第52章 『相反する感情』(2)
「どうして生きてるんだ?」
いつもの小さな倉庫で大輝と顔を合わせて、僕が最初に口にしたのはその一言だった。
消毒液の匂いが吐き気を催させる。積み上げられた段ボールのせいで、もともと狭い空間はいっそう息苦しく感じられた。長時間立ち続けていたせいか、足首には鈍い痛みが走っている。乏しい照明と、その青白い光が胃の奥をむかつかせた。そして夜の冷気――忌々しいほどの寒さが、身体を勝手に震わせていた。
「怒ってるのは分かってる」
大輝が口を開く。
「怒ってる?」
僕は途中で遮った。
笑いそうになった。実際、小さく鼻で笑うような息まで漏れたが、首を横に振る。
「別に怒ってない。ただ時間を無駄にしたくないだけだ。さっさと答えろ。どうして生きてる?」
髪をかき上げる。
大輝は床を見つめたまま、信じられないものを見るように首を左右に振った。
「分からない」
返ってきたのは、それだけだった。
「分からない? 医者のくせにか」
僕が笑うと、大輝の目に怒りが宿った。
「分からないんだよ。どうしてああなったのか。説明のつかないことなんていくらでもある。少なくとも今の僕には、判断するだけの情報が足りない」
「立派な答えだな。まったく」
不意に沈黙が落ちた。
すべて台無しだった。
海斗が目を覚ましたことで、計画は根底から崩れ去った。それだけじゃない。麗華はすでに後見権を手にしている。つまり、面会の可否も、別の病院への転院も、すべて彼女の判断次第だ。
どうやってあの一件を隠し通せというんだ。
もう終わりだった。
「僕が理解できないのは」
再び口を開く。
「半分目を覚ましてた時に、どうして始末しなかったのかってことだ」
大輝が目を細めた。
「何が言いたい?」
「今さら善人ぶるのはやめよう。何を言ってるかくらい分かるだろ」
今度は大輝が笑った。
だがその笑いはかすれていて、どこか引きつっていた。
「言うのは簡単だ。何をしろっていうんだ? 他の医者が帰った隙に、顔へ枕でも押し付けろと?」
「最後までやるべきだった」
大輝はよろめき、そのまま床のパレットに腰を落とした。
「気づいた時には、お前の弟はもう目を開けてたんだ。どう反応しろっていう? 頭が真っ白になった」
「だったら、どうして当たり前のことをしなかった」
僕は歩み寄り、その前にしゃがみ込んだ。
答えを聞きたかった。
すぐ近くで。
そして答えを聞いたら、そのまま頬を張ってやりたかった。
こんな話をしても何も変わらないことくらい分かっている。それでも腹の底に溜まった苛立ちは収まらなかった。大輝に責任を認めさせたかった。失敗したのは自分だと口にさせたかった。
要するに、誰かの首を切りたかったのだ。
「だから言っただろ。目を覚ましたと分かった瞬間、どうすればいいのか分からなかったんだ。看護師をお前のところへ向かわせてた。院内にいるのは知ってたし、普通なら最期の別れのために家族へ知らせる。手順通りに動いてただけだ」
僕は瞬きもせずに見つめ続けた。
大輝がため息をつく。
「でも看護師はお前を見つけられなかった。それで報告しようと病室へ戻ったんだ。そしたら見た。お前の弟が目を覚まして、生きていたのを。慌てて飛び出していって、『みんなを呼んできます!』って叫んだ。止める暇なんてなかった」
大輝はようやく顔を上げた。
だが僕の表情が歪むのを見るなり、向こうも苛立ち始める。
「くそっ! じゃあどうしろって言うんだよ!」
その怒鳴り声に、僕は思わず肩を震わせた。
怖かったわけじゃない。
誰かに聞かれるのがまずかっただけだ。
「声を落とせ」
立ち上がり、大きく息を吐く。
怒りは消えなかったが、少なくとも理性は少し戻っていた。
「黙らせればよかっただろ。お前の病院なんだから」
大輝は苦々しく立ち上がった。
「親父の病院だ。それに医者全員を思い通りにできるわけじゃない。大半の職員なら動かせる。でも全員の口を塞ぐなんて無理だ」
力が抜けた。
今度は僕がパレットへ腰を下ろす。
両手で顔を覆い、考えることをやめた。
沈黙は長く重かった。
それを破ったのは大輝だった。
「これからどうする?」
僕は動かなかった。
「分からない」
再び沈黙。
やがて大輝が言う。
「もう生かしておくのはどうだ?」
顔から手を離し、馬鹿を見るような目で見返した。
「聞かせてくれ」
「考えたんだ。もう一度殺そうとするのは危険すぎる。絶対に疑われる」
僕は皮肉っぽく笑った。
「全部話されたらどうする?」
大輝は真っ直ぐ僕を見据えた。
「話さない」
あまりにも断定的な口調だった。
それが気に食わない。
「どうしてそんなことが言える。それに問題はもっと大きい。親父と麗華だ」
片方には弟を殺せと命じた父親がいる。
もう片方には後見権を手にした麗華がいる。
海斗が目を覚ました今、二人がどう動くのか予想もつかなかった。
長いこと考え込む。
「それで、どうするつもりだ?」
大輝が尋ねた。
正直なところ、自分でも答えを持っていなかった。
「だから分からない。それだけが本当だ。とりあえず海斗に会う。何か決める材料になるかもしれない」
だが問題の本質はそこではない。
やる価値があるのかどうかだ。
弟が死んだら何が起こるのか。
生かしたままなら何が起こるのか。
そんなことを考えていると、大輝が疲れたような目でこちらを見て、小さく呟いた。
「優一さん……あんた、いい人じゃないよな」
唐突な問いだった。
何を意図しているのかも分からない。
それでも僕は頷いた。
「違うな」
翌日。
昼近くになって、僕は弟の病室の前に立っていた。
隣には大輝がいる。
時間が時間だけに、特別な許可はすでに取ってあった。
理由は分からない。
だがひどく疲れていた。
今朝になって、その倦怠感がぶり返したように強くなっていた。
大輝がドアを開ける。
中へ入って最初に目に入ったのは海斗だった。
ベッドの上で身体を起こし、病室に置かれたテレビを見つめている。
本当に番組を見ているのか、それともただ視線を向けているだけなのかは分からなかった。
「海斗さん」
大輝が呼びかける。
だが海斗は反応しない。
視線は画面に向けられたままだ。
大輝はベッド脇のロッキングチェアに置かれていたリモコンを手に取り、テレビの電源を切った。
それでも海斗は、大輝が近づいていたことに気づいていなかったらしい。
ようやくこちらへ顔を向ける。
「……誰ですか」
かすれた声だった。
その声を聞いた瞬間、胸の奥に奇妙な感覚がよぎった。
最後に聞いてから、何年も経ったような気がした。
大輝はベッドの反対側へ回り込む。
「海斗さん。優一さんがお見舞いに来ました」
海斗は声を頼りにするように大輝の方を向いた。
それから再び僕を見る。
目を細める。
焦点を合わせようとしているようだった。
何と言えばいいのか分からない。
「……もう少し近くに来てもらえますか。今は見えづらくて」
僕は大輝を見る。
大輝は肩をすくめた。
「後遺症だ。あとで説明する」
迷っている場合ではなかった。
僕はまっすぐ歩み寄り、海斗のすぐ近くまで進む。
ようやく顔が見える距離になって、海斗は僕をじっと見つめた。
上から下まで観察するように視線を走らせる。
そして最後に、かすかに首を横へ振った。
「僕のこと、覚えてないのか」
海斗は寂しそうな表情を浮かべた。
「覚えていません」
その答えを聞いた時、自分の中に何かが生まれた気がした。
だが、それが何なのかは分からない。
昔から、自分の感情を理解するのは苦手だった。
「でも……大輝さんが、あなたは僕の兄だと言っていました。本当なんですか?」
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