第53章 『夢うつつ』
海斗の視点
目を覚ましたとき、僕は奇妙な感覚と、全身が壊れてしまったような疲労に包まれていた。まるで病に伏しているようだった。手足も皮膚も理由のわからない痛みに苛まれ、どうしようもない眠気だけがまとわりついてくる。
汗びっしょりで飛び起きても、意識を保てるのはほんの数分。そのあとはまた深い眠りへ引きずり込まれ、曖昧な夢の中を何度も行き来した。けれど目が覚めるたび、その夢の内容だけは何ひとつ思い出せなかった。
いや、問題はそこではなかった。
僕は何ひとつ思い出せなかったのだ。
年齢も、自分が誰なのかも、名前も、ここがどこなのかも。
話せるようになるまでにも、ずいぶん時間がかかった――少なくとも僕にはそう感じられた。言葉そのものを忘れていたわけではない。ただ、舌が腕と同じように痺れ切っていて、思うように動かなかった。
運の悪いことに、その混乱した状態が丸二日も続いた。
うとうとと眠り続け、何にも縋れないまま、存在しないはずの声を聞いていた。気づけば誰もいない相手と会話をしていたり、見知らぬ顔や得体の知れない影を眺めていたりした。それらがすべて自分の頭の中だけの幻だったと理解したのは、ずっとあとのことだ。
高熱にうなされるときのようなものだった。
僕は譫妄の中にいて、その中では自分自身さえ見つけられなかった。
うまく説明できない。
ただ一つ確かなのは、心も身体も、どちらもひどく壊れてしまっていたということだけだった。
さっきも言ったように、正気を取り戻すまでにはかなり時間がかかった。
けれど、ようやく意識がはっきりしたその瞬間、現実は容赦なく僕を打ちのめした。
いっそ、この混乱の中から目覚めないほうがよかった――そう思ってしまうほどに。
やがて、医者だと思われる人物が二人の看護師を連れて白い病室へ入ってきて、僕に何があったのか説明しようとした。
――思われる、と言ったのは、その人が最後まで名乗らなかったからだ。
一人の看護師は背が高く、くせの強い髪をしていて、丈の短い白衣を着ていた。もう一人は小柄で丸顔、白衣は長めだったが、その裾から鮮やかな黄色い靴下が覗いていた。
……いや、橙色だっただろうか。
まだ視界がぼやけていて、自信はなかった。
二人が話している最中、片方の看護師がその医者を「大輝先生」と呼んだような気もしたが、そのときは気にも留めなかった。
もっとも、彼らの話はほとんど耳に入ってこなかった。
言葉はどれも遠く、何枚もの布越しに聞こえてくるようにぼやけていたし、二言三言聞き取るたびに、僕の意識は別のことへ逸れてしまう。
せめて、自分の名前だけでも思い出せないだろうか。
医者は名乗らなかったし、偶然僕の名前を口にしてくれることもなかった。
(僕の名前……名前さえわかれば、少しは落ち着ける気がするのに)
結局、どうにか拾い集められた言葉は、断片ばかりだった。
事故。
車。
二週間。
昏睡。
――昏睡。
その一語だけで、僕の胸は大きく波打った。
聞き間違いでなければ、僕は二週間近く意識を失っていたらしい。
……
何と言えばいいのかわからなかった。
どう受け止めればいいのかも。
何ひとつわからなかった。
自分自身のことさえ。
……はあ。
それから長いこと黙り込んだ末、ようやく口にしたのは、「一人にしてほしい」という願いだけだった。
だが部屋を出る間際、医者は兄を呼んでくると言った。
優一という名前で、僕より数歳年上らしい。
看護師たちの話では、とても僕を大切に思っている人だという。
そして今、その〈兄〉が僕の目の前に立っていた。
正直に言えば、まったく覚えていなかった。
だから、僕は尋ねた。
「大輝先生は、あなたが僕の兄だと言っていました。本当なんですか」
馬鹿げた質問だとは思っていた。
でも、それは彼に聞いたというより、自分自身へ言い聞かせるための確認だった。
(兄。この人は僕の兄なんだ)
そう何度も心の中で繰り返し、自分に信じ込ませる。
それを受け入れた途端、霞んでいた視界の中で、これから優一さんと呼ぶことになるその人の姿が、少しだけ輪郭を取り戻した。
二十代半ばほどだろうか。
背が高く、黒髪で、眼鏡をかけている。
青白い顔で、その場にじっと立ち尽くしていた。
距離があったせいで、どんな表情を浮かべているのかまではよく見えなかった。
ふと、自分もこの人に似ているのだろうかと思う。
兄弟なのだから、同じ血を引く者同士、そんなに違うはずはない。
そのときだった。
僕があまりにも長く見つめていたせいで、何かの呪縛でも解けたかのように、優一さんがようやく動いた。
――そう思った矢先だった。
一歩踏み出そうとした瞬間、不意に脚が崩れ落ち、そのまま床へ倒れ込んだ。
派手な転倒ではない。
まるで急に脚の感覚がなくなったような、不自然な崩れ方だった。
「大丈夫ですか!?」
大輝先生がすぐに駆け寄る。
気づけば僕まで、とっさに手を伸ばしていた。
届くはずもない距離なのに。
「大丈夫ですか」
優一さんは大輝先生の手をそっと払うと、立ち上がろうとはせず、そのまま床へ座り込んだ。
「大丈夫です。もう大丈夫です」
そう答えたものの、その顔色は悪く、ひどく疲れ切っているように見えた。
胸の奥が妙にざわつく。
この感情が何なのか、自分でもわからない。
ただ、それが決して心地よいものではないことだけはわかった。
その苦しさを振り払いたくて身体を動かそうとしたが、脚は思うように力が入らない。
ひどく弱っていた。
腕も似たようなものだったが、それでも両腕で身体を支えながら、なんとかベッドから降りようともがく。
その動きに気づいた大輝先生が、両手を上げた。
「おっと、おっと。まだ動いちゃだめだ」
「でも……」
肩を軽く押され、僕は再びベッドへ横たえられる。
「何をするつもりだったんだ?」
答えられず、僕は肩をすくめるしかなかった。
すると、床に座ったままの優一さんが、じっと僕を見つめながら尋ねた。
「……僕のことが心配なのか?」
「わかりません」
僕は正直に答えた。
「そうか……でも、本当に大丈夫だ。もう大丈夫だから」
そう言って額を押さえる。
「ここ二日、一睡もしてないだけなんだ」
「だろうね」
大輝先生が苦笑混じりに応じた。
「……二日」
思わず僕は呟く。
優一さんは静かに頷いた。
「慌ただしい二日だったよ。あんな冷酷で怒りっぽい女を必死に遠ざけてたんだから。きっと顔を合わせた瞬間、首をはねられる。今度はどんな言い訳をすればいいんだか。本気で怒ってたんだ、電話越しでもわかるくらいに。間違いなく殺される。それに父さんのほうも――」
「優一」
大輝先生が穏やかに遮る。
「君は本当に寝たほうがいい」
きっと口にしてはいけないことを話しかけていたのだろう。
もっとも、僕には何を聞いたところで思い出せる記憶などないのだけれど。
大輝先生は今度は僕へ向き直った。
「君だって大変なんだ。焦る必要はない」
僕は頷く。
「そうだよ、海斗。ゆっくりでいい」
その瞬間だった。
僕は優一さんを凝視した。
数日前から探し続けていたものが、その一言の中にあった。
――海斗。
今、この人はそう言った。
それが僕の名前なのだ。
不意に、胸の奥が懐かしさで満たされた。
優一さんが、不思議そうな、それでいて何かを期待するような目で僕を見る。
「どうした?」
僕はゆっくりと唇を動かした。
「か……海斗」
その言葉は砂利のようだった。
舌の上に小石がいくつも転がっていて、まともに発音できない。
「どうしたんだ?」
大輝先生が尋ねる。
それでも僕は壊れたレコードのように繰り返した。
「海斗……」
少しずつ、その響きが身体に馴染んでいく。
海斗。
海斗。
海斗。
そうして、その名前がようやく自分のものになったとき。
僕は笑った。
心の底から笑った。
嬉しかったのだ。
「海斗! それが僕の名前だ!」
顔を上げると、二人は驚きとも痛ましさともつかない表情で、ただ僕を見つめていた。
でも、そんなことはどうでもよかった。
僕はただ笑い続けた。
海斗。
いい名前だ。
長い時間をかけて、ようやく取り戻した名前なのだから。
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