第54章 『無知と狂人』(2)
一時間ほどすると、看護師が小さな皿を二つだけ載せたトレーを持って病室へ入ってきた。
僕の昼食――いや、あれを食事と呼んでいいのなら、だけれど。
味気ないお粥と、固いのか柔らかいのかも分からないゼリー。見た目からして食欲を失わせる代物だった。
トレーがベッドの上に置かれると、僕は思わず眉をひそめた。
「さて」と大輝さんが言う。「ひとまず食事を済ませてください。優一さん、海斗は一人にしてあげたほうがいいでしょう」
それまで黙っていた優一さんがようやく口を開く。
「いや、ここにいるよ。少し海斗と話がしたい」
大輝さんは頷き、看護師――あの丸い顔に黄色い靴下が妙に印象的な小柄な子――と一緒に病室を出ていった。
「そうだ、海斗」
扉を閉める直前、大輝さんが振り返る。
「リハビリが始まる前に全部食べてください。あと二十分ですから」
ようやく扉が閉まる。
僕は隠そうともせず、大きく息を吐いた。
優一さんは黙ったまま僕を見ている。
「どうしたんですか」
「本当に、ちゃんと見えないことも、ちゃんと聞こえないことも気にならないのか」
椅子を引き寄せるたび、床に耳障りな音が響く。
僕は両手を使って重たい体を持ち上げ、ベッドの上で少し姿勢を整えた。
「気にならないわけじゃありません。でも、そのうち慣れる気がするんです。あと何日かすれば、それすら気にならなくなるんじゃないでしょうか。……目が見えないことに気づかない盲人、みたいなものです」
優一さんは吹き出しかけた。
「目が見えないことに気づかない盲人?」
僕は頷いた。
けれど、自分でもうまく説明できそうになかった。
どうせ兄には伝わらないだろうと思い、話題を変える。
「それより、もっと気になっていることがあります」
「何だ?」
少し考え、ゆっくりと言葉を選んだ。
「例えば……何も思い出せないことです。それが一番不安なんです」
優一さんは黙っていた。
その表情には触れず、僕は続ける。
「知りたいことが山ほどあるんです。頭の中は質問だらけなのに、答えが一つもない。それが落ち着かなくて」
「例えば?」
その一言で、胸が急に躍った。
知らないうちに息を大きく吸い込み、自然と笑みがこぼれる。
身を乗り出した拍子に、危うく昼食をひっくり返しかけた。
「本当に教えてくれるんですか?」
突然の勢いに、優一さんは椅子から落ちそうになる。
許可をもらった僕は、もう止まらなかった。
「じゃあ教えてください。僕たちはどこに住んでいるんですか。僕はいくつですか。誕生日はいつですか。兄さんは? 母さんはどんな顔をしているんですか。父さんは? 二人の名前は? 僕はどこの学校に通っていたんですか。勉強はできたんですか。友達はいましたか。自分の部屋はありますか。携帯も持っていましたよね。きっと持っていましたよね。母さんに電話できますか。何かスポーツはしていましたか。事故の前の僕はどんな人だったんですか。性格は、話し方は、歩き方は。はぁ……」
息が続かず、胸を押さえて言葉を止めた。
荒く息をつきながら、それでもまた続ける。
「趣味はありましたか。車はありますか。学校では僕のこと、何て言われているんですか。僕は治りますか。あとどれくらいここにいるんですか。いつまた歩けますか。家に帰りたいんです。少しだけでも連れて帰ってくれませんか。そのあと戻ってきますから。あと、それから――」
気づけば両腕を大きく上下させながら、一つ一つの言葉に身振りまでつけて話していた。
耳が半分聞こえないせいか、以前より声も大きくなっていた。
怒鳴っているわけではない。
でも、自分の本来の声より一段か二段ほど高かった。
あるいは、自分がもともとどんな話し方をしていたのか、それすら忘れてしまったのかもしれない。
一つだけ確かなことがある。
こんな話し方は、本来の僕じゃない。
そう思えたのは、少し話しただけで喉が痛み始めたからだった。
声はだんだん掠れ、まるで声帯そのものが、この使い方に慣れていないようだった。
それでも僕は話し続けた。
話して、話して、話し続けた。
とうとう呆れたのか、それとも圧倒されたのか、優一さんは両手を上げる。
「待て、待て」
ため息をつき、頭を垂れ、額に浮かんでもいない汗を拭う仕草をした。
僕は首を傾げる。
「どうしたんですか」
優一さんは動かなかった。
片手は額に、もう片方は僕へ向けて制止するように上げられたままだ。
「優一……さん」
少し遅れて「さん」を付け足す。
それでも兄は僕を見なかった。
長い沈黙が流れる。
先に動いたのは優一さんだった。
ゆっくり顔を上げると、少しためらった末、僕が差し出していた味気ないゼリーへ手を伸ばし、そのまま食べ始める。
僕の口元にも、小さな笑みが浮かんだ。
「どうして黙ってしまったんですか。それとも、まだちゃんと眠れていないんですか」
「眠る、か……」
優一さんが小さく呟く。
疲れ切ったその顔には、かすかな笑みのようなものが浮かんでいた。
……もっとも、そう見えただけかもしれない。
僕の悪くなった目では、兄は少し遠すぎた。
「いや、お前が変なんだ。少なくとも目を覚ましてからはな。昔のお前はそんなに喋る人間じゃなかった。一文まともに話すだけでも珍しくて、返事なんてほとんど一言だった」
「本当ですか。そんなにひどかったんですか」
優一さんは頷く。
「思っている以上にな。でも、そのほうがよかった」
僕には何と返していいか分からなかった。
「それに、大輝がいるときだけ急に口数が減るのも不思議だ」
僕は頷く。
さすが兄だ。
ちゃんと僕の本当の意図に気づいていた。
僕は腕で体を引き寄せながら兄の近くまでにじり寄り、手招きをする。
そして声を潜めた。
「実は、あの人、あまり好きじゃないんです。それに……大輝さんは嘘つきだと思います」
ごく小さく、誰かがむせたような音が聞こえた気がした。
優一さんが自分の唾液でむせたのだろう。
――気がした、というのは、大輝さんの言うとおり、その耳では半分しか聞こえないからだ。
「大丈夫ですか」
顔を伏せたままなので、表情は見えない。
「大丈夫だ」
ようやく答えたあと、兄は少し身を寄せてきた。
「実はな。僕も大輝は、とんでもなく下手な嘘つきだと思ってる」
僕は頷き、二人ともまた元の位置へ戻る。
「だからこれからは、大輝が何を言ったか全部僕に教えてくれ。本当かどうか、僕が教える」
ちょうどそのとき、僕は灰色がかったゼリーを一口食べた。
思わず眉をしかめる。
ひどい味だった。
「海斗、約束してくれるな?」
兄は念を押した。
僕は最後まで飲み込んでから兄を見つめ、やがて視線を逸らした。
「約束します」
嘘だった。
兄に何かを話すつもりなんてなかった。
信用していないからじゃない。
日に日に痩せ細り、疲れ果てていく兄に、これ以上心配を増やしたくなかっただけだ。
「僕を信じてください」
……結局のところ、僕も相当な嘘つきなのかもしれない。
そのとき、ふと思いつく。
「信用の証として、これを手伝ってください」
食べかけのゼリーを兄へ差し出した。
意味はすぐ伝わったらしい。
でも兄は首を振る。
「病人はお前だ。食べなきゃいけないのも、お前だろ」
「これ、本当にまずいんです。一人で食べると余計につらくて。お願いします」
優一さんは疲れ切った顔で僕を見つめる。
それでも僕は笑い、半ば無理やりベッドの端へゼリーを置いた。
今度はお粥を一さじ口へ運ぶ。
「それに」
食べながら言う。
「大輝さん、兄さんのことは信用するなって言っていました」
優一さんはすぐには答えなかった。
ゼリーを手に取り、膝の上へ置いてからようやく口を開く。
「……それで?」
「兄さんと僕は、お互い嫌い合っているって。本当ですか」
兄はゆっくり一口食べる。
長い沈黙のあと、小さく頷いた。
「……ああ。もし記憶が戻れば、お前は僕を嫌うかもしれない」
でも、その言葉を聞いても、思っていたほど動揺はしなかった。
胸に広がったのは、不思議なくらい冷たい静けさだった。
「そうですか。でも……」
僕は天井を見上げる。
「今の僕には何も思い出せません。今朝テレビで見たんです。幸せなのは、無知な人間と狂った人間だけだって。たぶん今の僕は、そのどちらかなんでしょう。記憶がないのも頭を打ったせいかもしれないし、ただの一時的なものかもしれません」
「一時的?」
優一さんが聞き返す。
僕は頷き、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ええ。一時的な僕です」
兄を指差す。
「だから今のうちに楽しんでください。もしかしたら数日後には全部思い出して、僕は今の僕じゃなくなるかもしれません。そのときは、兄さんともこんなふうには話せなくなるでしょう」
その瞬間、優一さんは僕のゼリーで盛大にむせた。
「だから今だけは、弟とのおしゃべりを楽しんでください」
「どうして、お前は……」
「だって兄さんが言ったじゃないですか。事故の前の僕たちは仲が良くなかったって。でも、それは仕方ありません」
僕は静かに笑う。
「だから今だけ楽しみましょう。本当の兄弟として過ごせる、このわずかな時間を。恨みも何も忘れて」
少し意地悪く笑ってみせた。
「もしかしたら明日には、兄さんを殺そうとしているかもしれませんし」
優一さんは食べる手を止め、疲れ切った目で僕を見つめた。
まるで、自分の運命を受け入れようとしている人のような眼差しだった。
「でも今日は違います」
僕は続ける。
「今日は、ただの兄弟です」
兄をまっすぐ見つめる。
その目には、心からの優しさだけを込めた。
「だから最後のわがままを聞いてください。僕が無知でも狂ってもいられなくなる前に。幸せでいられなくなる前に」
僕は小さく頷いた。
「本当の兄弟として過ごしましょう。僕たちがお互いを憎むようになる、その前に。」
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