は……」


「だって兄さんが言ったじゃないですか。事故の前の僕たちは仲が良くなかったって。でも、それは仕方ありません」


僕は静かに笑う。


「だから今だけ楽しみましょう。本当の兄弟として過ごせる、このわずかな時間を。恨みも何も忘れて」


少し意地悪く笑ってみせた。


「もしかしたら明日には、兄さんを殺そうとしているかもしれませんし」


優一さんは食べる手を止め、疲れ切った目で僕を見つめた。


まるで、自分の運命を受け入れようとしている人のような眼差しだった。


「でも今日は違います」


僕は続ける。


「今日は、ただの兄弟です」


兄をまっすぐ見つめる。


その目には、心からの優しさだけを込めた。


「だから最後のわがままを聞いてください。僕が無知でも狂ってもいられなくなる前に。幸せでいられなくなる前に」


僕は小さく頷いた。


「本当の兄弟として過ごしましょう。僕たちがお互いを憎むようになる、その前に。」

わざわざ読んでくださる皆様、本当にありがとうございます!


皆様の「いいね」やブックマークが、執筆の大きな励みになっています。


ぜひ、各話への感想やコメントもお気軽にお寄せください!


また、より多くの方にこの作品を届けるために、評価(★5つ)をつけて応援していただけると嬉しいです。星が増えれば増えるほど、更新ペースを上げてたくさん執筆していきます!!


それでは、引き続き作品をお楽しみください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
espero el reencuentro de kaito y reika
Buen capítulo espero el próximo
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ